過ぎた悪戯には
「……雨?」
屋上でマリーンを追い詰めたホンファの頬に雫が落ちた。すると、すぐに落ちる雫は数を増していき、やがて土砂降りの雨となる。時間的に夕立だろう。
それに一瞬気を取られた瞬間ーー何かが、彼女の横腹を殴った。吹き飛ばされたホンファを、逆方向から飛んできた鈍器が更に吹き飛ばす。ピンボールの如く跳ね飛ばされる彼女の耳に、幼い少女の嘲笑が響き渡る。
「アハハハハハハハハ!!!! ちょ〜〜〜〜っとだけ危なかったけど……マリーンの勝ちでした〜〜〜〜!!!」
その声で、今の状況を把握した。しかし、不可解な点がある。深海の錨は『海水に溶ける』能力だったはず。しかし、これは単なる雨。口に入る水滴からも、塩味はまるで感じない。
ということは、まさかーー。
「部屋にあったのが海水なのは〜〜ただマリーンが海が好きなだぁけ〜〜! 本当は水なら何でも溶かせるんでした~~!! 騙されちゃった? 頭の弱いおね~~さ~~ん♡」
騙された、というよりはこちらが誤解したという方が正しいかもしれない。しかし、自省できる状況ではない。何しろ、『三百六十度全方位から不意打ちされる』という最悪の展開だ。運が悪かった、で済ませるのは簡単だが、それで負けていては世話がない。尤も――
「アンタ……やっぱ弱いでしょ」
側頭部に叩き込まれた錨を足を踏ん張って耐える。流した血が雨と混ざり、床に落ちていく。幾度と無く殴打され満身創痍の身。握力も弱まり、滅青龍槍が手から零れ落ちた。それでも、その眼光と不敵な笑みから放たれる闘志に、一切の陰りなし。
「へぇ……? もうフラフラなのにそんなこと言えちゃうんだ」
「もう一発……ちゃんとココに打ち込みなさい」
先程打たれたばかりの側頭部を指差し、挑発する。誇れることではないが、煽り・挑発の類は自分でも良く口が回ると彼女は思う。ただ、マリーンに関しては多少雑でも乗ってくるはず。それは彼女の中で、明確な勝ち筋でもあった。
「まぁ、マリーン今機嫌良いし、ヒトモドキさんの言う事聞いてあげてもいい……な!」
錨が雨粒に溶け、その姿を消す。狙う場所が決まっていても能力を使うのは、その程度の理性はあるのか。それとも……。
「な~~んちゃって」
彼女が実際に狙っていたのは、後頭部。初めからホンファの言う通りにする気などまるで無く、その上で仮に裏を掻かれても対応し辛い後方という死角を叩く。水に溶け、自在に姿を消せる深海の錨は、まさに雨の屋外においては驚異的な性能を誇る。
はずだったが――。
「あら、意外と強かね」
「……は?」
ホンファの後方、一メートル程の位置。そこで突然、『錨が姿を現した』。当然、マリーンの意志ではない。瞬間、ホンファは身体を九十度回転させ、首元まで迫っていた錨を掴んで止めた。どうだと言わんばかりに、八重歯を見せて笑うホンファに対し、マリーンは先の余裕を忘れて慌てふためく。
「何で、何で何でなんでえええ!?!? 雨は止んでないのは――」
「えっ、ウソ。ホントに分かんない? ッハァ……」
気付かない方がおかしいのに。そう思いながら、ホンファは呆れ顔で自身の頭上を指差した。そこにあったのは、薄く延ばされた盾。ホンファの身体とその周囲をカバーするそれが、雨を防いでいた。となれば、彼女に攻撃する際はどうしても錨はその能力を失う。来るタイミングさえ分かっていれば、後は前方百八十度に気を張っていれば、それで視認出来なければ狙いは後ろ以外に無い。マリーンがどう行動しても、ホンファを出し抜くことなど不可能だったのだ。
「傘持ってない普通の人間ならともかく、アタシらは魔術師。雨宿りの屋根なんて簡単に用意出来るわ――よっ!」
錨の鎖をマリーンの身体ごと引く。ここで錨を解除すれば良かったのだが、彼女にそんな事が出来るだけの経験は無い。為すすべなく引き寄せられ、ホンファの元へ真っ直ぐ飛んでいく。その先で彼女は槍を持たず、拳を構えていた。
「その様子じゃあんた、親に怒られたこととか無かったでしょ。だから、アタシが代わりに教えてあげる」
言うまでもなく、彼女は徒手空拳での戦い方については全くの素人である。事実それは構え方にも表れており、経験者から見れば隙だらけの構えである。
だが、今はそれでいい。今彼女が振るえる武器は、原始の武器だけなのだから。
「度が過ぎた悪戯には――しっぺ返しが付き物よ!!」
無防備なマリーンの顔に突き刺さったホンファの拳によって、雨中の死闘に幕が降ろされた。
*
力任せの鉄拳制裁により、数メートル先まで吹き飛ばされたマリーンは、倒れたまま動かない。
ホンファは、簡素な短剣を創り出し、ふらつく身体を前に進ませる。戦いは終わった。だが、『処理』がまだだ。
「ひっ……」
迫り来るホンファに、マリーンが怯えた目を向ける。そこに、最早先ほどの威勢は見る影もない。
「女で子供なワケだし……見逃してやるのが筋かもしれないけど……」
雨に紅い髪を濡らし、冷酷な瞳で彼女を見下ろすホンファ。その脳裏に映るは、あの日の光景。
全てが燃え、灰と化した生まれ故郷。そして、幾つも転がっていた、赤色の液体が滴る奇妙な球体。自分が生き延びたのは、流行り病に遅れて感染し、村外れの病院にいたから、難を逃れただけだ。
あの犯人がアーシェラの誰か、という事までは分かったが、誰なのかは分からない。だがそんなことはどうでもいい。全て倒し尽くせば、必ず犯人にあたる。当たらなければ、何処かでくたばっているということだし、それでも充分だ。
だからこそ彼女は、女子供だろうと手心を加えはしない。
「アタシには無理だわ」
そう吐き捨てて、短剣をマリーンに振り下ろした瞬間――彼女の姿が消えた。
「すいませんね。人員は一人でも多い方が良いもんで」
突如現れた男――アルバート・レイノルズが、マリーンを抱えていた。そのまま門が展開され、その中に入っていく。ホンファは追おうとしたが、体力がここで完全に尽き、膝を着く。追撃は叶わぬまま、門が閉じていく。
「クッ……!!」
逃げられた。床を殴り、歯を食いしばる。
後に広がるのは、静寂だけ。ただ雨の音だけが響いている。それが意味するのは、既にどの戦場も終戦している、ということ。それに気が付いたホンファは、オペレーターに連絡を取る。
「アタシヨ。あいつらを追い詰めたんだケド、逃げられたワ。他は、どうなってるノ?」
彼女の呼びかけに応答が返ってくる。何処も戦闘そのものは終了しているということ、悠と三船たちが、二体のアーシェラを撃破したこと。そして――。
「……え?」
先程『滝本純の生体反応が消失した』ことが、告げられた。