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MUD_BRAVER  作者: 笑藁
四章 -廃棄区画調査-
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罪と師匠とエゴイズム

『殺す』。たった今、自分はそう宣言した。目の前の(アーシェラ)に対し、既に少なくないダメージを負った身体で、純は冷徹に断言した。

 その敵ーーコルナードーーはそれを聴き、純に声を掛ける。


「殺す……か。戦争のない平和ボケが蔓延した島国の男が……って言いたいところだが、その目とさっきの動きを見た限りじゃあ本気みたいだな。どう見たって正道の武術じゃあねぇ。……分かんねぇな。何だってそこまで覚悟が決まってやがる。何がお前をそこまで動かしている。この国で……お前は一体何を思って生きてきた」


 それはただ、純粋に疑問に思ったことを口にしているようだった。会話で隙を作る、などという小賢しい策謀の意図は感じられない。ただ単純に、滝本純が持つ意志力を信じられない様子だった。それこそ、まるで恐れを抱いている様にも聞こえる。


「俺に何があって今に至るか。それを話したって、お前は退かないだろう。なら、話しても仕方ない。ただ一つ言えることは……俺が恐れているのは、死ぬこと何かじゃない。本当に恐ろしいのは……」


 拳を構える。それはあくまでも相手を『殺す』ことが目的の構えであり、コルナードの言う通り正道の武術における構えの何物にも当てはまらない。

 その状態で、茶色の瞳で鋭く、眼力でも人を殺さんとばかりに睨んで力強く言い放った。


「自分の心に刻んだ『誓い』を貫けず逃げることだ。俺は逃げない。ここで逃げれば、俺は最早俺であることに耐えられなくなる。だから……」


 純は揺れるように不規則に動き出した。徐々に動きの不規則性を増しながらコルナードに近づいていく。やがて突然大きく右へ跳び、彼の視界から一瞬己の姿を消した。次に純を捉えた瞬間には、彼は首に左の手刀を当てんと構えていた。それを察知したコルナードが防御の態勢を取るも、純は既に腰を低くし、大きく体を捻って胴体で右手への視界を遮っている。自らの体で死角を作り、攻撃の開始に対する反応を遅れさせる。師と模擬戦をした時、よくこの技にやられた。


「俺の誓いを……『彼女』を守るために、俺に殺されていろ!」


 殺意の言葉と共に繰り出された拳は、コルナードのトンファーに防がれた。金属同士がぶつかり合い、甲高い音が鼓膜を揺らす。硬い物を殴りつけた為、拳に衝撃と痛みが走るが、そんなものを気にしていられない。


「イカレてるぜ……お前」

「だったらどうした」

「どうもこうもねぇよ。その誓いとやらは果たさせねぇ。貫きたい誓いがあるのは、お前だけじゃあないってことさ!」


 コルナードもまた宣言した。此方にも誓いはある、と。こうなった以上、言葉を交わすのは無意味。

 何故ならここからは、意地と意地の衝突でしかないからだ。

 これは、貫くべき想いを抱えた者同士の命の削り合い。肉を潰し、骨を砕き合う壮絶な殺し合い。



 *



 その幕が上がったと同時に純の頭を過ぎるのは、反吐が出るような己の醜悪さ。『己であることに耐えられなくなる』とまで言い切った男が持つ、下劣極まるエゴイズムと、その原点。



 *



『このままでは、自分が自分を許せなくなる』


 滝本純が最初にその感情を抱いたのは、一乃森愛花の優しさを知った時だった。

 少し前の転校してきた、一つ下の学年の女の子。その子がいじめを受けていたことは知っていた。しかし、純がそれを見た時、彼女は後ろから突き飛ばされてもスカートをめくられても、何をされても決して表情を変えなかったから。本人は何とも思っていない、そう判断して止める気を持たなかった。彼女は人形やロボットのように何かを感じにくい。そう、決めつけていた。

 その感情が最初に変わったのは、ある雨の日だった。純がアキラの家へ行こう学校近くの広い公園を通った時のこと。公園の屋根がついたベンチの上に、一匹の野良猫がいた。その猫はつい最近周辺で見かけるようになったのだが、体にグロテスクな火傷痕があり、近所の人たちは皆その猫を気味悪がっていた。

 純もその猫のことはあまり見ないようにしていたのだが、こんな雨の日にも帰る場所がないことは少し可哀想だと思った。

 そうしてほんの数秒見つめて再び歩き出そうとした時だった。一つの傘がそのベンチに向かって行く。ベンチに着き、閉じられた傘の下から、愛花が現れた。その瞬間、気になった純はこっそりベンチに近いところの垣根に向かい、身を隠した。

 愛花は、猫の姿を見るやいなや、心なしか悲しそうな顔で尋ねた。


「……一人なの? 私と同じように。良かったら、暗くなるまで居ようか?」


 その言葉を聞いた瞬間、純の心の中に強力な感情が押し寄せてきた。彼女の事を人形やロボットのようだと評していた自分を今すぐ殴りたくなった。

 醜い動物に対して嫌な顔一つせず受け入れ、小さく微笑む彼女の何処がロボットだ。

 この時心を支配した感情が何なのか、直ぐには分からなかった。ただ一つ分かったことは、この感情を放置していたら自分はきっと自分であることに耐えられなくなるという直感だった。

 それと同時に、もう一つ別の感情が芽生えた。ただし、その感情の正体はすぐにわかった。『この優しい子が幸せになれないなんておかしい』という彼女を取り巻く環境自体への『怒り』だった。



 *


 彼女を諦観と迫害から救い出したこと。それは純に対して自信になると同時に、もう一つの感情を与えていた。

 最初の頃は、自分への怒りが消えること、そして彼女を害するものを放置してきたことへの償いの気持ちから行動していた。

 しかし、それらが達成されても、純は彼女と関わり続けた。『彼女に笑って欲しかった』から。その頃の彼は、本当に時々しか笑わない愛花を笑顔にしようと様々なものを持ち込み、見せていた。そして、ほんの小さな微笑みでも、笑顔が見れた時は『生きていて良かった』とさえ思える程に嬉しかった。そんな日々が続くと、いつしか純は寝ても覚めても『これなら愛花は笑ってくれるかな』といったことばかり考えるようになった。

 それを自覚した時、彼は自分が愛花のことを『世界中の誰より好きになっている』ことに気が付く。いつか彼女と結ばれることが出来たら、という夢想をする時間も日毎に増えていった。

 そんな時だった。

『このままでは、自分が自分を許せなくなる』という感情を、もう一度覚えた時は。



 *



「グフフ……ねぇ、あの可愛い天使ちゃんが何処かわかる? 分かるよね? だって君ずっと一緒にいたでしょ?」


 夕方、カラスが鳴く頃だった。その日、愛花は調べ学習のために学校の図書館に残っていた。そのため、純はアキラと二人で遊んだ後、家に帰ろうとしていた。その帰り道に、ソレは現れた。

 いきなり純を壁際まで追い詰めた、おおよそ人間のものとは思えないような悪臭を漂わせた肥満体の男。

 後になって分かったことだが、この男は愛花に一目惚れしていたらしい。裏で犯罪組織と繋がっていたり誰かに依頼されて探していたとか、そんなことは一切無い。ただ体が大きいだけの倒錯した小児性愛者だった。

 それが、醜悪な笑みを浮かべながら純へと詰め寄る。この男の言う天使ちゃんが愛花だということは察せたし、この時間なら愛花はそろそろ図書館を出る頃だということも知っている。それは知っていたが、教えれば愛花の身が危ない。彼女の幸せを守る。純はこの時、既にその誓いを立てていた。だから、それを貫く。

 小学四年生にしては堅固で殊勝な信念。今の自分なら何にも屈せず、立ち向かえる。


 そう、思っていた。


「ねぇ……知ってるでしょ? せめて何か言おうよ? 言わないと……どうしよっかな~~グフフ……」

「……!?」


『ソレ』を見た瞬間、全身の温度が抜けていくのを感じた。

『包丁』だ。何てことはない、一般家庭なら何処にでもある万能包丁。しかし、それは紛れもない凶器。十歳にもならない程度の少年の精神から死への恐怖以外の感情を奪うには、充分過ぎる代物だった。

 結果――――――――。


「ま……愛花は今、学校から帰るところ……です……。教えました、だから……殺さないで……」


 言って、しまった。

 いや、ただ居場所を吐いただけならまだ良かった。両の目から大量に涙を流し、夏にも関わらず全身をガタガタ震わせながら命乞いをした。その事実が、純の中で確立されつつあった自尊心を欠片も残さず打ち砕いた。


「グフフフ……そっか、愛花ちゃんって言うんだ。良いこと聞いちゃったな~~。待っててね、愛花ちゃ~~ん」


 男はそれを聞いた瞬間、速足で純の元から離れて行った。


「あ……ああ……」


 一人になった純は、地面にへたり込んだ。ボロボロと涙を零したが、自分のやったことは決して取り返しがつかない。

 愛花を守るという決心と彼女への恋心。大事に抱えていた二つの気持ちが、純の犯した所業を激しく責め立てる。

 そして、彼は理解した。その感情の正体もまた『怒り』の一種だということに。他人に対して抱くそれなど及びもつかない程に強力な、『後悔』『自罰衝動』と言い換えることも可能な感情。


「ウアアアアアアアアアァァァァァァァァァ!!!!!」


 道の真ん中でひれ伏して騒音と呼んで差し支えない程の大声で泣き喚いた。その声を聞いた大人のうち何人かが寄り、背中をさすったり訳を聞こうとしてくれた。

 しかし、それは純の涙を止めることどころか更なる不快感を与えただけだった。


『僕に優しくしないで。こんな、何の価値も無い僕に』


 そう叫びたかった。しかし、溢れ出す涙と慟哭がそれを許さなかった。



 *



 その後、純の発言を手掛かりに愛花を見つけた男は、彼女を押さえつけてバッグの中に押し込み自らのアパートに連れ込もうとした。しかし、幸いにも異変を感じた通行人の通報を受け、部屋に連れ込まれる寸前で男は逮捕され、愛花も無事に救出された。

 この結果だけを見れば、不幸中の幸いと言えるかもしれない。しかし、愛花はこの一見で心に深い傷を負い、以後数年に渡って『純の知り合い以外の人間を恐れる』ようになってしまった。

 当然だが、純はこれに対して大きな責任を感じ、『自分の何を捨ててでも、愛花の笑顔を守りたい』という誓いに加え、『二度と泣かない』『二度と逃げない』という掟を自らに刻み付けた。

 その次に抱いたのは、それを今度こそ実行できる『強さ』への渇望だった。

 少ない小遣いを叩いて買った格闘技の本。それを見ながら少し離れた小高い丘で隠れて一人練習する。それを日課にして二週間。

 普段と同じように、本の内容通りに動いてみる。いまいちしっくり来なければ自分で考えて調整する。そういったことをしていると、後ろから変わった笑い声が聞こえてきた。


「キ、キヒヒヒヒ。ハハハハハ!!」


 振り向くと、後ろで男が声を上げて笑っていた。


「……何ですか?」

「あ? クハハ、悪い悪い、いや~~あまりに面白かったもんでな。で、そりゃ何の遊びだ坊主」


 男の容姿を意識した瞬間、純は足が竦んだ。

 身長2m程はありそうな白人の男。その身体は一目見ただけで『筋肉の鎧』と形容するに足るものだとわかる程に巨大で、それでいてシャツから覗かせる筋肉は何処か彫刻のような美しさを兼ね備えていた。メタリックブルーの瞳は濁っているのか澄んでいるのか、どちらともとれるような輝きを宿している。

 男は驚くほど流暢な日本語で純に疑問を投げかける。


「何って、格闘技の練習。はい」


 純が渡した本を受け取り、パラパラとページをめくっていく。すると、男はものの数秒で本を地面に放り、つまらないものを見た、といわんばかりの顔で言い放った。


「ハッ。駄目だ、こりゃ」

「なっ……」


 子供とはいえ初対面の相手に対して先ほどから無礼な人だ。

 流石に苛立った純が反論しようとしたところで、男は純の体を両手で持ち上げた。


「え、ちょっと――」

「おい坊主、お前誰かから武術の一つでも学んだか?」

「い、いえ。特には……」

「だろうな。アレはどっちかっつーと経験者向けだ。素人が独学でやるために読むモンじゃねぇ。せめて武術における体の動かし方の一つは身に着けてから読みな」

「なんでそんなことが……」

「そりゃあお前、知ってるからに決まってんだろ。ま、俺の技はアレに載ってるような温いモンとはちょいと違うが」


 男は純を降ろすと、今度は鋭い歯を見せて笑った。


「その技だったら、お前に教えてやってもいい」

「え?」


 冷静になって考えれば、怪しい所の問題ではないことだった。

 見ず知らずの男がいきなり『技を教える』などと言っている。学校で『知らない人について行ってはいけない』と習うが、それでも『格闘技を教える』なんて言葉で釣るという例を示されたことは無いだろう。無論、平時の純ならばこの時点で逃げていただろう。しかし、この時は状況が悪かった。


「いいんですか?」


 思わず、そう返していた。

 正直に言えば、一人で出来ることなどたかが知れていることは分かっていた。しかし、『原因』が原因なので『格闘技を習わせてほしい』などと親に進言出来なかった以上、こうするしかなかった。そんな状況下で、筋骨隆々の男がこう言えば、純からすれば藁を掴むような心境で当てにしたくなった。


「ああ。その前に一つ聞くぞ。お前が力を求めるのは、何故だ?」

「どうして、ですか……」


 先日に起こったこと。自分の立てた誓いが全て吹き飛ぶ程の醜態を思い出し、舌を噛み切りたい衝動に駆られる。

 それを堪えながらも、自身の内から湧き上がる怒りのままに思いを口にした。


「そうならなければ……あの子を守らなければ、僕は二度と自分を許せなくなるから」


 その答えを聞いた男は、再び獰猛な笑みを浮かべると、純の手をグッと握った。


「クッ……ハハハハハハハ!! 良いぞ! 俺の見立て通りだ!! お前、素質(・・)があるぜ。その素質に免じてお前にはこの俺の技から信念まで、心技体すべてを叩き込んでやるよ」


 それが、初めての出会い。彼に戦い方ーー(ころ)し方ーーを教えた男『ミハイル・ウォルステッド』との邂逅。

 それが純にとって幸運だったか不幸だったか。その答えを、純はまだ下していない。



 *



 ミハイル・ウォルステッドと出会って数日後。純は彼に連れられ、山奥に来ていた。休日の朝に連れ出された時は山籠りの修行でもするのかと考えていた。弟子になって最初に山へ行くとなれば、それ以外には考えられなかったからだ。

 純が息を切らしながら急勾配を登り、草木をかき分けて進むうちに辺鄙な場所でミハイルが立ち止まった。


「あの……どうしたんですか?」

「純。お前は確か、『守りたい人がいる』って言ってたよな」

「? はい、そうですけど」


 ミハイルに弟子入りする直前に言った、『あの子を守れなければ自分を許せなくなる』と。ミハイルもそれを聞いて純を気に入り、弟子にした。それを今更確認することにどういう意味があるのか。

 脳内を疑問符で埋め尽くした純に、ミハイルは言った。純を弟子にした時と同じ、あの狂気的な笑顔で。


「俺から与える最初の教えだ。『守るため』、その言葉を頭にしっかり刻んでから俺のやることを良く目に焼き付けるんだ」


 ミハイルが口を閉じたのと同時に、目の前の草むらが揺れた。そこから、猛スピードで何かが純目掛けて突っ込んでくる。


「ひぃっ……」


 思わず腰が抜けた。その突っ込んできたものの正体が、『猪』だったからだ。

 逃げないと。そう思っても地面に情けなく尻をついた身体は動かない。

 死ぬ。

 そう直感で悟った瞬間ーーミハイルが横から猪を蹴り飛ばし、純を『守った』。

 吹き飛ばされた猪は地面を転がり、そのまま倒れこんだ。


「チッ、若い雄か。ちぃと物足りねえが、仕方ねえ」


 ミハイルはそう呟くと、倒れた猪の目の前に立ち、起き上がるのを待った。やがて起き上がった猪は純から眼前のミハイルにターゲットに変え、彼に向かって突進する。

 ミハイルは「クハッ」という笑い声を漏らしながら突進を軽く避けながら、四つ足の間を縫って腹を蹴り上げ、何メートルもの高さへ打ち上げる。それが放物線を描いて落ちてくると、握りしめた右の拳を自由落下する猪へ叩き込んだ。

 猪は凄まじい速度で吹き飛ばされ、樹木に激突して止まった。猪は二度三度痙攣した後、その呼吸を停止した。


「純、お前に質問だ」


 ミハイルは殴った際に皮膚を突き破ったのか、血と肉片のこびり付いた右手をプラプラと振りながら純に尋ねる。


「俺は今、『何をした』?」

「い、猪を……殺し、まし、た……」

「そうだな。続けて質問だ。何故俺はあの猪を『殺さなければならなかった』?」


 ミハイルの表情を見て、純は背筋が凍るのを感じた。何も恐ろしい表情を作っている訳ではない。むしろ逆。彼は『笑っていた』。まるで一仕事終えたかのような満足げな顔で、純に何かを感じさせようとしている。彼の質問に黙秘したかったが、そうするともっと恐ろしいものを見てしまいそうな気がした。


「ぼ……僕が……襲われた、から?」


 目に涙が滲む。二度と泣かないと、そう決めていたのに。彼が怯えていることを知ってか知らずか、精一杯に返された答えを聞き、ミハイルは『右手で』純の頭を撫でた。


「正解だ。大の大人でも下手をすれば死にかねないのが猪の突進。それをお前みたいなヒョロっちいガキが受ければ……間違いなく死ぬ。そうなっちゃあいけねぇから、俺はあの猪を殴って蹴って……(ころ)した」


 頭から伝わる生暖かい感触に、全身に鳥肌が立つ。かつて生物だったものの一部を感じさせながら、ミハイルは続けて行動の意義を説く。


「そういうことなんだよ、『守る』ってのは。何かを守るってことはなぁ、別の何かを『壊して』初めて成り立つ。他を害し、破壊すること。守りてぇもんがあるなら、それを害するモンは残らず、徹底的に壊し尽くせ。あぁ、それでもお前みてぇな甘ちゃんは躊躇うかもな。だから俺から、一つアドバイスをくれてやる」


 ミハイルは立ち上がり、猪の死体を持ってきて純の前に置き、血に塗れた右の胴体部分を撫でながら再び悪鬼の様に笑う。


「『愉しめ』。なに、殺しってのは人間の本能に根差す快楽だから、すぐ分かるようになる。コイツのこの部分を拳で貫いた瞬間覚えた『弾けるような悦楽』も。強く、頑強な存在を粉砕した時に見える『綺麗な色』も、な。いや、後者は俺だけらしいが」


 純はただ、今まで生きてきて一度も感じたことのない感覚に精神を支配されるしか無かった。口内が凄まじく渇き、風邪をひいた時など比べるのも烏滸がましい程の悪寒を覚えながら、しかし全身から溢れ出る汗は止まるところを知らない。


「まぁ、どうしても嫌だってんならそれで良いぜ。そうなったらそうなったで、また探しに行くさ」

「……ます」

「あ?」


 産まれたての子鹿のように震える足を抑えつけて無理やり立ち上がり、『逃げろ』と告げる本能を理性と『恐怖』で無理やり封じ込める。ズボンに広がる染みと滴り落ちる雫の不快感さえ気にも留めず、純はミハイルに頭を下げた。


「宜しく……お願い……します。もう……もう『逃げない』って、誓ったから……僕は……俺、は……」

「……クヒヒッ。クハハハハハハハ、ギハアアアアアハッハッハッハッハッ!!」


 酷く惨めなその様相に似つかわしくない勇ましい言葉を吐く純の姿を認め、ミハイルは嗤った。

 それまで見せたものとは全く異なる、下衆な嗤い声。しかし、欲しかったおもちゃを手に入れた子供のような純粋さも兼ね備えていた。それが只でさえ奇怪な彼の嗤い声に狂気というスパイスを与えていた。


「アア、良かったァ…良かったぜ、純。お前はやっぱり『当たり』だァ。お前なら強くなれるさ、それこそ……テメェに立ちはだかるもの全てをころせるぐらいにな。アア、楽しみだ……お前がどうなるか、今から楽しみで仕方ねぇよ」



 *



 以後、純はミハイルが姿を消すまでの四年間に渡って、彼から技と精神を教わった。

『守る』ためには『壊す』必要がある。この言葉は純の心に強く刻まれ、『愛花を守るためなら己さえ捨てる』という感情をそれまでとは比較にならない程に強くした。

 彼から教わった技とトレーニングで手に入れた肉体が、純に愛花を害する存在を打ち砕くための力を与えてくれた。

 数えきれないほどに地面を転がされ、吐瀉物を撒き散らし、死を予感するほどの恐怖を味わった。

 何度も逃げたいと思った。しかし、自身の誓いがそれを許さなかった。逃げない、というものだけじゃない。純を突き動かしたのは、『愛花への想い』だった。

 愛情、贖罪、義務感。様々な感情が混ざり合った彼女への想いがあればこそ、純は逃げずにいることが出来た。

 自分の弱さのせいで彼女が笑えなくなる。その時のことを考えたら、水月をつま先で打たれることなど苦でも無かった。

 自分が逃げることで彼女が世界から消えることに比べれば、自身が覚える死への恐怖など何の障害にもならなかった。

 彼女が笑って生きられるように。その大義名分さえあれば、自分は何であろうと実行出来る。

 コルナードは純を、『イカレている』と言った。その通りだ。自分が正常な人であれないことなど承知している。

 だからこそ、どれだけ彼女を愛しても、彼女を抱く資格を自分に与えられない。

 彼女が自分に向ける感情が、家族に対する愛情だけでないことも察しがついている。しかし、そのことは考えないようにしている。意識してしまえば、また『逃げてしまう』恐れがあるからだ。自分が果たすべき責任や彼女に隠した己の醜悪さ、生涯背負うべき罪過の全てを投げ捨てて、真人間の振りをしてしまう。

 もし彼女に耳元で直接的な愛の言葉を囁かれればどうなるか。間違いなく情欲のままに彼女を貪る。これまで抑えてきた感情の波に呑まれ、自己の欲望を満たすためのモノとして彼女を扱うことになる。

 何故、そう言い切れるか。簡単だ。自己の欲望を満たすために愛花を扱う。これを純は、『既にやってしまっている』。

 そもそも、本当に愛花と結ばれる資格が無いというならば、自身に好意を向ける彼女に理由も併せてその旨を伝えるのが筋だろう。彼女が納得するかはさておき、受け入れられない理由に己の責任や罪などという言葉を使うなら、やらなければならない事に違いない。

 しかし、純はそれをしていない。何故か。それは彼の存在意義が『どうしようもなく愛花に依存しているため』である。

 あの小児性愛者の一件以降、純の中に自尊心というものは存在しない。だから自信という器を満たすための水を自分一人で注げない。

 だから、愛花の存在が必要なのだ。『苦痛に耐えて彼女を守る』という信念を実行している間、彼は心を満たすことが出来る。彼女が笑ってくれれば尚更だ。

 しかし、自尊心がないというのはただ水を注げないというだけでない。言うなれば器の底に穴が空いている状態だ。時間が経てば注いだ水が無くなってしまう。だから純は、彼女から離れられない。だから、自分から彼女が離れる危険があるような行動は出来ない。

 例え好意を向けられていたとしても、自分に彼女を抱く資格はない。しかし、彼女を守っているという実感が欲しくて彼女が自分から離れるようなことは出来ない。『罪悪感を持ちたくない』という欲望、『己の存在意義を確保したい』という欲望。この二つの欲望のために、『彼女への愛情も彼女からの愛情も利用している』。

 守るために戦い傷つく自分に愛花が心を痛めていることを知りながら、彼女から一度たりとも『私を守って』と頼まれたことが無いことを理解しながら、それでも彼は醜悪な自己犠牲を、『愛花のため』というメッキで塗りたくられた自己満足を止めない。そうしなければ、自分が自分であることに耐えられないから。外道、屑などという誹りを受けても一切否定出来ないレベルの『エゴイズム』。

 これこそが、滝本純という男の本質。結局のところ、彼が見つめているのは『己の罪』だけなのだ。罪の元が何れも愛花である以上、彼女への想いこそ純の原動力であることは間違い無いが、その本来尊ぶべき愛情さえ、罪というヘドロに封じ込められている。

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