いつかあった温かさ
他人の家に入るなんて、随分と久し振りな気がした。
勿論、ここに来る以前には何度も友達の家で遊んだし、自分の家に連れて来ることもあった。しかし、あの時遊んだ子たちとは離れてしまい、今となっては連絡する手段もない。
「着いたよ」
純は住宅街の中の家の一つで立ち止まった。特に何か言うこともない、他と区別のつかない普通の家だ。一体この家でどう育てば、こんなよく分からない男の子になるのだろう。参考にする気はないけれど、そこだけは少し気になる。
促されるままに家に入ると、彼と同じ黒い髪の女性が出迎えた。
「おかえりじゅ――ってああもう! この子ってばまたこんなに汚して! ……って、あれ? 純、このお嬢ちゃんは?」
「ああ、その子は……後で話すから、とりあえずこの子の分もご飯作って」
「えぇ……あんた、そういうのはせめて朝に言ってよ。まぁ……今日お父さん飲んでくるみたいだからいいけど」
「えっと……」
明らかに『いつものこと』と言いたげに呆れる純の母。彼らのやり取りに介入出来ずにいると、純の母が愛花に笑いかけた。
「ごめんなさいね、うちの純が」
「え? 何が……?」
「きっと強引に連れて来られたのよね? ご両親には私から言っておくから……連絡先が分かるもの、持ってる?」
「……持ってないけどいい。うち、誰もいないから」
「そっか。それじゃあ、お風呂も入ってく?」
「えっ……はぁ!?」
涼しい顔をして爆弾を投げられ、愛花は顔を真っ赤にした。こんな恥ずかしい思いをするのも、随分久し振りだ。
「ぜ、絶対嫌! なんで全然友達でもないのに一緒にお風呂に入らなきゃいけないの!?」
「え? いや、普通に一人のつもりだったんだけど……いやまあ、おばさんが洗ってあげてもいいけど……」
「……え?」
純の母の反応で、自分が盛大に勘違いしていたことを知った愛花は、沸騰した頭が一気に冷めていった。
「じゃ、じゃあ……後で……」
「いや、君が最初でいいよ」
「そんな泥だらけで家いるつもり?」
「そうよ純。先に入っちゃいなさい。毎日毎日汚してばっかりで……」
「……分かった」
少々不服な顔をしながらも、純は風呂場へと向かって行った。母親に対しては、自分ほど強情でないのかと、妙な気持ちになる愛花。
「それにしても、最近純が話す子って……アナタのことだったのね。まさか女の子とは思わなかったけれど……それなら色々納得だわ」
純の母は呆れながらも、何故か愛花を嬉しそうに見ていた。
「少しお話しましょうか。えっと……名前は?」
「……一ノ森愛花」
さすがに愛花といえど、他所の家の人から逃げようとはしなかった。そもそも家にまで来てしまった時点で逃げようがないのだが。
勿論、愛花も最初は断った。しかし、長らく口にしていない『手料理』というものの魔力に敗けてしまったのだ。
リビングに通された愛花は、綺麗に整頓された空間にまず気おくれした。かつての、実の両親と住んでいた頃を思い出したからだ。彼らは仕事で忙しかったものの、部屋の掃除や整理整頓を欠かさなかったので、いつも家中は片付いていた。無論、愛花も極力散らかさないようにしていたが。
「愛花ちゃん、今日のご飯はハンバーグなんだけど……ハンバーグは好き?」
「うん」
「それは良かったわ。それにしても、純ってばずっと同じ人としか遊ばないから心配してたけど……こんなお人形さんみたいに可愛い娘と仲良くなってたなんて思わなかったわ」
「な、仲良くない……! あっちがどうしてもって言うから来ただけで……!」
ここで愛花は、思い出した。自分は本来、人に合わせて流される子供だったことを。誰かに何か言われても、強く肯定や否定するようなことはなかった。
だが、今は違う。自分に人との繋がりや、良く思われる必要なんてないのだから、むしろ純への対応こそが正解だ。しかし、物心着いた頃から染みついた所作というものは、どうも簡単には取れてくれないらしい。
「ふぅん……そっか」
しかし、愛花の対応にも、純の母は意に介した様子は無かった。それどころか、愛花の態度を面白がっているようにも見えた。
「あの子は、時々凄く強情でね。『ここは譲る、ここは絶対譲らない』って感じで、自分の中で守るべき物をガッチリと固めているみたいなの」
「守るべき物……?」
「そう。基準は私にも分からないけど、そういうのがあるみたいなのね。ここはお父さんによく似たな~~って思うけれど」
彼の父については、以前に少し聞いたことがあった。
「えっと……男子は喧嘩して一人前、みたいなこと言ってた人?」
「それ、純から聞いたの? そうそう、丁度そういう人でね。すっごい石頭で、全然自分を曲げないのよ。まぁでも……」
純の母は、それまでとは明らかに違う種類の笑顔を浮かべた。頬が緩み切った、心の底から幸せそうな笑みだ。アレに似ている男性の何処を好きになるのか、愛花にはさっぱり理解出来なかったが。
そうして話していると、思ったより早くに純が上がって来た。
「上がったよ」
「純、あんたまたカラスの行水して。しかもいつもより早いし。ちゃんと洗ってるの」
「洗ってるよ」
「あっ、空いたなら……」
「さて、私はそろそろハンバーグ、仕込んでおかないと。面倒だけど、息子とその友達の為に頑張ろっと」
グイッと純の母が一つ大きく伸びをした。贅肉一つ無い、スラリとした細い体だ。そういう意味では、純によく似ている。
風呂場は特に変わったところは無いものの、やはり綺麗に清掃されていた。洗面台の鏡にも、水垢一つ無い。彼女か、あるいは父親。それか両方が綺麗好きなのだろう。
風呂に続く戸を開けると、湯舟にお湯が張られていた。彼女にとって、湯が張られた湯舟を見るのも随分久し振りのことだった。今の家で、愛花が独断でお湯を沸かすことなど許される筈がないし、そんな事をしても基本的に愛花しか入らない。
愛花は湯気立ち込める風呂に対して、正直言って有難く思った。放課後から夕方までひたすら歩きまわっていた彼女は、実のところかなり汗をかいていた。純と遭遇してから忘れていたが、汗を吸った服が体に張り付いて気持ち悪いと思っていたのだ。
愛花は一通り汗を流してから、湯舟に身を沈めた。全身を包み込むような温かさに、愛花は肩までじっくり浸かり続けた。気が付けば彼女は、夏だと言うのに真冬のように長風呂をした。
*
愛花が風呂から上がった時には、既に夕食が出来上がっていた。
愛花は、純の母が近所から借りて来たという服に袖を通し、食卓に着いた。
そこに並べられた数々の料理に、思わず涎が垂れそうになった。
白い輝きを放つ白米、トマトやパプリカに美しく彩られたサラダ。味噌と出汁が香るネギと豆腐のオーソドックスな味噌汁。そして何より、オーロラソースで味付けされたメインディッシュ、ハンバーグ。何処を見渡しても冷凍食品やインスタント、出来合いの総菜などではない。純の母による、完全な手料理。
思わず食らいついていきそうになるが、かつて母から仕込まれた所作を思い出し、両手を合わせた。
「い……いただきます」
「あら、偉いわね愛花ちゃんは。ほら純、あんたも見習いなさい」
「うっ……」
箸に手を掛けていた純を、母が小突く。純も慌てて手を合わせた。こういうところは、普通の子供っぽいようだ。
いざ箸を手に取ると、愛花は一切の迷いなくハンバーグに手を掛けた。本来ならサラダや味噌汁を最初に口にするのが作法だろうが、鼻腔をくすぐる肉の香りに、本能が逆らえなかった。
そうして愛花は、いざハンバーグを口に入れた瞬間――翡翠色の瞳から、涙が落ちた。
「えっ……?」
自分でも分からなかった。これが何の涙なのか、どうして今泣く必要があったのか。
純の母が作ったハンバーグは、特別美味しい訳ではない。美味しいのは確かだが、単純な味の好みで言えば、愛花の母が作った物の方が、彼女の舌には合っていた。だが、それと今の涙が何の関係もない事だけは、彼女にも分かった。
「愛花ちゃん!? その……美味しくなかった?」
「お母さん、何入れたの?」
「いや、何も入れてないって! いつも通りいつも通り!」
「ち、違っ……何でか、分かんないけど……」
愛花は両手でグシグシと涙を拭うと、凄まじい勢いでハンバーグやご飯を掻き込んだ。
そして空になった茶碗を突き付けて、力強く言った。
「おかわり」
その一言で、純の母は不安に満ちた表情を融解させた。
その後愛花は、ハンバーグを四つ食べ、ご飯を二杯おかわりした。
*
夕食後、愛花はすぐに帰宅した。流石に暗くなっていたので、純の母が送っていくこととなった。ただ、ここから家に帰るまでは多少の苦労を要した。というのも、愛花はあてもなく歩いてたまたま純に会っただけで、目的地を定めていた訳ではないからだ。故に彼女は、そもそも純の家と、自分の家や学校との位置関係をまるで把握していなかった。そのため案内など出来るはずもなく、『見覚えがある』程度の朧気な記憶だけを頼りに自分の家を探す、という苦難を強いられていたのだ。
自分の家が何処か分からない、という愛花に対して、純の母は怒る事はせず、むしろ道中話を振ったりと、色々と気遣いを見せた。愛花としては、それは不要なのだが、それを口に出せなかった。
「愛花ちゃんのご両親って何をしている人なの?」
「知らない。興味ないし」
「ふぅん。……愛花ちゃんは、純の事どう思う?」
「よく分からない。けど、おばさんが言ってた事は多分合ってる」
「……もしかして愛花ちゃん、純の事嫌い?」
「それは……」
純の事を聞かれて、どう答えればいいか分からなくなった。
『迷惑か』と問われたら、即答で『うん』と言っただろう。だけど、『嫌いか』と言われると、違うように思えた。
彼女が自分の中の純への感情を把握出来ない事を察したか、純の母は微笑んで彼女の頭を撫でた。
「親の私が言うのもなんだけど……純はあの子自身が思ってるよりずっと強い子だから。だから、あの子がやろうとしている事……『信じて』見守ってあげて」
彼女の顔に、愛花は見覚えがあった。それはかつて、母が自分に向けた顔。心からの信頼で満ちた顔だ。
きっともう、自分には出来ない表情だ。
愛花は彼女の求めに頷く事が出来なかった。否定することも出来なかったが。
そうして再び歩きだすと、すぐに愛花の家に着いた。二十時を回っているのに明かり一つ無いその家の前に立つと、愛花は足が竦んだ。元々帰りたい場所ではないのだが、それでも今日はやけに足取りが重い。
「愛花ちゃん。何かあったら、いつでもウチに来てね」
「あの子に変なことしないでって言っておいて……」
「ふふっ、そうね。言うだけ言っておくわ」
果たして本当にやってくれるのか。不安になりながらも、愛花は家に入っていった。
玄関にリビングと、背伸びをして明かりを点けていく。純の家より随分と広い。その広さは、彼女にとって何の意味もない事だが。
家中を支配する静寂が、今日は耐えられない。早々にリビングの明かりを消し、和室へ向かう。
元々子供のいなかったこの家の部屋の割り当ては、夫の書斎、妻の自室。後は六畳の和室が一つあった。この和室だが、先祖が祀られた仏壇があり、それ以外には雑多に物が積み上げられていた、半ば物置状態の部屋だ。この部屋に布団を敷いて、愛花は眠っていた。
何十年後の睡眠時間を先取りしたように、布団に潜った。歩きまわって疲れたはずの身体だが、一向に眠気が来ない。
目を閉じていると、思い出していた。久しぶりに食べた手料理の味。お風呂の温かさ。
かつての自分に当たり前にあったそれを、思わずにはいられなかった。