自分の中のルール
日曜日。
子供だろうと大人だろうと、社会という共同体に生きる者たちに許された、自由の日。
遊びに行くもの、惰眠を貪るもの、過ごし方は人それぞれ。ただ一つ、日々の疲れを癒すという目的以外、完全に一致する者は稀だろう。
そのような日に少年、滝本純はというとーー
「話を聞こうか」
物心ついた頃からの知り合いである、山崎家の一室で正座をしていた。目の前には、男にしては長めの銀髪を持つ青年がいる。腕を組み椅子に腰掛け、圧の籠った黄金色の目で純を見下ろしている。煌びやかな彩色の顔だが、その表情は氷のように冷たかった。
山崎克哉。ここ山崎家の一人息子である。名門進学校に通う十七歳の高校生だが、身に纏う威圧感は、大の大人をも凌駕する。
純と克哉の付き合いは、それこそ克哉が小学生の頃にまで遡る。元々、純の母早苗と克哉の母恵梨香は中学時代の同級生だったという繋がりがあり、そこから二人は知り合っていた。克哉はともかく、純は彼を実の兄のように尊敬していた。
克哉が今、純に対して問い詰めようとしているのは、近頃の純が下級生たち相手にやっている『ゲーム』のことだった。漢字対決のために参考書を借りた時点で、克哉は純の変化に察しがついていた。とはいえ、この時点ではまだ子供の遊びの範疇であり、特段気にすることもなかった。
だが、日を追う毎に砂だらけだったり膝を擦りむいていたのはともかく、歯が抜けて大量出血などという事が起これば、誰でも異常を察するだろう。
だが、純の両親はどちらもこれについて、何か行動することもない。尤もこれは息子への信頼だったり、男子としての試練と解釈したりと、彼らなりの理由があっての事なのだが、克哉にはそんなことは知る由もない。
「えっとですね……これは単なるゲームでして……。僕が五人全員の得意分野で勝負して、全員に勝てれば……」
「勝てれば?」
克哉の前では、誤魔化しや話題そらしは通用しない。ただ粛々と、確認するべき事を確認するまで離してはくれない。
「……ある女の子をいじめるのをやめて貰います」
観念した純は、これまでの経緯を話すことにした。秘密を言いふらすような事はしない、というよりそうした行いを嫌う人間だということは知っていた。
「……ふむ」
一通り聞き終えた克哉は目を閉じ、背もたれに背を預けつつ顔を天井に向けた。そのままの姿勢で、何秒もの時間が経過した。長い沈黙を前に、流石の純も背中に怖気が走る。
ようやく純を正面に捉えた彼は、やはり氷のような表情のままだった。
「何となく理解した。つまりお前は、自分の中の英雄願望を満たす為にわざわざいじめの身代わりになった、という訳か。発端はその女子に対する好意……或いは同情心か」
克哉が鋭い目つきで、純を睨む。純は息が詰まり、あらゆる反応を封じられた。
やっぱりこの人は誤魔化せない、と純は強く思った。先の克哉の理解は、概ね正しい、というより否定出来ない。彼はこの時点で、自分の感情を完全に言語化出来るほど成熟した情緒を持っていなかったが、目の前の七歳上の青年が口にした感情は、どれも彼の中に確かにあるものだった。
とはいえ、純はまだもう一つ、話していない事があった。彼が愛花を守ろうと思った、最初のきっかけだ。
純は『それから』と付け加えるように、その事を話した。『自分が許せなくなる』という想いも合わせて。
「克哉さんが言った事は正しいと思うけど……本当のところ、何で自分が許せなくなるのか、一番は分からないんだ」
克哉は何も言う事なく、最後まで聴きに徹し続けた。
全てを聴き終えた克哉は暫く考え込んだ後、呟くように言った。
「ルールだな」
「……はい?」
一見脈絡のない単語を発され、純は思わず間の抜けた声を上げた。克哉は気分を害した様子もなく、冷静に話し始める。
「お前がその娘を見放せない最大の理由だ。お前にとって、そいつが笑えないままいじめられ続けるのが、お前の中のルールに引っ掛かるんだろう」
「ルールって……五時までに帰るとか、そういう話です?」
「フン、それもルールではあるが、今している話はそっちではない」
克哉は純の言を鼻で笑う。冗談だと思われたか、単純に馬鹿にされたのかは純には分からない。
「純。ルールというのは、何も家族や学校だけにあるものではない。有り体に言えば、ルールとは各人の行動の指針だ。例えばお前……電車で年寄りには席を譲れと教わった覚えはあるな?」
「ありますけど……それはルールというより常識じゃないですか?」
「常識もルールの一種だ。社会という共同体を円滑に維持する為に設けられた、誰も明文化しないが誰もが知っている生き方の指針。明文化して強制力を設ければ、それは法律だ」
「……克哉さんの話は難しいよ」
純は正座を崩し、ため息を吐いた。特別頭が良い訳でない小学生男子の純には、理解が追いつかなかった。克哉としては、これでもかいつまんで話しているつもりなのだろうが。
「俺が言いたいのは、ルールとは何処にでもあるというものだ。それこそ……お前自身の中にもな」
「僕の中に……ルール?」
純は首を傾げる。自分の中にルールがあると言っても、彼には実感が無かった。何しろこの年頃の子供にとって、ルールとは親や学校に与えられるものである場合が多い。
日々大人から与えられる口うるさいそれらの指摘があれば、彼らにとってルールがそういったものになる事は、仕方のないことである。
克哉はそうでない事を知る先達として、彼に自分のルールの存在を知覚させようとしていた。
「そもそもだ、純。お前がその娘を守ろうとしたのは、以前見て見ぬふりをした罪悪感だろう。では聞くが……お前はその事で、誰かに怒られたり、責められたりしたか?」
「してない……」
「なら何故悪い事をした気になった? 後の行動で払拭せねばならない程自分を責めずにいられなかったのは何故だ? 誰にも何も言われていないなら、それはルール違反をしていないのと変わらない。そう思わないのか?」
「思わない」
純の返事に、克哉はほんの少しだけ口角を吊り上げた。それまで迷いながらだった純の返事が、力強い即答に変わったからだ。
純の方も、それが違うという事だけは、はっきりと自覚していた。少なくとも、怒られるからルールを守っているのではない事は、彼も知っている。
続けて口を突いて出た言葉は、純にとっても朧げにしか意識していなかった本音だった。
「だって間違ってるじゃないですか。優しい子が傷ついて、笑わないまま、幸せじゃないままだって。けど……何よりーー」
純は立ち上がり、克哉と同じ高さに目線を置いた。
「僕は自分で『彼女を守る』って決めたんです。自分から決めた事に背いて生きるなんて事したら……僕は自分が許せなくなる」
克哉の冷徹な視線に、眼力を込めた目を返す純。対抗して睨んだのではない。ただ、心のうちから出た想いを出したら、そんな目になったのだ。
克哉は目を少し細めると、純との目線の間に人差し指を差し込んだ。
「それだ。それがお前のルールだ」
「……?」
純は思わず仰け反る。困惑する純とは裏腹に、克哉は少しばかり頬を緩ませていた。
「『自分が決めた事をやり通す』。それがお前にとって最重要のルールだという事だ。とはいえ、これぐらいならまだ常識として知っている人間は多い。お前の場合、そのレベルが世間の連中とは大きく違うというのがポイントだろう」
克哉はここで立ち上がり、本棚から一冊の漫画を取り出した。
タイトルは『ストライカー空』。昔、少年達の間でサッカーブームを巻き起こし、日本全国に数多くのサッカー少年を生み出した、サッカー漫画の金字塔。
「この漫画が流行った時、プロサッカー選手を将来の夢として定めた男子は、それこそ掃いて捨てる程いた。だが、実際はどうだ。意気揚々と大言壮語を吐いた連中は今、全員サッカー選手になれたか? ないよな。そんなことになれば、Jリーグのチーム数など今の三倍あっても足りない」
「けど、本当にそこからサッカー選手になった人もいるじゃないですか」
「そりゃいるだろ。何万人もの始めるきっかけになっていれば、千人に一人でも十人はプロになる。だがな……それを生み出す傍ら、酷ければ三日で投げ出し、以前と変わらぬ生き方をする奴らが腐るほどいる。身も蓋もない話だが……子供のいう『やると決めた』なんてのは、その程度のものだ。ルールなどというものではない」
『だが』、と克哉は腕を組んだ。
「お前は違った。始まりがどういう感情であれ、誰に強制された訳でもない事を自分で決め、やり通そうとしている。それは誰に与えられたものでもない、お前自身が定めたお前だけのルールだ。それに従い続けられるのが、強さなのだろう」
「克哉さん……」
「つまるところ、俺が言いたかったのはーー」
「その真面目なところが純の良いところだから、大事にしなさいって言いたいのよね?」
いつの間にか部屋に、一人の女性が入っていた。お菓子とジュースを載せたお盆を机に置きながら、女性は母性溢れる柔らかな笑顔を純と克哉に向ける。
彼女ーー山崎恵梨香は、一人息子の克哉から怪訝な目を向けられても、変わらず微笑んでいた。
「……勝手に俺の言葉を代弁しようとしないでくれ」
「あら、そう思ってなかったの? じゃあ、克哉は何を言おうとしたのかしら」
「……あえて言うほどの事はない」
克哉は母から目を逸らし、コップに注がれたコーラを流し込んだ。純には心なしか、纏っていた威圧のオーラが消えたように見えた。
「克哉は照れ屋だから、難しい事を言う時は基本的に喜んでるのよね。純くんが他人に流されずに自分の気持ちを言えたのが、嬉しかったのよ」
「えっと……そうなんですか」
「っ……勘違いするな」
克哉はばつが悪そうな顔で、小さく舌打ちをする。
「本来親がやるべき事がやれていないから、仕方なく俺がやってやっているだけだ。コイツが将来阿保な事をやった時、母親の友人である母さんも割を食うからな」
「早苗なら大丈夫よ~~。あの子は本当に危なくなったら、誰より真っ先に駆けつけてくれるわ」
克哉の糾弾に近い物言いも、恵梨香はどこ吹く風と受け流す。気難しい克哉も、息子の扱いはお手の物といった恵梨香の前には、眉を顰めて見せるのが限界だった。
「まあまあ純くん。要するにね、克哉が一番純くんを心配しているのよ」
克哉が「んっ」という声と共にコップから口を離し、机に置いてから純を睨みつけた。
「純。お前なんぞどうでもいい。あくまで俺は山崎家まで巻き添えを食った時に面倒だからお前を呼んだだけだ。お前個人だけなら、どうなろうと俺の知ったことじゃあ――」
「そんな事言って。前に純くんが漢字の本を借りに来たときなんか『何か真剣になれるものがあるなら良い』って……嬉しそうにしていたのよ?」
克哉はため息と共に椅子から立つと、部屋を出て行った。『何処に行くか』と聞いても意味がないので、二人とも聞かなかった。
「ああ言ってるけど、克哉も純くんが本気で大変な時はいつでも助けてくれるわ」
「その後で僕はめちゃくちゃ怒られるでしょうけどね……」
出て行った克哉を追うように、二人とも扉を見ていた。
だが、純は先の克哉の態度よりも、言葉によって確かな自分の変化を感じていた、朧気だった景色がはっきりと見えたように、心の柱の形を確かに認識していた。
「自分の中の、ルール……」
『あの少女を笑顔にしたい』。それが、純が通すと決めた想い。そして、その想いを叶えるまで貫き通すというのが、ルール。
克哉の提示したそれは、純の心に、戦い抜く為の芯を通した。