日常に戻す
トレーニングルームでの自主トレーニング以外にやることが無く、純はシミュレーターを出てから有酸素運動からバーベルなどの各種トレーニングに集中していた。
本音を言えば実戦を想定した訓練を積みたいが、今日のところはどうしようもない。
そうして四時を回り、流石にスタミナの底が見えた彼はシャワーを浴びてからロビーの椅子に腰かけていた。
「くそっ……」
焦りがあるのは自覚しているし、健全でないのも分かっている。
だが、今の協会の状況を見て、平常心でいられるものがどれだけいるだろうか。
もし今、今回戦った相手と同じような相手が来れば、果たして愛花を守り切ることが出来るだろうか。
思考が脳内を何度もループし、それだけが思考リソースを占有する。それを振り切る為に夢中で訓練に明け暮れていたが、体力は有限だった。
意味のない思考に意識を飛ばし、眉間に皺を寄せつつ床を眺めるだけの虚無な時間。それを終わらせたのは、突如頬に走った冷たさだった。
「……!?」
ガタリと音を立てて椅子から立ち上がり、左手に顔を向ける。敵襲ではない。むしろかわいい悪戯程度のこと。
目の前にいた十年来の友人、霧嶋輝の姿を認めた瞬間、それまでの凝り固まった思考は霧散した。
「何だ、お前か」
「悪かったな、山崎さんじゃあなくて。つーかお前働き過ぎだろ。一杯付き合えよ」
椅子を戻して座り直す純に、アキラは持っていたペットボトルのドリンクを置き、純の前に座った。ボクサーのように右手に包帯を巻きながらも、元気そうな顔をしている。
「なあ、その腕……」
「そんな顔すんなよ、折れてる訳じゃねぇんだ。あと二、三日もすりゃあ元通りだ」
「そして、アキラだけじゃないぞ。私もいる」
純から見て左手に、いつの間にか来ていた維月が座っている。彼女が現れると、アキラと彼女の前にも純と同じドリンクが置かれていたことに気が付いた。
恐らく自販機で買ってきたであろう、黄金色のエナジードリンク。激しい運動を一日中行った純を考えての選択。アキラとの付き合いがそれ程深くない人間なら、それだけで考えが終わっただろう。が、純はアキラの思惑を既に悟っていた。
「飲み終わったらオレが捨てとく」
「よく言うよ。お前の狙いは『コレ』だろ」
純が指差したのは、ラベルに描かれた美少女キャラクターの横。そこには、
『三点集めて、限定Vtuberグッズが当たる!』
という配信者とのコラボ企画が書かれていた。
「チッ、バレたか」
「いやまぁ、だからどうする事もないけどさ。確か百三十円だろ、後で出すよ」
「んな小さい事気にすんなっての。そういう仲でもねぇだろ」
「そうだ、ここは奢られておけばいい。これでもアキラなりに考えてたんだから」
「待った維月姉ぇ、それ以上は――」
「『完全に無償で何かすると恩を着せる』から、少しでも自分の利にもなることを選んだんだ。要するに純、これは君への気遣いの結晶さ」
「だから言ったら意味ねぇじゃんかよぉ」
「……成程な」
頭を抱えるアキラを見て、純は今日初めて、眉間の皺を取った。
確かに今、無償で何かされれば『後々でちゃんと返さないと』と思っていただろう。
気遣いに私欲を混ぜて恩を感じさせないようにする。成程、ある意味一番純の事を理解した行動と言える。
伊達に長い付き合いじゃないな、と思いながらふたを開ける。プシュッという炭酸の飛び出す音が響いた。黄金色のエナジードリンクを喉に通すと、強力な炭酸の喉越しと、エナジードリンク特有の甘い味が身体に沁み渡るのを感じた。普段こういうドリンクは好んで飲まないが、エナジーと名乗るだけあって、今のような時に飲む分には案外悪くない。
「効くだろ? オレも徹夜する時、このタイプのには世話になってんだ」
「私としては感心しないがね。カフェインに糖分量、飲み過ぎるのは長期的に見ればむしろ害の方が多い」
眉を八の字にしながらチビチビと口をつける維月と、対照的に喉を鳴らして美味そうに一気飲みするアキラ。彼の言う徹夜の原因は、十中八九オンラインゲームだろう。去年までなら試験前の一夜漬けといったところか。あれで成績は意外と上位だったのだから、日頃から勉強すればいいのに、と純は常に思っていた。尤も、それが出来ないのが霧嶋アキラという人間なのだが。
「っぷぅ……。つうかそれよりも、だ。純!」
「何だよ」
「何だよじゃねぇよ、お前……」
突然不機嫌になったアキラが、掴みかかりそうな勢いで純に迫る。酒にでも酔ったかのような変わり様に、思わず純は身体を仰け反らせる。
一瞬、僅かばかり緊張が走る。結論から言うと、その緊張は全くの無駄だった。
「ここ最近オレの事忘れてるだろ! 構えよ!!」
「わ、忘れてないだろ……?」
「いいや忘れてるね!! ここ二ヶ月ぐらいオレへの絡みめちゃくちゃ少なかったぞ! 忘れてるかもしれないけど、オレ山崎さんよりお前との付き合い長ぇんだからな!!」
「そ、そうだったっけか……」
「そうだよ、お前最近訓練か山崎さんとイチャイチャするかのどっちかじゃねぇか! 下手すりゃオレとお前が幼馴染ってこと忘れてるか知らねぇ人もいるレベルだぞおい!」
「あ~~……それは、まぁ……」
思い返してみると、確かにここ最近アキラと会話した記憶が薄い。愛花と同居したり、アーシェラの襲撃が短期間に三度もあったり、色々あったせいだが。
とはいえ、唯一無二の友人を蔑ろにしていたと言われて何も言い返せないのも事実。
「確かにそうだな、それは悪かったよ。でも、そう思うなら家にでも来れば良かったのに。今更遠慮する仲でもないだろ、愛花も喜ぶだろうし」
「いや、常識で考えろよ。男女二人の愛の巣にアポ無し凸とかどう考えてもカスの所業じゃねぇか」
「あ、ああ……そういえばそういう所はきっちりしてたな、アキラは。……ハハッ」
少しずつ、アキラとの会話を通して平時の自分が帰ってくるのを、純は感じていた。先ほどまであった焦りは消え、強さを求める戦鬼は、滝本純という、単なる十八歳の青年に戻っていた。
「……純」
「ん、今度は何だ? まだ何か忘れてるのか?」
「いいや、そうじゃねぇ。ただ――」
「ようやく笑ったな、純。私が久々に会ってからというものの、ずっと難しい顔をしていたぞ」
「維月姉ぇ~~! オレが言おうとしていた事を!!」
「む、そうだったか。それはすまない」
言われて、純は自分の頬が緩んでいるのを自覚した。
そうだった。
滝本純にとって山崎愛花が『無能な弱者たる自分が、日常を離れて戦える理由』だとすれば――
「なら、愛花には言っておくからさ。いつでも来てくれ。維月さんも一緒にさ」
霧嶋アキラは、『戦場という非日常から、彼を日常に連れ戻してくれる存在』だ。
愛花がアクセルだとすれば、アキラはブレーキと言える。何方も欠けてはならない。
純の誘いに、アキラは歯を見せて悪戯な笑みで応えた。
「言ったな? 言質は取ったぞ。スピーカーとハード持って来るから、スラブラ(スラッシュブラザーズ)対戦するぞ」
「おい待て、それまた俺はボコボコにされるやつだろ」
「明日な。丁度土曜日だし」
「明日!? いつでもとは言ったけど、流石に急だろ。というかお前、腕怪我してるじゃないか」
「こんなもん丁度いいハンデだ。世界戦闘力七百万なめんなよ?」
「諦めろ、純。アキラの前で軽はずみな発言をすると振り回されるのは、君も分かっているはずだ。あ、ちなみに明日は私も行くぞ。愛花も入れて四人対戦と行こうじゃないか」
「維月さんまで!? あ~もう……分かったよ。準備はしておくから、いつでも来い」
この強引さにも、慣れたものだと思っていた。が、久々に来ると驚かされる。
それでも純を、この強引さで日常に引き戻してくれていたのが、霧嶋アキラという男だった。
愛花だけじゃなく、アキラと維月。この二人の事も、守らなければ。
純の中で、アーシェラとの闘いに赴く決意が、また固められた。