新人類
純が突然出て行ったあと、しばらくポカンとしていた愛花だったが、ようやく我に返るとハンバーグを二つ別の皿に移し、ラップをかけた。
愛花は部屋の静かさに耐えられず、テレビをつけた。蒸し暑い夏の夜に似合う都市伝説・怪奇現象特集の司会の声が部屋に響き渡る。
『今世界を騒がせる怪奇現象「アーシェラ」。では最初に――』
母と二人の食事。いつも通りの景色のはずが、やけに寂しく思える。
「急なお仕事かぁ……」
恵梨香が呟く。その顔は寂し気な愛花とは対照的に、どことなく嬉しそうだった。
「お母さん? 何で笑ってるの?」
「純くんも、もう社会人なんだなって思うと、なんだか嬉しくなっちゃって」
「嬉しい、かなあ……」
「私にとっては二人目の息子みたいなものなのよ」
恵梨香と純の母は高校時代の友人だったらしく、滝本家と山崎家の長い付き合いのきっかけはこの二人だった。もっとも、『純=家族』という認識は山崎家の共通認識だったし、それは滝本家にとっての愛花もまた然りだろう。
「なんか、純がちょっとだけ遠くなった気がする。小中学校を卒業した時より、ずっと。ついこの間までは学校で純にすれ違ったり、一緒にお昼ご飯食べることも出来たのに、もうそんなこともないし、それに……」
「純くんが美人な女の人に取られちゃうかも、ね?」
図星を突かれ、俯く。自分でも顔が熱を持っているのがわかる。
「取られるって言うと語弊はあるけど……うん」
「語弊?」
「だって、純は私のものじゃないでしょ? なのに『取られる』なんて……」
愛花の心に奇妙な霧がかかる。彼女にとっての純は単に家族という言葉だけで表すことは出来ない。いつも自分に寄り添い、喜びも悲しみも分けあって、そうしてもう十年が経つ。
彼女自身の本心は、純と『別の意味の』家族になることを望んでいるが、純の自分への感情を推し量れていないことが、彼女に一つ先へ踏み切ることを差し押さえていた。
この先純が他の女性と結ばれたとして、それを素直に祝福して身を引くことも覚悟していた。が、それを想像した時、彼女の心は縄で強く縛られる様な窮屈さを覚えるのだ。
「ふふ、真面目ね。純くんも、そういう娘の方が好きだと思うわよ」
恵梨香の言葉に「そうかな」と呟くように言う。そうであって欲しい、いや純は真面目な人だからそうだと思う、と心の中で言い聞かせる。
普段話している時はなんてことはないが、想いを意識するとどうにも落ち着けなくなる。
気を紛らわせるために、違う話にしようとしたとき、この時間には珍しく、インターホンの音が鳴り響いた。
「誰かしら、こんな時間に……」
恵梨香が椅子から立ち上がり、玄関へ向かう。愛花も誰が来たのか気になり、しばらくしてからちらりと玄関を部屋から覗き込んだ。するとそこには、立ち尽くす恵梨香の姿と、見覚えのある男性の姿があった。それを見た恵梨香が驚くのも無理はない。
「お父さん……」
そこにいたのは、『今日』帰るはずのない者。愛花の父にして恵梨香の夫、山崎玲一だった。
*
純の正面には、レイピアを構えた男が一人。その目からは明らかな殺意が読み取れる。男は右手を胸の辺りまで上げ、指をパチンと鳴らした。
すると、周囲の景色が何処にでもある住宅街から白一色の殺風景に過ぎる世界へと様変わりした。ここが何処なのかはわからないが、自分たちが住む世界とは明らかに違うことを、純は直感で理解した。
「市街地での戦闘は我々にとっても本意ではない。貴様には、ここで醜い肉塊と化してもらう。誰に看取られることも許されずにな。それが、この私『ローズ・ウォーター』の任務を妨害した貴様への罰だ」
ローズ・ウォーターと名乗った男は、一度右手を下ろした。が、それを即座に戻すと純に向かって突進し、その頭部に突きを繰り出した。純がそれを首を傾けて躱すと、彼は両足でブレーキをかけ、突進を中断した。すると、次にフェンシングの要領で高速の突きを連続で放った。
純は反射的にこの全ての回避は不可能、いや不要と判断した。これらの突きの大半は相手の動きを制限するための囮。放たれる十発近くの刺突の内、急所を狙った本命は、精々一、二発。
相手の狙いを外すため、囮の突きを『敢えて』受ける。無論、擦り傷で済む程度に動きはするが。皮膚を掠めたレイピアは針で裂かれる様な鋭い痛みを純にもたらす。が、そんなもの感じないと言わんばかりに、純は冷静にローズの顔面に右ストレートを打ち出した。ここで『必殺』を打ち込めれば早いが、流石にそんな隙は見当たらない。
放たれた拳はローズの顔を的確に捉え、本命の突きを放つ前に彼は純から引き離された。
軽くノックバックするローズ。その隙を狙い、純は更にもう一撃加えんと肉迫するが、その目的は阻まれた。
ローズは足を接地させると、右手から緑色の縄を出して純の侵攻を食い止めた。持ち前の反射神経と運動能力を駆使し、間一髪で避けた、つもりだった。
直後、縄はぐよぐよと蠢き、純目掛けて飛びついてきた。こればかりは対応出来ず、縄を腹部に激しく打ちつけられる。
「がっ!!」
その衝撃は純の腹から呻き声を押し出し、85kgを超える巨体を軽々と吹き飛ばして二人の距離を互いの射程外にまで離れさせた。
純は空中で身体を猫の様に翻し、両脚で精一杯地面を押さえつけブレーキをかける。先ほどの一撃による苦痛に阻害され、万全の力を込められずよろけはしたが、どうにか体制を崩すことは免れた。
腹に走る激痛を感じながら、血を咳と共に吐き出した。その身を襲う苦痛は、単に縄を鞭のように打たれただけのものではない。見ると、傷も糸のほつれも一つとして無かった服はズタズタに引き裂かれ、その隙間から赤黒い鮮血が垂れ流されているのが見える。空を思わせる涼しげな水色の寝間着は、夕暮れより紅く染められていた。
「『荊』か……」
ローズの縄をよく見ると、その表面には鋭い棘が無数に散りばめられていた。あんな物で鞭打たれれば、この有様も当然である。
「貴様がそれなりに力のある個体であることは理解した。が、剣技と荊の奏でる私の二重奏。旧人類のオス如きに、破れると思うな」
ローズが近づいて来る。右手に荊を、左手にレイピアを携えて。
時間にして僅か数秒程度の戦い。それでも、二人が相手のスタイルを理解するには充分な時間だった。純はローズの脅威は荊による鞭打ちにあり、剣戟は恐らく急所を撃ち抜く止め用だと考えた。そして、恐るべき威力を誇る荊も不意打ちならいざ知らず、スピードそのものは来ると分かっていれば対応出来る程度のもの。問題は先ほどの一撃によるダメージだが、それも致命傷には至っていないため、充分な動きは出来る。
普段の戦闘用スーツではないため、魔導協会から無線機での連絡を受け取ることはできない。しかし、協会が応援を寄越さない筈がないと信用していた純は、相手を倒す必要までは無く、勝てる相手でなければただ時間を稼ぐだけで充分だと踏んだ。
だが、それはあくまで戦術面での話。純の心情としては、完全にローズを倒すつもりでいた。
「地に伏せろ、旧人類」
ローズが複数本の荊を繰り出してきた。思った通り、速度自体は其れほどのものではない。
純は籠手に守られた『手刀』で荊を斬り裂いた。遅れて来たモノも、まな板に置かれた魚の如く容易く斬り伏せる。
飛ばされた荊を全て斬り捨てると、その向こうからローズが仕掛けてきた。が、これも純の反射神経を上回るにはあと一歩及ばない。
喉元に向けて放たれた一閃を身体を倒し紙一重で回避すると、そのまま膝を折る。そして、それをバネに前方へ飛びかかり、低姿勢からローズの懐へ強襲を掛けた。
このまま純の持つ『必殺の技』を叩き込める状態に持っていくため、ローズへタックルして押し倒そうとしたが、それは叶わなかった。
ローズが自身の前方に荊を展開し、身を守っていた。さらに荊は先刻純を叩いた時と同様に蠢いている。このまま仕掛けてもローズを倒せないどころか、同じことになる。もう一度受ければ今度こそ危険なこともあり、純には引き下がるしか選択肢は無かった。
相手を倒すには、拳打や手刀だけでは決定力に欠ける。だが、『必殺の一撃』を決めるには右手から出される荊があまりにも厄介だ。
ローズの手から出される荊を斬り裂きながら、純は状況の打開策を構築する。そして、気が付いた。
決定打を出せないのは、相手も同じだ。
ローズの刺突の速さでは純を捉えることは難しく、飛び出してくる荊も純の手刀に対しては無力と言って差し支えない。となれば、防御に徹して隙を作る。
この只々白に満たされた空間で、ここまで二人は一分ほど相対していた。そこから防御にシフトした純は、じりじりと移動しながら荊を放つローズを躱し続けた。
「仕掛けることさえ出来なくなったか、旧人類」
「ああ、その通りだよ」
ローズの挑発に、不敵な笑みで返す。すると、ローズは余裕か、既に勝利を確信したかと言う様な顔をする。
「そうか、ならば貴様にこれ以上付き合ってやる道理はないな」
「そうは……」
荊の流れが一時的に止まった。その隙を逃さず、純は今出せる限りの力で地面を蹴った。それと同時に、最もオーソドックスな魔法のイメージを行う。
「いかないな!」
既に慣れた上に簡単なイメージのため、出現には一秒も掛からなかった。純の右手から数発、炎の玉が打ち出される。
おそらくそれは命中しない。仮に当たった所で、『奴ら』には蚊ほども効かないだろう。が、それで良かった。当たらなくても牽制や軽い目くらましにはなる。魔法で創られた荊を同じ魔法の炎で燃やせるかは分からないが、それはついで程度のものだ。
「ふん」
大半の炎弾はローズに一撃も当たらず、彼の両サイドを通り過ぎていく。内一発は彼の右手に向かうが、ローズはすかした顔で荊を用い、軽々と防いだ。やはり、一般常識通りにはいかない。
それでいい。
純は思わずニヤリとした笑みを浮かべた。荊を出した、それだけでも想定以上の成果。純はローズの荊をあっさり切断してみせると、手刀を作っていない右手を握りしめ、ローズの左胸に向かって拳を振りかぶった。
が、その時。ローズが語りかけてくる。
「ところで貴様……」
それは、純と邂逅した時のような冷徹な語り口。虎の子の荊を切られ、無防備な肉体に殴りかかられているとは思えぬ落ち着き様。
その理由は、すぐにわかった。
「なっ……!?」
気づいた時には、もう遅かった。純の足元から、無数の荊が急速に『伸びてきている』ことに。
何の抵抗も出来ぬまま、荊に足を取られた。一本一本はローズの手から出現するものより細く、脆い印象を受ける。が、巻き付いた多数の棘が足を突き刺し、肉を引き裂く。両脚中の痛覚が刺激を口々に訴えている。
「『自分が最初をいた位置』を覚えているか?」
やがて荊は脚だけにとどまらず、胴体、そして両腕まできつく締め上げ始めた。
「これは――」
「旧人類、雄に加えて馬鹿ときたか。もはや、救いようがないな。何故、俺が切られるとわかっていながら薔薇を出し続けていたか。そして、なぜ歩きながらそれをしたのか。ここまで言ってまだわからんか」
「まさか――」
自分が最初に立っていた場所、すなわちこの白色の空間に移動した時にいた場所。この男は、そこの位置をこの何の目印もない空間で、純と闘いながら記憶し続けていた。
「予め『種』を蒔いておいた。貴様がそこを通った時に芽吹かせるために」
純は、ローズが突進してくる前のことを思い出した。彼は、突撃してくる前に一度『右手を下げていた』。
迂闊だった。鞭打ちの威力を警戒する余り、この様な紐状の物体の最も基礎的な使い方を失念していたのだ。
が、今更気づいたところでどうしようもない。首から下を棘だらけの荊で雁字搦めにされてしまっては動きようがない。無理やり引きちぎろうにも、下手に動けば棘が余計に食い込み、痛みで力を込めづらくなる。却って傷を深めるだけだ。
「動かん方が身のためだぞ。そこで大人しくしていろ。さて……」
ローズが再び右手を胸の前に掲げると、景色が見慣れた住宅街に戻った。ローズは既にレイピアを消し、純に背を向けていた。