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MUD_BRAVER  作者: 笑藁
五章 鏡と硝子
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 週末を挟み、月曜日を迎えた。

 既にここに引っ越してきて、一ヶ月が経っていた。純と会ってからは、二週間ほどだ。つまりそれは、彼女が希望を無くしてから、まだそれだけしか経っていないということだ。そうなる前より、随分と体感時間が長くなっているので、彼女の中ではその三倍は経過している気さえしていた。

 起きてリビングに行くと、机の上に食パンが一枚置かれていた。食器を用意するのも煩わしかったか、袋の上に焼かれもせず、ジャムやバターも塗られないままの食パンがあるだけだ。とはいえ、用意されているだけマシだ。何方かは分からないが、少なくとも一度帰ってきたようだ。昨日の愛花はかなり早い時間に寝たため、気付かなかったのだが。まあ、気付いて顔を合わせたところで、会話する事も恐らくないのだが。

 半ば世間体の為に結婚したような仕事人間二人が、『他に血縁がいないから』という理由で、再従兄弟の娘を預けられたのだ。断らなかったのも世間体だろう。そういう意味では、多少同情の念は湧くが。構われなくとも良い愛花のような娘だったのは、彼らに幸いだったか不幸だったのか。

『居て悪かったね』と、少しだけ心に毒を宿しながら、ぞんざいに置かれた食パンをそのまま貪った。特段味がしないので、美味いも不味いも無かった。



 *



 さて、学校が始まるということは……すなわち、例の『ゲーム』も再開するということだ。

 あの身勝手な自己犠牲のゲームで、あの少年はまたも自分を無駄に傷つける。

 それを思った時、振舞われたハンバーグと、お風呂の事を思い出した。それと同時に、いじめっ子の少年と目が合った。彼は話しかけてはこなかったが、こっちを見ながらニヤニヤと不愉快な笑みを浮かべていた。

『恩は返すべき』という『良い子』としての心得と、『もう関わりたくない』という気持ち。


「……知らない」


 彼女が選んだのは、後者だった。

 彼女にとって、彼の家に行った事。それが『危険』だということが分かった。ああいう暖かさは、愛花にとっては毒だ。

 だから彼女は、逃げることにした。それに、今までは曲りなりにも愛花は、純と会話をしていた。愛花自身が一切かかわろうとしなければ、純もああいった事は止めるかもしれない。そうなれば、後は元通りだ。

 愛花は頭の良い少女だった。こうした正当化の理論を自分で組み立てられる程に。



 *



 その後、愛花は公園に行かなくなった。彼らだって子供だし、同じことを何度も続けていれば飽きも来る。そうなれば、純が勝っても勝たなくても、どのみち相手にされなくなる。愛花も、純自身もだ。

 そもそも、人をいじめるタイプの子供の動機は、基本的に『気に入らない』か『面白い』のどちらかだ。愛花を攻撃したのは前者ゆえだが、純に対しては確実に後者だ。つまり、面白くなくなれば純は恐らく解放される。その時まで待てばいい。

 そうなると、愛花は放課後にすることが無くなった。家に帰っても無駄に広いだけで退屈だ。だからこそ、暇つぶしとしてやる分には宿題は悪くなかった。回りの子たちはブーブー言っているが、宿題が多く出ると愛花としては有難かった。

 そうだった。一ノ森愛花という少女は、ここにきて最初のうちはこうして生きていた。今更戻ったって、何がダメという訳でもない。そう自分に言い聞かせて、ただ勉強したり、ボーっとしたりした。

 だが、そんな生活は一週間も続かなかった。もう会わないよう決めたその週の金曜日、純と廊下ですれ違った。会話はしなかった。純は何かしら言おうとしたかもしれないが、その前に愛花から逃げるように走り去ったのだ。咎める教師の声が聞こえた気がしたが、それも遠い世界の音に聞こえた。



 *



 放課後になった。

 愛花は挨拶と共に教室を出ていく同級生たちと違い、愛花は席をなかなか立てなかった。

 なまじ顔を見てしまった以上、気になって仕方がない。しかし、見に行かなければ現状維持が出来る。何しろ、すれ違った瞬間に見た彼の顔には、傷一つついていなかった。

 だから問題ない、という楽天的な考えに逃げられなかったのは、彼女の聡明さゆえだろう。

 子供は大人は思う以上に悪知恵が働く。自分たちのやっていることが大人に咎められることだと分かっていれば、それをバレないように色々と頭を働かせる。だから、顔や見える肌に傷が無いことなど、何も安心する材料にならないのだ。

 それに気づいたが故に、立ち上がれなくなった。もし彼が、服の下に様々な『遊び』の痕が刻まれていたら。彼の母は良い人ではあるが、純の無茶を織り込み済みで、よく言えば信頼、悪く言えば放置しているように見える。


「違う……関係ない……」


 彼の身体に取り返しがつかない何かが起きたら。

 愛花のせいで、別の誰かが傷ついたり、最悪死んだりする。それが嫌だから、一人で生きると決めたのだ。それが自分にとって大切な相手でなくても起こるのなら、どうすればいい。どうすれば、この『呪い』は消えてくれるのか。

 そんな考えが出たからか、愛花は立ち上がり、駆け出した。

『呪い』なんてないと否定したい気持ちと、あるはずで、なら誰かがいても仕方ないという気持ち。二つの気持ちにかき回されながら公園に向かって走っていると、前から見覚えのある四人組の男子が走って来た。全員一律に、青い顔をしている。


「ひいぃ、やっちまった! ありゃあやべぇよ!」

「一緒にいるの見られたら終わる! 今日は帰るぞ!」

「それに、タツもいないし……」

「逃げさえすれば、アイツは周りに言わないもんな」


 何かから逃げる四人の顔が、あのいじめっ子グループの四人であることを思い出した。

 その彼らが逃げている。それも話を聞く限り、何かを『やり過ぎた』らしい。

 そこから分かることは、考えるまでもない。純の身に、何かあったのだ。

 愛花は早鐘を打つ心臓に押されるように、全力で走った。

 そうしてたどり着いた時、ベンチに純がいた。

 口を押さえてうずくまる姿を見ると、ランニングで高まった全身の熱が冷めていくのを感じた。


「……大丈夫!?」


 息を切らしながら声を掛ける。見るからに大丈夫ではないのだが、それ以外に言葉が浮かばないのだから仕方がない。愛花の声に顔を上げた純は、手を口から外した。

 そこにあったのは、血ですべての歯が真っ赤に染まり、その上前前歯の一本が無くなった、純の口内だった。


「ヒッ……」


 そう、血だった。

 愛花がかつて目にした『アレ』とは比較にならない程少量だったが、確かにそれは血液だった。それだけで蘇る恐怖の記憶に、愛花は腰を抜かし、地面に尻をついた。

 体の震えが止まらない。初夏の空気の中にいるのに、雪山のような寒気が止まらない。

 マナーモードの携帯電話の比じゃない程に震え続ける愛花の手を、純の両手が包み込んだ。


「大丈夫」


 冷静な声だった。いつもそうだが、愛花は純が声を荒げるところを見た事がない。ただ冷静なままに、愛花を助けようとする。情熱があるのか、それともないのか。

 しかし、その冷静さは、今は完全に仇だった。


「いや……! なんで……! なんでぇ……!!」


 血を手で押さえていたということは、純の手にも血がベッタリ付いているという事だ。その手で触れられた愛花は、半狂乱になり、泣きながら純の手を振りほどいた。彼女の左手が、赤いインクに触れたようになっている。

 そこで純は初めて、彼女が何におびえているのか気付いたらしく、「ごめん」と小さく言ってから、すぐ傍の蛇口で口と手を洗った。そして水筒に水を汲み、愛花の手を取って流した。

 自分と純の身体から、恐怖の象徴たる赤色が消えたことで、愛花はようやく呼吸を整えることが出来た。


「ごめん、びっくりさせて。けど、本当に大したことないから」

「大したことないって……歯が……」

「また生えてくる方の歯だから大丈夫。血は思ったより出たけど……ティッシュもあったし」


 膨らんだズボンのポケットをポンと叩く純。最初はティッシュで押さえていたが、切れて手で押さえていたようだ。

 しかし、乳歯だったことを差し引いても少なくない出血量だった。元々抜け掛けの歯が抜けた、というより本来もっと未来に抜けるべき歯が抜けた、という風に、愛花には見えた。

 そこで愛花は思い出した。青い顔をして逃げる、いじめっ子達の姿を。


「そういえば……あの子達は帰ったの?」

「僕の歯が抜けて血が出たのを見て、逃げ帰ったよ。それにしても……彼らって、結構小心者なんだね。今日はリーダーが休んでたらしいけど、あの子は違うのかな」


 何をしていたのかは知らないが、いきなり口から大量の血が出たとなれば、普通は誰でもビビる。自分たちが原因だとすれば猶更マズいだろう。それを『小心者』と呼称でき、これだけ落ち着いているのは、肝が据わっているというレベルではなく、本当に同じ血の通った人間なのか疑いたくなる。確かにリーダーの子がいなかったというのは関係しているかもしれないが。思い出せば今日、彼は教室にいなかった気がする。


「ところで、最近は大丈夫?」

「は? 最近?」


『それはさておき』というような軽さで、純は話題を切り替えた。


「うん。僕が彼らと遊ぶ代わりに、君には何もしないって約束だったでしょ? 彼ら、ちゃんとそれ守ってるかなって」

「……それ、気にするの?」

「そりゃあそうでしょ? だって、そういう約束だったし、そこは守ってもらわないと」

「何も……されてないけど」

「そっか。ならいいんだ」


 愛花の返事を聞いた時――純はようやく、小さく微笑んだ。

 その微笑が、かえって愛花の神経を逆撫でした。


「じゃあ、帰るよ。今日はもう終わったし」


 しかし、その怒りを彼にぶつけることはできなかった。

 急ぐように去ってしまったのを引き留める程の声が、彼女には出せなかった。



 *



 血を流しても一切動じない純と、それに驚いて逃げた男の子たち。この事があったせいか、彼らの勢いは明らかにトーンダウンしたらしい。

 次の日もゲームそのものは続行されたらしいが、終わった瞬間気まずそうに帰っていったらしい。ちなみに、ゲームの内容は腕相撲五本勝負だとのこと。

 どうして愛花がそれを知っているのかと言うと――結局見に行ってしまったからだ。リーダーの子が今日も休んでいたから、というのもあったが。

 愛花はいよいよもって、滝本純という人間が分からなくなっていた。単純な正義感と言える程きれいなものではない気がする以上、何かしら根本に動かす感情があることは分かる。しかし、その正体が分からない。

 愛花に限らず大半の子供はそうだが、『自分の命より大切なもの』という存在を理解する事が難しいのだ。いや、大人でもそれが分かる人間の方が少ないだろうが。とはいえ大人の場合、愛花の両親のような子に愛情を注ぐ者は多い為、『この子の為なら命も惜しくないという事がある』らしい事は理解出来る。

 ならば、純は何を以てこれだけの事をするのか。以前聞いたときは『言いたくない』と言っていたが。

 愛花の中で、純に対して多少なりと興味が湧いてきた。とはいえそれは、『未知の生物』に対する興味と言った方が近いかもしれないが。

 そもそも一般人にとって勇者ヒーローとは、思考からして理解不能の生物だ。しかし、滝本純が本当に勇者ヒーローかどうか。それを彼女が知るのは、もう少し後の話になる。

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