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MUD_BRAVER  作者: 笑藁
五章 鏡と硝子
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泥被りの勇者(中)

 梅雨が始まった。

 連日降り続く雨と、そこから生まれる湿気は、時に人から活力を奪う。とりわけ外での遊びを好む小学生にとって、大事な遊びの機会を奪われるのは辛い。

 この時、東京は三日連続の雨に見舞われていた。金土日、週末の三日、一度も太陽は顔すら覗かせなかった。

 そんな中、純はゲーム会場の公園に訪れていた。アスファルトを跳ねる雨に靴下まで濡れていく中、公園全体をじっと見回し続ける。

 暫く見た後、公園に入って全体をゆっくり歩き回った。黒いスニーカーは泥に塗れ、茶色に染まっていく。濡れた靴下のグチャグチャとした感触も気にせず、公園全てをくまなく見て、触れる。


「明日……」


 純は、まだ腫れの引かない頬を撫でながら、母とのやり取りを思い出す。

 流石にあれだけ殴られれば、母とて尋常じゃないと勘づく。だが、母親が干渉したとしても、事態が好転する可能性は低かった。何しろ純は、彼ーータツヤの『環境』の事を知った。純を殴った時の言動を不思議に思い、軽く調べた。それだけで分かる程度には、タツヤは悪目立ちしているらしい。彼の『親』の事を思えば、事態の悪化もあり得る。愛花の保護者も期待出来ない。彼女の話によると、そもそも家に帰って来る事が殆どないらしい。

 大人が介入するだけで自体が解決する程、子供の世界も単純に出来ていない。しかし、これ以上息子への信頼だけで押し通すのも難しい。

 だから純は、母に言った。

『月曜日で解決しなければ、現在の事を全て話す』と。つまり、自ら事態を収めるには、是が非でも月曜日に、タツヤに勝たなければならない。その為には、利用出来る者は全て利用する。


「……大丈夫」


 純は自分に言い聞かせるように呟いた。



 *



「今日で最後かもしれない」

「……は?」


 翌日、月曜日。純は昼休みに愛花の教室に行くと、愛花とタツヤ達に母の事を話した。


「いや……それって良い事じゃないの?」


 最初に口を開いたのは、愛花だった。

 彼女からすれば、純が痛めつけられる日々が終わるという風にしか聞こえなかった。どう考えても朗報でしかない。だが、純は思い詰めたような表情をしている。母親から学校に話が行けば、大人からの助けが得られるのだ。そして、本来愛花は『そういう方法』の恩恵に与る少女だ。


「ううん。多分そうはならない。……だよね」


 純は首を横に振ると、タツヤの方を見た。タツヤは苦虫を嚙み潰したような顔で、腕を組む。


「まあ、確かにマツダさ――父ちゃんに知られたら、俺もヤだけど」


 タツヤの取り巻き四人も、口々に言葉を発する。


「チクられたら困るのは、誰だってそうだろ」

「むしろそれって、俺らが懸念するべき事だったんじゃねえの」

「いやまあ、言われてみれば……何かコイツ、チクらなさそうが気がして……」

「要するに、お前が言いたい事は――」


 タツヤが純に迫る。一学年下とは思えぬ巨体が間近に来ても、純は身じろぎ一つしなかった。


「ケリは自分でつけたいって事だろ? それなら俺も賛成だよ」


「それで」と、タツヤは純の肩に手を置いた。


「終わりにしてもいいけどさ……そうなったら、今度はコイツだな。でもって……お前にも付き合ってもらうか」

「どういう事?」


 タツヤの言った事を、すぐには誰も理解出来なかった。ただ一つ、彼が純を見る邪悪とも言える目だけは、全員に異常を伝えていた。


「タッちゃん……?」


 タツヤは不安そうに自分を見る四人の取り巻きに、穏やかな笑みを向ける。


「俺さ……お前らの事は好きだよ。お前らはちゃんと『従ってる』。強い奴に、弱い奴は従うしかない。そうあるべきなのに……コイツはそうじゃない。最初は俺、コイツで好きに遊べるならいいと思ってた。けどさ……今はコイツを俺に従わせないと……収まらねえんだよ」


 忌々しげに純を見るタツヤ。生意気にも反抗し続けている以上、恨まれるのは仕方がない。それは純も割り切っている。

 しかしーー『付き合ってもらう』。この言葉だけは、見逃せない。これはつまり、『愛花へのいじめに参加しろ』という意味だ。どうしても純を従わせたいタツヤは、ここにきて最悪の条件を提示した。純がそれを呑まざるを得ない事を利用して。


「構わないよ」

「えっ……?」


 だが純は、あっさり条件を呑んだ。目の色一つ変えず、眉一つ動かさず。


「けど一つ、追加のルールが欲しい」

「追加ルール……?」


 物怖じしない純に、いつの間にか、タツヤの方が及び腰になっていた。


「僕たちは今、地面に円を描いて、それを土俵に見立てて、5本勝負で相撲を取っている。で、土俵代わりの円についてなんだけど……この円の場所を、『一戦毎に』変えたいんだ」

「……は?」


 純は提示した追加ルール。その意味がわからず、その場にいた誰もが首を傾げた。

 当然だ。場所を変えたところで、狭い公園の中であるのは変わらない。一面砂の地面があるだけ。

 しかし、それは『乾いている場合』の話。

 純は、包帯に覆われた右手の人差し指を見せた。木曜日のゲームで起こった事をタツヤに思い出させる為に。


「あの公園は水はけが悪いから、三日も雨が降れば地面はドロドロになってる。そんなところで同じ場所で取り組み続けたら、多分歩く事もままならなくなるはず」

「ドロドロ……ね」


 タツヤと取り巻きたちが、ニヤニヤと笑い出す。

 木曜日のゲームのこと。前日の夕立で水分を含み緩くなった地面で相撲をした為に、三戦目の時点でかなり滑りやすくなっていた。その結果、純はタツヤとぶつかる前に転び、自滅した。右手はその後の『遊び』の際に、爪が剥がれたせいだ。ここでタツヤたちが笑ったのは、その時の事を思い出したからだ。そして彼らからすれば、純の提案は『転んで負けるのを避けるため』と聞こえた。


「……まあいいよ」

「タッちゃん!?」

「多少そっちがやりやすくなったって、お前の力じゃ俺を倒せないし。どうやったって無駄だって……教えてやるよ」


 タツヤが拳を打ち鳴らすと共に、嗜虐的な笑みを浮かべる。


「大丈夫なの?」


 愛花が心配そうな目で訊ねる。純の表情と声音は、やはり変わらない。


「多分大丈夫。条件は整ってるはず」



 *



「うーわ……」

「こりゃひでぇ……」


 放課後。いつもの公園に来たタツヤ達は、その惨状に眉を顰めた。

 三日も雨が降った挙句、今日も空は灰色の雲に覆われている。ただでさえ水はけの悪い公園は、水を張った田んぼのようになっていた。


「だから一戦ごとに場所を変えた方が良いって言ったでしょ?」


 彼らより少し先に来ていた純は、木の棒を持ちながらタツヤに近付く。地面には既に、半径五メートル程の円が一つ描かれていた。


「今線引いたあそこが、一番マシだと思う。他はどれだけ気を付けても、水たまりを避けられないからね」

「俺は別に何処でもいいけど。泥だらけで稽古するなんてこともあったし。それより……お前ら、口出しすんなよ」


 タツヤは、取り巻き四人を睨んだ。彼の眼に圧されて、四人は引きつった笑みと共に両手を横に振る。

 少し前、四人はタツヤに対して『場所が悪いなら中止にすればいい』と提案していた。だが、タツヤはそれを蹴った。既に彼にとって、純とのゲームは『遊び』ではなくなっていた。純を完膚なきまでに叩きつぶし、自分に頭を垂れさせる。この一週間、純はタツヤに対して一本すら取れていない。それでも純は折れず、今もこうして抗おうとしている。タツヤたちが示したゲームの『ルール』に乗っ取って。

 即ち、タツヤは純に対して、同じことをやろうとしていた。そうでもしなければ、恐らく彼は折れないからだ。


「うわっと……!」


 少し前を歩く純が、泥濘に足を滑らせた。前につんのめりはしたが、どうにか転ぶ事は避けた。

 後ろで取り巻き達がクスクス笑いを浮かべる。タツヤとしても、内心では笑いたくて仕方なかった。タツヤが中止を受け入れなかったのは、ルールに乗っ取った上で勝つ事に拘っただけではない。純が泥濘に滑りやすい事を、木曜日の時点で確認していたのもあった。ただでさえ力と体格で劣る純は、タツヤより強く地面に踏ん張らなければならない。しかしそうすれば、地面に足をしっかり着ける必要がある。そうなれば必然、足を滑らせる危険も増す。この雨上がりの地面は、タツヤにとって味方となる。

 タツヤはただの乱暴者ではない。弱冠八歳でありながら、勝負に勝つ為に頭を回せる、クレバーさも備えた少年だった。

 万に一つもない。自分の完全勝利で終わる。

 タツヤはそう確信していた。()()()()()()()()()()



 *



「クソッ……」


 二戦目。地面に両手を着いているのは、()()()()()()


「ドンマイタツヤ! まぐれまぐれ!」

「こんだけドロドロなんだから、一回ぐらいこけるって!」


 取り巻き四人はまだ、呑気にタツヤに声援を送っていた。

 だが、それも仕方のないこと。端から見れば、偶然転んだだけに見えただろう。タツヤ自身も、まだうっかりミスの範囲だと思っているだろう。


「まあいいや、ハンデって事で」


 その証拠に、彼の顔にはまだニヤニヤとした笑みが張り付いている。

 しかし、純は憮然とした表情の裏で、安堵していた。

 上手くいった、と。一戦目で派手に転がされ、全身泥まみれになりながら、純は何一つ心配していなかった。

 純は元来、自分に自信を持つ方ではない。むしろ逆に、自分の弱さに対して自分で怒りを覚える事も多かった。しかし、今彼は――生まれて初めて、自分の事を心から信じていた。


「さてと……三戦目だな。負けた方が線を引くんだよな? じゃ、俺がやる」


 タツヤは木の棒を持つと、公園内でも特にぬかるんだ場所で円を描いた。そして円の中に入ると、純に向けて今日何度目かの嗜虐に満ちた笑顔を見せた。

 彼はまだ、気付いていない。自分が既に、純の作戦に首元まで沈められている事に。


「よしじゃあ……やるぞ」


 タツヤと純が構えると、審判役の取り巻きが合図をする。

 三戦目のタツヤは、動かなかった。以前までは、機先を制して倒しに行く事が多かったが、今回は慎重に構えたまま動かずにいる。

 原因は、先の二戦目だろう。タツヤはその時、いつも通りに先手を取りに行ったのだが――そこで純に、足を手で強く払われ、バランスを崩した。普段なら地面に短い線を引く程度の一撃でも、この多量に雨水を含んだ地面の上では、致命打となりうる。頭で、或いは感覚で理解したらしく、下手に動くのを避ける路線に切り替えたようだ。

 対する純もまた――タツヤ同様、地面に根を張ったように動かない。両足を広げて姿勢を下げ、見様見真似の構えで対峙する。


「どうしたんだ、タッちゃん……?」

「なんで攻めないの?」


 取り巻き達が、頑として動かない二人に対して不審の眼を向ける。純はともかく、タツヤまで一ミリも動こうとしないのは、彼らからしても異常に映ったのだろう。

 しかし、タツヤに『口出しするな』と釘を刺されたせいか、彼らも大きい声は出せなかった。

 そうして向かい合ったまま数分が経過した。タツヤの顔に、次第に苛立ちが現れてくる。

 それから更に五分程経ったところで、取り巻きの一人が遂に我慢出来なくなったらしい。


「おい、動けよ滝本! つまんねーぞ!」


 大声で純を詰る取り巻きを、タツヤが睨んだ瞬間――


「口出しすんな――っ!?」


 純が動いた。タツヤが向いた方向の逆から、死角を突くように素早く近づく。

 不意を突かれたタツヤは押し戻すべく右手を突き出したが、純は手が当たる前に地面を強く踏みしめ、停止。そして跳ねた泥が、タツヤの顔に向かって跳んだ。


「うわっ!」


 突然の()()()()()()に、タツヤが顔の泥を払う。だがその瞬間、彼の中から純の存在は消えてしまう。

 どれだけ体格差があっても、不意の一撃にはどうしても弱くなる。


「二勝目」


 純の渾身のタックルを腹に受け、タツヤは地面に尻を着いた。

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