闘う理由
ローズが純に背を向けながら、相変わらず冷徹な口調で話す。
「そのまま縛られているなら生かしておいてやる。あと十分もすれば薔薇は枯れる。その後は好きにするがいい。その頃には、俺も既に帰っている」
「今殺さないのかよ」
「動けないヤツを無為に殺すのは、美しいとは言えんだろう。たとえ貴様が救いようのないクソオスだろうとな」
「その口から出る罵詈雑言は美しいのかよ……」
純は心底呆れながら話す。聞こえていないかのように、ローズはキザっぽく前髪を掻き揚げる。数歩歩いてから立ち止まり、再び純に声を掛けた。
完全に勝ち誇った態度は、それまでも覗かせていた彼の性根が明確に顕れていた。
「そうだ、せっかくだから教えてやる。俺の任務はな、『女を連れてくる』ことだ」
女を連れてくる。
そのワードを聞いた瞬間、純の心に嫌な疑念が沸き上がる。そんな純をよそに、ローズは話を続ける。
「詳細は聞かされなかったが、そいつは我々の計画に必要な存在なんだと。上手くいけば、俺に世話役を任せていい、ということでな。茶色の髪に翠の瞳、まだ乳臭さの残る年ごろだが、まあ俺の女共の中に混ぜさせれば、それなりにはなるだろう。名前は確か、ま――」
ローズのターゲットである女性の特徴、そして名前の最初の一文字。純の中に確信と、怒りが沸き上がる。
「『山崎愛花』か」
「ああ、そうだ。そんな名前だったぞ。ん、待て貴様。なぜそれを知っている」
ローズが純の方を振り向いた。が、そんなことは今の純の気になることではない。その後すぐに「まあいいか」と再び背を向けたことも。
愛花が狙われている。
ただそれが、それだけが今の彼にとって用のある情報だった。
歯を食い縛り、全身にありったけの力を込める。棘が肉に食い込み、全身をカッターナイフで切りつけられる様な痛みが純を邪魔する。特に腹部はただでさえ重傷だというのに、荊の締め付けで更に血が溢れだし、ただ棘が抉るだけのその他箇所とは一線を画す激痛に見舞われた。この状態で出せる力では、荊を引きちぎるには不足。
「くそっ……!」
愛花が危険だというのに動けないことが、純に苛立ちを募らせる。その様子を見て、ローズが嘲るように言葉を投げる。
「無駄だ。如何に貴様が見かけ通りの馬鹿力だろうと、私の薔薇を引きちぎるなど不可能だ。動けば動くほど傷が広がり、痛みも傷も増すだけだ。わかったら大人しくそこで待っていろ」
理由はどうあれ、ローズの方に純を殺すつもりはないようだった。が、純にはそれが幸いだとは一切思えなかった。ローズが愛花を知る純に居場所を尋問する可能性もあったが、それも恐らく必要ないのだろう。
「大人しく待て、だと……?」
純は体に再び力を入れる。やはり、激痛で上手く力を集中出来ない。だが、このままでは愛花があの男の手に渡ってしまう。一般人に捕捉されることを嫌う『奴ら』の性質上、恵梨香に危害が及ぶ可能性も考慮せざるを得ない。
悔しい。
こんな棘のついた縄程度引きちぎれない自分が。苦痛に阻害されて力を出し切れない己が。すかしたキザ野郎に愛花が攫われるのを止められない滝本純が。
思い出せ。
何故、自分がここにいるのか。
何故、魔導協会に入ったのか。そもそも、自分には魔法の適正は無かった。ではなぜ、今こうして魔術師として戦っているのか。
その始まりの時を、思い出す。
*
「本当にいいんだな、純」
一人の男性が、少年に尋ねる。男の名は山崎玲一、少年の名は、滝本純。
二人は何処かの会議室と思しき部屋で向かい合って話をしている。それは談笑などという雰囲気では到底ない。むしろその真剣さは、まるで命に関わることのようだった。
「何度も言いました。僕の気持ちは変わりません」
純が真っ直ぐな瞳を玲一に向け、毅然として言う。その目から発される決意は、九歳になったばかりの少年のそれではなかった。彼がその小さな背中に何を背負っているのか。それはきっと、彼自身を除けば、知る者はいない。だからこそ、玲一は彼の決意を何度も確かめているのだろう。
「確かにお前なら、手術の成功率は通常よりずっと上がる。だからこそ、危険を承知で魔導協会はお前の手術を許可した。だが、それでも成功率は決して高いとはいえん。失敗したら、どんな副作用があるか――」
「成功すれば、僕に無いものが手に入る。それが、同時に愛花を守ることになるなら、こんなにいい話はありませんよ。それに――」
グッと両手の拳を握りしめ、一点曇りもない瞳で玲一を見つめた。そして、彼はその中に今一番の懼れを言葉として外界に送り出す。
「失敗するからって逃げてたら……。『また』逃げたら、今度こそ僕は、大事なものを何一つ守れない男になってしまう」
しばらく、沈黙が部屋を支配した。やがて、玲一が重い口を開く。
「わかった。お前はもう、私の言葉を聞きはしないだろうな。手術の日程は追って知らせる。こちらも、最善を尽くそう」
「ありがとうございます、玲一さん」
*
純は今、再び思い起こした。
自分が今闘っている理由。
全身の動きを封じられながらも、それを振り解こうと足掻く理由。
そこにあるものは、二つの想い。一つは愛花を守るという、十年以上大切に持ち続けてきた決意。そしてもう一つはーー。
純は脳内で、再生した。愛花の姿を。命を賭けてでも守ると決めた、あの花のような笑顔を。思考を、ただその姿を脳裏に克明に描くことだけに使用する。それが彼の『決意ともう一つの感情』を引き出すのに、最も必要なものだから。
「……?」
不意に、周辺の空気が変わったような気がした。それを察知したのか、ローズも足を止める。
痛い。
先ほどまでを上回る力を込めたが、それ故に棘の喰い込みも一段と強くなる。いや、食い込むのは棘ばかりではない。細いからこそ、荊そのものが皮膚を裂き更に多量の血潮を体外へと解き放つ。有刺鉄線を押し付けられている様なものだ。
首から下の全体で生暖かい液体が流れ出ていることを感じる。
それがどうした。
そんな痛みや流血など、障害にならない。それどころか、身体が「止めろ」と言わんばかりに苦痛を訴える度に純の筋繊維はより気合を入れる。歯を強く食い縛り続けていた結果、口の中に鉄の味が広がり始める。
だが、そこで止まる訳には行かない。ここで止まれば、『あの時』の、痛みを恐れて守るべき物を差し出そうとした時と同じ。
あの、忌むべき弱者だった己に立ち返ることになる。それは、愛花を守れないことと同じ程度に、純を動かしていた。
過去の自分。時間にして十年も昔の自分。その時の自分がやったこと、考え方。そのどれもが許されざること。
純の決意のもう一つ。それは『憎しみ』と形容するしかない、過去の滝本純に対する感情だった。
こんな糸切れの数本程度引き千切れないなら、愛花を守れないなら……お前に用はない。
愛花の幸せな姿を思うほどに、その憎しみの炎は勢いを増していく。そしてその炎が身を灼く程に、力となって出る。
縛り付ける荊が、ブチブチと音を立てて千切れていく。脚が、躰が少しずつ前のめりになっていく。
すると、今まで訝しげに此方を見ていたローズがレイピアを持って突っ込んで来た。
「しつこいぞ」
ローズの動きは、最初のそれよりも速い。しかし、早かったのは、純の方もだった。一本荊が切れると、残りの荊も後を追うように純から離れていく。最初の一本目以降を引き千切るのは、今の純にとって容易いことだった。
ローズが純の頭のあった場所に突きを放ったが、その時既に、純は自由の身になっていた。
「なっ……!?」
勢いを利用して前のめりになってそれを回避すると、再び両脚を強く踏みしめた。上手く体にブレーキを掛けると、今度は全力で右に回転した。狙うは、ローズの右腕。
レイピアを避けられ、驚きの声を上げるローズの右腕に向かい、左脚で蹴りを食らわせる。
「……アァッ!!」
それは、ローズの肘を的確に撃ち抜いた。骨の折れる確かな感触を、足の甲から感じる。そのまま脚を振り抜き、吹き飛ばした。
側面にあった家々を隔てる石の塀にぶつかり、塀が音を立てて崩れた。その音を聞きつけた気弱そうな男が、家の窓から顔を出すも、二人の状況を見て直ぐ、怯えた声を出してピシャリと窓を閉めた。
ローズは直ぐに立ち上がった。どうやら右腕は完全に死んだらしく、力無くダラリと垂れ下がっている。
「馬鹿な……」
「だから……言っただろ」
明確な殺意を込めた眼光が、純に刺さる。その眼に応えるように、純は赤の線が無数に走る体で言い放った。
「殺した方が良いってな……!」
肩で息をしながらも、眼光だけは真っ直ぐローズを睨み付ける。歯を剥き出し、全身から流血する姿は、狂的とさえ言えた。
純の言葉を聞き、ローズは左手でまた白い空間を作り出した。それは、純の啖呵に対する無言の応答。それまでの冷徹さは只のポーズでこちらが本性なのか。あるいは冷静さを失わせる程の怒りを買ったのか。それを知る由はないが、目を血走らせ、感情任せの言葉を吐き出しながら、ローズが純に襲いかかる。
「良いだろう……死にたければそうしてやる!」
単なる直線的な突進。先刻までの余裕など無かったかのような焦り様。が、その速さはこれまでで断トツの速度。怒りという単純明快な感情が、『純を殺す』という『意志力』を引き上げているのだろう。
何かを為したい、やり遂げたいといった感情、『意志力』は魔法の使用において、魔法自体への適正と使用者の練度の次に重要なものだ。つまり、強い意志を持つ者はそれだけ魔術師としての素養があるといえる。
故に、この戦闘の勝敗は、意志力の差で既に決していた。
「遅い」
純はローズの突進を軽々と躱してみせた。急行電車のそれに近い速さで迫るレイピアの切っ先を、ヨロヨロと飛んでくる蛾を避けるように、易々と。
愛花への愛情と純への怒り。片方だけでも、常人では持ちきれない程の莫大な想い。その二つを心に持ち、戦う力に変換している純の意志力。世界広しといえど、今の彼を超える意志力の持ち主は、いても数えるほどだろう。これがあったからこそ、純は病弱で虚弱な己を逸脱できたのだ。
そして今、十年を超える研鑽の日々の、積み重ねた想いの結晶。その一つが、眼前の敵を撃ち貫く。
「獲った」
小さな勝利宣言と共に、純は右手を開き、ローズの身体に添えた。その位置は彼の左胸――心臓。
純は、最後の言葉を口にした。そのワードは、彼の『必殺の技』を繰り出すためのもの。
『杭!!』
刹那、ローズの心臓はただの孔と成り替わった。
純の掌から打ち出されたもの。それは、重厚長大な杭。その杭は人体を豆腐に打ち付けた釘よりも簡単に穿ち、その身を鮮血の化粧で彩った。
心臓を失っては、最早生命活動に停止以外の行先は無くなる。まさに文字通り、『必殺』。
「かっ……」
一瞬息が漏れた後、ローズの身体は糸の切れた人形の如くダラリと垂れ、動かなくなった。
純は杭を消失させてそのまま右手でローズの身を少し離れたところに押し出す。すると、ローズの身体から閃光が迸り、直後轟音と共に爆散した。もし密着したままだったら、純も無事では済まなかっただろう。
「終わった……か……」
純はへたり込むようにして地面に膝をつく。世界がぐにゃりとねじ曲がり、息も絶え絶えだ。単純な疲労だけではない。短い上にそれほど動かなかったとはいえ、裂傷だらけの身体で戦闘を行ったのだ。失血が酷い。
正直、かなりギリギリの戦いだった。もし右腕をへし折ったあの蹴りが不発だったら。ローズ最大の武器である荊を封じることが出来なかったら。戦闘が長引けば、負傷の大きい純は確実に負けていた。
彼の勝因は、一重に『ローズが自身の目的を親切にも話してくれた』こと。これが無ければ、意志力を引き出して荊を引きちぎるなど不可能だっただろう。
作り手を亡くした真っ白な空間は、主の後を追うかのように消失。代わりに、純の住む町と満天の星が、純の生還を祝福してくれた。