アーシェラ
ローズ・ウォーターを撃破した純だったが、その後に更なる苦難が待ち受けていた。
彼の周囲に、人だかりが出来ていたのだ。
「しかしどうして塀がーーって、ん?」
「ひ、人が現れた!?」
「おい! 怪我してるぞ!」
どうやら、あの白い空間が解除されていた間のローズとの一悶着。特に結果的にとはいえ石の塀を破壊したことが騒動になったようだ。
愛花の家があるエリアからは幾らか離れているためか、純の顔を知る者は居なさそうだが、それでも厄介な状況には相違ない。
何しろ魔導協会の詳しい内情も、純が闘った『奴ら』のことも、一般には秘匿されている情報だ。しかしそれらの言葉を使わず、今ここにいる一般市民が納得する説得を純は思いつかない。
「あ、あの、私……その男の人がもう一人別の人を睨んでたの、見ました」
不意に声がした方を見ると、先ほど純とローズの戦闘を見、即座に窓を閉めた気弱そうな男が窓から顔を出していた。
「多分、喧嘩だと思います。でも、相手の方はどこいったんだろう……」
不味いことになった。そう、目撃者がいた。誰も目撃していなければまだホラ話の一つもすれば良かったのだが、これで場を収める難易度が一段と上がった。
そう思っていたが、思わぬ所に助け舟が出された。
「それ、僕も見てたんですけど」
聞き覚えのある声。純の背後から現れた男は、ポニーテールに結んだ藍色の髪を街灯に照らされながら続ける。
「確かに彼は誰かとにらみ合ってました。でも、それから少しして、もう一人の方は……消えたんです」
身に纏うは白衣を思わせる、しかし見るからにそれとは別の服。純にはそれが『魔導協会指定の戦闘用スーツ』であることが一目でわかった。すなわち彼は、魔導協会が寄越した増援の魔術師。それも純が知る限り、戦闘・現状打開両面で最高のものだった。
テレビでよく見る怪談の話者のような口調で話す彼。明らかに芝居がかった話し方だが、ここでは貴重な情報源。スーツもスウェット系のスポーツウェアに見えなくもないため、彼の言葉を怪しむ者はいなかった。
「もしかしたら、あれは……『アーシェラ』かもしれません」
『アーシェラ』。その単語を聞いた人々が騒めき始める。
「『アーシェラ』って確か、怪奇現象だよな? 今テレビでやってた」
「石の塀が崩れたり人が消えたり現れたり……どれもテレビで言ってたアーシェラの例の一つよ」
「でもそれって只の噂だろ?」
「そうは言ってもそれ以外にどう説明出来るんだよ」
辺りで議論が開催される。純と彼は知らなかったが、ちょうどテレビで心霊番組をやっていたらしく、それを観ていた人がいたことも、彼の言葉の威力を後押ししていた。
「怪奇現象の疑いがある以上、ここから先は僕たち一般人が考えても仕方ないと思いますので、後は警察などに任せた方が良いと思います。あと、そこの彼のために救急車も呼んでおきます」
彼の毅然とした態度に、周囲はただ頷くばかりだった。その言葉の一つ一つに不思議なパワーがあり、それは彼を良く知る純ですら、思わず頷いてしまいそうな程だーー彼が嘘八百を並べているとわかっていてもーー。
民衆がぞろぞろと退散していくと、彼は純に手を差し出した。
「立てますか?」
「悪い。助かったよ、白峰」
純は彼、白峰悠が差し出した手を取り、立ち上がる。その時、戦闘時の興奮状態が切れたせいか、体に再び鋭い痛みが各所から走り、ズキズキと痛み出した。
「もう『アーシェラ』は貴方が始末したんですよね」
「ああ。性格・戦闘力両方でキツかったよ……っと」
悠の手を離した途端、世界がピンボケした写真のようにボヤけ、身体がふらつく。
「無理しないで下さい」
「いや、大丈夫だ。これから協会に行って報告をーー」
「……貴方、自分の負傷度合いをちゃんと理解してます? 見て下さい」
悠が呆れ顔で純の血染めのパジャマをめくる。すると、そこにはドス黒く腫れ上がり、数本の切り傷から血を滴らせる純の腹部があった。
「これだけじゃありません。この服の様子、全身を切られましたね。出血もかなりのものです。先ほどのフラつきも、おそらく貧血によるものでしょう。普通ならとっくに気絶してても不思議じゃない。このダメージで立ち上がるどころか戦闘にも勝ったなんて……」
「体は丈夫にしてあるんでな。それより、あんな嘘ばかりで良く場を収められたな」
「昔に知った交渉術の応用ですから、それぐらい朝飯前です。もっとも、ここの住民は随分聞き分けが良かったですけど。というか、嘘ばかりではありません」
純のパジャマを下ろし、軽く支えながら悠は歩き始めた。
「『アーシェラの仕業』っていうのは、本当でしょう?」
「……それはそうだな。でもやっぱ無理があるんじゃないか? この隠し方」
「仕方ないでしょう。『新人類を自称する秘密結社』なんて、言った所で誰が信じるんです。魔法のことをセットで話すなら信じはされるでしょうけど、その場合僕たち魔術師にどんな目が向けられるかは明らかでしょう。ましてここは日本。こんな魔術師を持って、国内外にどう言い訳するって言うんですか」
「……確かに」
悠の言論に返す言葉もなく、純は頷く。政府の高官は知っているだろうが、大衆が知れば当然納得はしないだろう。
何故魔法の技術を一般に公開しないのか。その理由は実際悠の言葉通りのものだった。人間はただでさえ新しい物を否定したがるというのに、『凶悪な秘密結社』というおまけをつけて公開しようものなら、魔法に対する世間の目は当然『魔術師=テロリスト』になってしまう。そのような懸念があるからこそ、魔導協会は三十年以上昔の魔法技術を現在のものとして発表しているのだ。
「それはおいて、協会に着いたら医務室に行きましょう。怪我の治療だけでなく、輸血も必要でしょう。確か、A型のRh+でしたよね? 最も多い血液型なので、ストックは間違いなくあるはずです。それと、お腹のダメージが内臓にまで達していないかも検査する必要があります」
そう言うと悠は、右耳に手を当てて無線機をオンにすると、魔導協会と連絡を取った。
「白峰です、滝本さんを確保しました。負傷しているので、ベッドの用意をお願いします。ええ……あと、A型Rh+の血液も……ええ、頼みます」
連絡が終わると、悠は屈んで下から持ち上げるように純を背中に乗せた。
「何をーー」
「運ぶならこれが一番楽ですから。あ、掴まることは出来ますか?」
「それは出来るけど……平気か?」
「魔術師モードですから、問題ありません。あ、『瞬天』は使いませんよ? あれは近接戦用ですから」
「わかってるよ」
悠の「それじゃ行きますよ」という声を聞き、純は少し腕に力を入れて掴まった。そして門に向かった時の純に匹敵する速度で走り出した。それから魔導協会に着くまで、時間は掛からなかった。
*
魔導協会に着いてから、純はすぐ様治療を受け、今はベッドに寝ていた。全身に止血用の包帯が巻かれ、輸血の注射が腕に刺さっている。幸いにも内臓器官に至るダメージではなかったため、専属のドクターによれば「三日は絶対安静」とのことだった。魔法の応用技術である特殊な包帯を用い、治癒力を高めて三日ということは、通常なら一週間は起き上がることさえ出来ない負傷ということだ。今、彼は愛花への言い訳を考えている。
戦闘前は愛花に心配掛けないように、と傷つかない戦い方を心掛けたつもりだったが、いざ戦うと傷を負うような戦闘スタイルばかりとってしまう。これまで経験した実戦は、二回ともアーシェラとは本格的な戦闘にはならなかったため、幾つか小さい傷を受けた程度だった。だから『トレーニング中の怪我』で誤魔化せたものの、今回ばかりはどう言い訳すればいいかわからなかった。
「労災は下りる、といっても愛花にはどうでもいいか……」
「そんなのより純の身体の方が大事でしょ」と半泣きで怒る愛花の顔が目に浮かぶ。
四苦八苦していると、不意に医務室のドアが開いた。ドクターかと思ったが、ベッド周りのカーテンを開けたのは全く違う人物。それは、魔導協会東京支部長、宮村暮羽だった。
「よう。非番の身で緊急任務、悪かったな」
「いえ、大丈夫です」
宮村は近くの椅子にドカッと勢いよく腰掛けた。精気の感じられない瞳、整えられていない髪に無精髭。初対面の人間ならばまず間違いなく身構えられる容姿だが、比較的規模の大きい東京支部を任されているだけあり、決して無能な男ではないことを純は理解していた。
「三日は絶対安静か。アーシェラ単騎撃破の報奨金八十万、近いうちに口座に入れとくぜ。割に合うかはともかく……な。良くやった」
「ありがとうございます」
社交辞令としての礼を返す純。正直、幾ら金を積まれても、愛花を始めとした友人達との遊び以外、大した使い道もないのでほとんど興味はなかったが。
「んでもって……本題だ。こんな状態だが、お前にしか頼めねぇ任務がある」
宮村がバツの悪そうに切り出す。見ての通り、重症患者の純に次の任務を言い渡すなど、普通の事態ではない。
「理由は不明だが、アーシェラの連中は一人の女を狙っている。今回お前はーー」
「山崎愛花、ですよね。アーシェラから聞きましたよ」
「何だ、情報まで引き出してたのか。なら話は早え。その山崎って子の安全を確保するために、彼女には今の家を離れてもらうことにした。今頃、協会のエージェントから話を聞かされているはずだ」
「家を……離れる、ですか?」
「おう。家族はそのままで、彼女だけ移動して貰う。場所は警護及びいざって時の救援が楽なよう、協会から近くのマンションを借りようって算段で話を進めている」
事務連絡として、淡々と話を進める宮村。目立つのを嫌うアーシェラの街中での出現に加え、協会ぐるみでの手厚い護衛体制。もしかすると理由は不明、というのは嘘ではないかと純は勘繰る。が、それを尋ねた所で任務を任されるとはいえ一介の魔術師に過ぎない純に教えてくれるとは思えず、ただ時々相槌をうちながら、宮村の説明を聞く。
「奴らも当分は彼女の居場所の特定は無理だろう。更に特定しても、強固な防御体制を突破した上でマンションの住人に怪しまれずに誘拐、撤退する必要がある」
「居場所がわかったところで、それを攻略する手立てはないってことですか。それで、警備の魔術師はどのように配置するんですか?」
純の純粋な質問に、宮村は腹に一物も二物も抱えたような笑いを浮かべながら答える。
「まず、全体を見渡せる場所からの屋外監視が一人。緊急時に直ぐさま現場へ急行出来るよう待機させる魔術師が二人、こいつは交代制でやる。そして、『屋内警護』が一人。お前に任せたいのは、最後の屋内警護だ」
「屋内……警護?」
聞き慣れない言葉に脳内を?マークで埋め尽くされる。その様子を見て、宮村は「わかりにくかったか」と言いながらボサボサ頭をバリバリ掻いて、今度はそこを説明するように丁寧に話す。
「いいか、屋外からの監視っつってもメインは怪しい奴がいないか見張って、協会側に連絡することがメインだ。無論その後は戦闘を行う訳だが、その場合そいつは待機してる魔術師が来るまで一人でアーシェラの相手をする必要がある、しかも人質を取られた状態で、逃げようとする相手にだ。こんなもん、こっちが圧倒的に不利だろう。だからこそ、アーシェラが侵入した際に山崎愛花を護りつつ戦闘が可能な魔術師を屋内に配置するんだ。そして、その任を務めるのに必要なものはーー」
宮村が再び不敵に笑う。早い話が、純がこの任務に選ばれた理由を説明するという重大な場面。それに対して宮村の態度は全くもって相応しいものではなかった。が、彼が笑う理由は、すぐそこにあった。
「リーチの短い、閉所に強い得物を持ち、尚且つ単騎でアーシェラを撃破出来る実力がある者。そして何より、『対象との共同生活を問題無くこなせる様、対象と親密な者』」
「……え?」
耳を疑った。
彼は、確かに今『対象との共同生活』と言った。だが、それが意味することはつまりーー。
「それって……『愛花と同居しろ』ってこと……ですか?」
「ま、有り体に言えばそうだな」
「……え??」
直後、『騒音厳禁』の張り紙が貼られた医務室内に、純の絶叫が響き渡った。