泥被りの勇者(上)
「……分かんねえ」
薄曇りの空の下、小太りの少年が難しい顔で腕を組んでいる。彼の視線は足元より少し上に注がれていた。
「普通に考えてさ……ここは学校じゃないじゃん。走ったり隣の奴と話しても、口うるさく言う奴なんていないだろ? だったらさ、好きな事だけやればいいじゃん。わざわざ自分からしんどい事や面倒い事に関わるなんて、意味分かんねえ。……なあ、何でだ?」
木の棒で描かれたサークルの中にいる少年は、その外で転がっている少年に疑問を投げかける。
敗者への煽りではない。ただ純粋に分からないのだ。
少年ーータツヤにとって、大事なことはただ一つ。『自分が楽しいかどうか』だ。楽しい事に時間を費やし、邪魔する奴はぶっ飛ばす。勉強や校則など、彼にとっては煩わしいことこの上ない存在だった。厄介な事に、彼は少なくとも一つ二つ歳上程度の男子なら歯牙にも掛けない腕っぷしの強さがあった。習い事としてやっている相撲の実力は、地域の近い年の男子でも頭抜けていたのだ。だからこそ、気に入らない他人を甚振る快感を覚えてしまった。強い奴はともかく、弱い奴はオモチャにしてしまえばいい。それが、彼が八年の人生で得た『ルール』だった。
だからこそ、彼は本気で理解出来なかった。
何度転がされ、オモチャにされても、向かって来続ける彼の存在が。
彼を見ていると、単純明快だったタツヤの心の中に、靄のように不透明なものが生まれる気がした。
彼は擦り傷と砂塗れの身体を地面に横たえたまま、答える。
「多分さ……それが、僕のルールなんだからだと思う」
「……は? ルール?」
意味が分からず眉を顰めるタツヤに、彼は立ち上がりながら続ける。
「決めたんだよ。だからやり通す。そうでないと、僕は僕を許せないから」
彼は再びサークルの中に入ると、姿勢を大きく下げてタツヤを睨んだ。
「ほら。五本勝負でしょ? まだ――一回分残ってる」
タツヤはギリ、と歯を食い縛った。そもそも現状そのものが、彼にとって予想外だったのを思い出したからだ。
元はと言えば、ただ気に入らない子を使って、仲間内で遊びたかっただけだった。それが俗に言ういじめというヤツでも、そんな事は子供心には関係なかった。クラスで浮いた同級生をそうしていたら、上級生の男子が釣れたから、そっちをオモチャにしようとした。彼の言うゲームを承諾したのも、遊ぶ為の大義名分が簡単に出来るからだ。各々得意な分野で、勝ち目のない勝負をさせて飽きるまで遊び尽くすつもりが――気が付けば、自分以外全員負かされていた。
強い相手に逆らうなんて面倒な事をやって、その上で四人を退けた。
とはいえ、まだタツヤがいる。タツヤが選んだ種目は、当然相撲。小学校低学年とは思えぬ程、縦にも横にも大きい身体なら、習った技を使わず、ただ力任せに吹き飛ばすだけで勝てる。向こうの細い身体では持ち上げる事など到底出来ないし、押そうにも少し踏ん張るだけで動かせなくなる。足裏以外が地面と接触すれば負け、という相撲の厳しいルールにあってもなお、タツヤが負ける可能性は万に一つも無かった。
そうして三本目――根性で立ち上がった彼――滝本純を、タツヤは張り手の一発で場外まで押しやった。
「おおっ、流石タッちゃん!」
仲間の一人が太鼓持ちとなってタツヤを持ち上げる。自分が休んだ日に『殴ったら血が出た』とか言って逃げ、その後は恐れず立ち向かってくる純に恐れを為した奴だ。アイツもタツヤ同様、体格に恵まれた側の男子だが、格闘技や喧嘩の経験など碌に無かったせいで、その程度でビビるのだ。
タツヤは知っている。上級生が稽古中に骨折など大怪我をしたところを見てきたからだ。喧嘩でも格闘技でも、戦いあえば怪我だって当たり前にする。怖さなんて一つもない、ただの現象だ。
「これで三本取った……オレの勝ちだぞ」
タツヤは仰向けに倒れた純へと近寄り、胸元を掴んで強引に立たせた。
「なあタッちゃん、ソイツに何して遊ぼうか?」
「そうだな……まあとりあえず……」
タツヤは仲間四人の方を見ずに、ただ右手を振った。
「お前ら、帰れ」
「……え?」
いきなりの発言に、仲間たちは面食らう。そして、一様に焦りを顔に貼り付けて、タツヤに近付いていった。
「いやいやタッちゃん。何言ってんの? これからじゃん? 楽しいのって」
「そうそう。なのにこれで解散ってのは、流石に訳分かんないじゃん」
「これじゃあトンカツのないカツ丼だよ」
「……うっせぇバーカ」
適当な一人を突き飛ばすと、タツヤは転んだその子を冷たく見下ろした。
「大体、お前らがちゃんとやってりゃ、そもそも俺が出ることもなかっただろーが。お前ら大人しくオレの言う事聞いとけよ、弱いんだから」
早口でまくし立てるように言うと、仲間たちは暫く何か小声で話し合った後、走り去っていった。
逃げるように帰って行く彼らを横目で見送ると、タツヤは直立不動でいる純へと視線を戻した。純もまた、タツヤの意図が分からない様子だった。
「……何で帰したの?」
「何でって……そりゃあ、オレ一人で楽しみたかったし」
タツヤは欠けた円の中に入ると、再び相撲の構えを取った。
「ほら、構えろよ。五時まで時間いっぱい……稽古つけてやる」
純はタツヤの意図が読めないまま、見様見真似の構えを取ろうと――したところで、弾き飛ばされた。
完全に不意を打たれ、純は地面に転がる。立ち上がろうとした純の顔を、タツヤが二度、三度と馬乗りになって張り続ける。
最早相撲ではない。倒れた相手への追撃という、彼の指導者が見ようものなら殴られても文句が言えない、武道に外れた行い。そんな事は彼も分かっている。
だが、こうしなければ、心の靄が晴れないような気がした。この貧弱な少年に、分からせなければならない。
弱い者は、強い者に従って生きるしかないと。だからこそタツヤは、強者として弱者を自由にすることを、楽しいと思うのだ。
その意味で、純は彼にとって重大な『ルール違反』を犯している。だからルールに外れるという事の意味を、無意識下で純に分からせようとしていた。
一撃一撃に、罰の念を込める。自分が、『されている』のと同じように。
そうして一体、何度殴っただろうか。手の痛みが限界に達した時、ようやくタツヤは純の上を離れた。
肩で息をしながら見下ろした先で、純はピクリとも動かず横たわっている。そこでようやく、タツヤは自分が行った『制裁』の結果を認識した。
両の頬は元の輪郭が分からなくなる程腫れ、口からも血が出ている。夢中で殴ったうち、何発か入ったらしい鼻からも、両方の穴から血が噴き出していた。
タツヤでも流石に分かる。明らかにやり過ぎだ。この人通りの少ない、小さい公園だから良かったが、人気のあるところなら間違いなく騒ぎになる。
「……もういいよ。分かっただろ……。弱い奴が逆らったって、こうなるだけだって……」
タツヤは覚束ない足取りでランドセルを担ぎ、帰路に着いた。
晴れるはずだった心の靄は、もっとずっと濃くなっていた。
*
タツヤが去り、一人になって暫くして、純はゆっくりと身を起こした。
「っ……流石に、痛い……」
少し唇を動かすだけで、両頬がズキズキと痛んだ。口内に鉄の味が広がり、顔中が熱を持っている。『負けたら何でもしていい』という話ではあったが、こうまで直接的な暴力は初めてだった。
純は地面に座ったまま、しばらく考え込んだ。
「……どうしたもんかな……」
流石にリーダーだけあって、タツヤはかなり強い。全力で押し出そうとしても、根を張ったように動かない。だが相手は、張り手の一つで場外まで飛ばせる。
これまでの四人とは比較にならない。力の差は歴然だった。
まともにやれば、一本すら碌に取れないだろう。
だが、諦める訳にはいかない。最後の一人まで来たのだ。偶然でもいい。どうにかして、彼から勝利をもぎ取る。
純はここで、克哉の言葉を思い出した。
『お前は特別頭が良い訳じゃない。だが、全く使えない訳でもない。人並み程度に回る頭があるなら充分だ。行き詰まったら周りを知れ。目で、耳で、手足でだ。お前が目的を達する為のヒントはーー幾らでも転がっている』
つまり、タツヤを出し抜く為の方法は、何処かにある。ただ、純が気が付いていないだけで。
純はとりあえず、周囲を見渡してみる。
相変わらず、公園と呼ぶことさえ躊躇う程、小さな公園だった。あるのはベンチと蛇口ぐらい。ベンチに屋根がついているが、焼け石に水としか思えなかった。
少なくとも、ここにはヒントは無さそうだ。そう思い、痛む身体でどうにか立ち上がった矢先――顔に冷たいものが当たった。一度ではなく、二度、三度と続けて。
「……あっ」
感触の正体を悟ると、すぐにベンチの方へ急いだ。屋根の下に潜り込んだ直後、バケツをひっくり返したような雨が降り出した。
熱くなった顔に雨の冷たさは有難いが、全身丸ごと濡れるのは避けたかった。
空を見ると、雲の隙間から青空が覗いていた。予報でも雨が降るとは言っていなかった以上、すぐに止むだろう。
純は、暫くジッと空を眺めていた。
もうすぐ梅雨。これから先、こういった雨の日が多くなるだろう。子供たちからすれば、外で遊べなくなる憂鬱な季節だ。
そういえば、雨が降れば『ゲーム』はどうなるのだろう。
そんなことを考えた時、横に誰かが座った。それが誰かを知った時、純は少しばかり驚いた。
「……酷い顔」
「いきなり酷いね……」
愛花だった。純の顔を見るなり、彼女はため息と共に、冷たい視線を浴びせる。とはいえ、初めの頃のような拒絶の意志は鳴りを潜めていた。単に諦めただけ、ともいえるが。
「あと一人だ……」
純は独り言のように言った。愛花は生まれたての水たまりを見つめながら、ただ黙って聞いている。
「あと一人で、約束通りあの子達は、二度と君を傷つける事もなくなる……」
「……それ、多分あんまり意味ないと思う」
愛花は純の方を見る事無く、呟いた。雨音にかき消されそうな、か細い声だった。
「あの子達はとっくに、私じゃなくて貴方に興味が移ってるよ。そもそも、あの子達はあくまでオモチャが欲しかっただけだから、私だけに何かしたかったとかじゃないし。それに……」
愛花は少しだけ言い淀んだ。ずっと引っかかっていて、しかし言い出せなかった事を口にしようとするように。だがその躊躇も長くはなかった。
「仮に勝っても……あの子達が約束を守るなんて思えない。偶然一回勝っただけじゃ、反故にされてもどうしようもない」
「まあ、確かに……」
「……気付いてるなら何で――」
「それが僕の『ルール』らしいから」
純は、決めていた。優しい少女を守る、と。
そして、決めた事をやり通すのが、彼の『ルール』だ。それに気づいた今、口にする事に迷いは無かった。
「ルール……」
咀嚼するように、愛花は呟いた。
「……ちょっと分かる気がする……」
純はまだ知らなかったが、愛花は『いい子でいる』という行動指針を自分に課している。その理由だった両親がいなくなった今も、それを続けている。故に彼女もまた、自分にルールを課している一人だ。
愛花の呟きに、純は何も言わなかった。内心では少し、理解された事が嬉しかったが。
そうして沈黙が下りる。辺りに響くのは雨の音だけ。
「凄い雨だね。もうあんなに水たまりが出来てる」
「雨が強いのはあるけど……そもそもここ、水捌け悪いから」
「へえ、そうなの?」
「雨は止んでも、しばらくドロドロになると思う」
これが、二人が交わした最初の雑談。まさに雑談といった、特段意味のない会話。
しかし、二人からすれば、これが始まりだったのかもしれない。




