泥被りの勇者(中)
梅雨が始まった。
連日降り続く雨と、そこから生まれる湿気は、時に人から活力を奪う。とりわけ外での遊びを好む小学生にとって、大事な遊びの機会を奪われるのは辛い。
この時、東京は三日連続の雨に見舞われていた。金土日、週末の三日、一度も太陽は顔すら覗かせなかった。
そんな中、純はゲーム会場の公園に訪れていた。アスファルトを跳ねる雨に靴下まで濡れていく中、公園全体をじっと見回し続ける。
暫く見た後、公園に入って全体をゆっくり歩き回った。黒いスニーカーは泥に塗れ、茶色に染まっていく。濡れた靴下のグチャグチャとした感触も気にせず、公園全てをくまなく見て、触れる。
「明日……」
純は、まだ腫れの引かない頬を撫でながら、母とのやり取りを思い出す。
流石にあれだけ殴られれば、母とて尋常じゃないと勘づく。だが、母親が干渉したとしても、事態が好転する可能性は低かった。何しろ純は、彼ーータツヤの『環境』の事を知った。純を殴った時の言動を不思議に思い、軽く調べた。それだけで分かる程度には、タツヤは悪目立ちしているらしい。彼の『親』の事を思えば、事態の悪化もあり得る。愛花の保護者も期待出来ない。彼女の話によると、そもそも家に帰って来る事が殆どないらしい。
大人が介入するだけで自体が解決する程、子供の世界も単純に出来ていない。しかし、これ以上息子への信頼だけで押し通すのも難しい。
だから純は、母に言った。
『月曜日で解決しなければ、現在の事を全て話す』と。つまり、自ら事態を収めるには、是が非でも月曜日に、タツヤに勝たなければならない。その為には、利用出来る者は全て利用する。
「……大丈夫」
純は自分に言い聞かせるように呟いた。
*
「今日で最後かもしれない」
「……は?」
翌日、月曜日。純は昼休みに愛花の教室に行くと、愛花とタツヤ達に母の事を話した。
「いや……それって良い事じゃないの?」
最初に口を開いたのは、愛花だった。
彼女からすれば、純が痛めつけられる日々が終わるという風にしか聞こえなかった。どう考えても朗報でしかない。だが、純は思い詰めたような表情をしている。母親から学校に話が行けば、大人からの助けが得られるのだ。そして、本来愛花は『そういう方法』の恩恵に与る少女だ。
「ううん。多分そうはならない。……だよね」
純は首を横に振ると、タツヤの方を見た。タツヤは苦虫を嚙み潰したような顔で、腕を組む。
「まあ、確かにマツダさ――父ちゃんに知られたら、俺もヤだけど」
タツヤの取り巻き四人も、口々に言葉を発する。
「チクられたら困るのは、誰だってそうだろ」
「むしろそれって、俺らが懸念するべき事だったんじゃねえの」
「いやまあ、言われてみれば……何かコイツ、チクらなさそうが気がして……」
「要するに、お前が言いたい事は――」
タツヤが純に迫る。一学年下とは思えぬ巨体が間近に来ても、純は身じろぎ一つしなかった。
「ケリは自分でつけたいって事だろ? それなら俺も賛成だよ」
「それで」と、タツヤは純の肩に手を置いた。
「終わりにしてもいいけどさ……そうなったら、今度はコイツだな。でもって……お前にも付き合ってもらうか」
「どういう事?」
タツヤの言った事を、すぐには誰も理解出来なかった。ただ一つ、彼が純を見る邪悪とも言える目だけは、全員に異常を伝えていた。
「タッちゃん……?」
タツヤは不安そうに自分を見る四人の取り巻きに、穏やかな笑みを向ける。
「俺さ……お前らの事は好きだよ。お前らはちゃんと『従ってる』。強い奴に、弱い奴は従うしかない。そうあるべきなのに……コイツはそうじゃない。最初は俺、コイツで好きに遊べるならいいと思ってた。けどさ……今はコイツを俺に従わせないと……収まらねえんだよ」
忌々しげに純を見るタツヤ。生意気にも反抗し続けている以上、恨まれるのは仕方がない。それは純も割り切っている。
しかしーー『付き合ってもらう』。この言葉だけは、見逃せない。これはつまり、『愛花へのいじめに参加しろ』という意味だ。どうしても純を従わせたいタツヤは、ここにきて最悪の条件を提示した。純がそれを呑まざるを得ない事を利用して。
「構わないよ」
「えっ……?」
だが純は、あっさり条件を呑んだ。目の色一つ変えず、眉一つ動かさず。
「けど一つ、追加のルールが欲しい」
「追加ルール……?」
物怖じしない純に、いつの間にか、タツヤの方が及び腰になっていた。
「僕たちは今、地面に円を描いて、それを土俵に見立てて、5本勝負で相撲を取っている。で、土俵代わりの円についてなんだけど……この円の場所を、『一戦毎に』変えたいんだ」
「……は?」
純は提示した追加ルール。その意味がわからず、その場にいた誰もが首を傾げた。
当然だ。場所を変えたところで、狭い公園の中であるのは変わらない。一面砂の地面があるだけ。
しかし、それは『乾いている場合』の話。
純は、包帯に覆われた右手の人差し指を見せた。木曜日のゲームで起こった事をタツヤに思い出させる為に。
「あの公園は水はけが悪いから、三日も雨が降れば地面はドロドロになってる。そんなところで同じ場所で取り組み続けたら、多分歩く事もままならなくなるはず」
「ドロドロ……ね」
タツヤと取り巻きたちが、ニヤニヤと笑い出す。
木曜日のゲームのこと。前日の夕立で水分を含み緩くなった地面で相撲をした為に、三戦目の時点でかなり滑りやすくなっていた。その結果、純はタツヤとぶつかる前に転び、自滅した。右手はその後の『遊び』の際に、爪が剥がれたせいだ。ここでタツヤたちが笑ったのは、その時の事を思い出したからだ。そして彼らからすれば、純の提案は『転んで負けるのを避けるため』と聞こえた。
「……まあいいよ」
「タッちゃん!?」
「多少そっちがやりやすくなったって、お前の力じゃ俺を倒せないし。どうやったって無駄だって……教えてやるよ」
タツヤが拳を打ち鳴らすと共に、嗜虐的な笑みを浮かべる。
「大丈夫なの?」
愛花が心配そうな目で訊ねる。純の表情と声音は、やはり変わらない。
「多分大丈夫。条件は整ってるはず」
*
「うーわ……」
「こりゃひでぇ……」
放課後。いつもの公園に来たタツヤ達は、その惨状に眉を顰めた。
三日も雨が降った挙句、今日も空は灰色の雲に覆われている。ただでさえ水はけの悪い公園は、水を張った田んぼのようになっていた。
「だから一戦ごとに場所を変えた方が良いって言ったでしょ?」
彼らより少し先に来ていた純は、木の棒を持ちながらタツヤに近付く。地面には既に、半径五メートル程の円が一つ描かれていた。
「今線引いたあそこが、一番マシだと思う。他はどれだけ気を付けても、水たまりを避けられないからね」
「俺は別に何処でもいいけど。泥だらけで稽古するなんてこともあったし。それより……お前ら、口出しすんなよ」
タツヤは、取り巻き四人を睨んだ。彼の眼に圧されて、四人は引きつった笑みと共に両手を横に振る。
少し前、四人はタツヤに対して『場所が悪いなら中止にすればいい』と提案していた。だが、タツヤはそれを蹴った。既に彼にとって、純とのゲームは『遊び』ではなくなっていた。純を完膚なきまでに叩きつぶし、自分に頭を垂れさせる。この一週間、純はタツヤに対して一本すら取れていない。それでも純は折れず、今もこうして抗おうとしている。タツヤたちが示したゲームの『ルール』に乗っ取って。
即ち、タツヤは純に対して、同じことをやろうとしていた。そうでもしなければ、恐らく彼は折れないからだ。
「うわっと……!」
少し前を歩く純が、泥濘に足を滑らせた。前につんのめりはしたが、どうにか転ぶ事は避けた。
後ろで取り巻き達がクスクス笑いを浮かべる。タツヤとしても、内心では笑いたくて仕方なかった。タツヤが中止を受け入れなかったのは、ルールに乗っ取った上で勝つ事に拘っただけではない。純が泥濘に滑りやすい事を、木曜日の時点で確認していたのもあった。ただでさえ力と体格で劣る純は、タツヤより強く地面に踏ん張らなければならない。しかしそうすれば、地面に足をしっかり着ける必要がある。そうなれば必然、足を滑らせる危険も増す。この雨上がりの地面は、タツヤにとって味方となる。
タツヤはただの乱暴者ではない。弱冠八歳でありながら、勝負に勝つ為に頭を回せる、クレバーさも備えた少年だった。
万に一つもない。自分の完全勝利で終わる。
タツヤはそう確信していた。一戦目が終わるまでは。
*
「クソッ……」
二戦目。地面に両手を着いているのは、タツヤだった。
「ドンマイタツヤ! まぐれまぐれ!」
「こんだけドロドロなんだから、一回ぐらいこけるって!」
取り巻き四人はまだ、呑気にタツヤに声援を送っていた。
だが、それも仕方のないこと。端から見れば、偶然転んだだけに見えただろう。タツヤ自身も、まだうっかりミスの範囲だと思っているだろう。
「まあいいや、ハンデって事で」
その証拠に、彼の顔にはまだニヤニヤとした笑みが張り付いている。
しかし、純は憮然とした表情の裏で、安堵していた。
上手くいった、と。一戦目で派手に転がされ、全身泥まみれになりながら、純は何一つ心配していなかった。
純は元来、自分に自信を持つ方ではない。むしろ逆に、自分の弱さに対して自分で怒りを覚える事も多かった。しかし、今彼は――生まれて初めて、自分の事を心から信じていた。
「さてと……三戦目だな。負けた方が線を引くんだよな? じゃ、俺がやる」
タツヤは木の棒を持つと、公園内でも特にぬかるんだ場所で円を描いた。そして円の中に入ると、純に向けて今日何度目かの嗜虐に満ちた笑顔を見せた。
彼はまだ、気付いていない。自分が既に、純の作戦に首元まで沈められている事に。
「よしじゃあ……やるぞ」
タツヤと純が構えると、審判役の取り巻きが合図をする。
三戦目のタツヤは、動かなかった。以前までは、機先を制して倒しに行く事が多かったが、今回は慎重に構えたまま動かずにいる。
原因は、先の二戦目だろう。タツヤはその時、いつも通りに先手を取りに行ったのだが――そこで純に、足を手で強く払われ、バランスを崩した。普段なら地面に短い線を引く程度の一撃でも、この多量に雨水を含んだ地面の上では、致命打となりうる。頭で、或いは感覚で理解したらしく、下手に動くのを避ける路線に切り替えたようだ。
対する純もまた――タツヤ同様、地面に根を張ったように動かない。両足を広げて姿勢を下げ、見様見真似の構えで対峙する。
「どうしたんだ、タッちゃん……?」
「なんで攻めないの?」
取り巻き達が、頑として動かない二人に対して不審の眼を向ける。純はともかく、タツヤまで一ミリも動こうとしないのは、彼らからしても異常に映ったのだろう。
しかし、タツヤに『口出しするな』と釘を刺されたせいか、彼らも大きい声は出せなかった。
そうして向かい合ったまま数分が経過した。タツヤの顔に、次第に苛立ちが現れてくる。
それから更に五分程経ったところで、取り巻きの一人が遂に我慢出来なくなったらしい。
「おい、動けよ滝本! つまんねーぞ!」
大声で純を詰る取り巻きを、タツヤが睨んだ瞬間――
「口出しすんな――っ!?」
純が動いた。タツヤが向いた方向の逆から、死角を突くように素早く近づく。
不意を突かれたタツヤは押し戻すべく右手を突き出したが、純は手が当たる前に地面を強く踏みしめ、停止。そして跳ねた泥が、タツヤの顔に向かって跳んだ。
「うわっ!」
突然のアクシデントに、タツヤが顔の泥を払う。だがその瞬間、彼の中から純の存在は消えてしまう。
どれだけ体格差があっても、不意の一撃にはどうしても弱くなる。
「二勝目」
純の渾身のタックルを腹に受け、タツヤは地面に尻を着いた。




