緊急事態
シャワーを浴びた純は、用意されていた服に着替えた。これが用意されているということは『今日は泊まっていきなさい』というメッセージだった。
「相変わらず強引な人だな……」
純がリビングに入った瞬間、何かが焼ける心地よい音に鼓膜が揺らされた。見ると、愛花がキッチンに立ってハンバーグを焼いていた。
「あの子がね、『私が作る』って言ってきかないのよ」
恵梨香が苦笑交じりに純の隣に立つ。
「俺は構いませんけどね。愛花の料理は、本当に美味しいですし」
「あら、それはちゃんと本人に言ってあげなさい」
「何度も言ってますから、大丈夫です」
愛花本人は料理に集中しているようで、二人の会話は耳に入っていないと純は考えた。もし聞こえていたのなら、愛花が今の真剣な表情を維持することは不可能なことを知っているから。
「それでも、よ。感謝や賞賛は、思った瞬間に言わないと。大事な人から褒められて、嬉しくない訳がないわ」
恵梨香がいつになく真剣な目で、言い聞かせるように話す。その瞳から放たれる威圧感から、純は改めてこの人が『母親』であることを認識した。
「ハンバーグ焼けたよ~」
愛花の呼びかけを聞き、二人はそれぞれ布巾やコップを取りに歩き出した。
*
愛花の特製ハンバーグを口に入れた瞬間、普段とは違う食感、味に目を見張った。噛んだ瞬間肉汁が溢れだし、その噛み応えと味が、今口内の物体が「肉」であることを全力で主張している。前までのものも相当な美味さだったが、今回のものは文字通り一味違った。
「……何か、変えたか?」
純の様子をうかがうように、じーっと顔を見ている愛花に尋ねると、彼女は髪を切ったことに気づかれた時のような満足げな顔で答える。
「気づいた? 今日はつなぎを減らしてお肉感をアップしてみました~」
「なるほど」
「純はお肉多い方が好きかな、と思ったんだけど……」
「ああ。俺はこっちの方が好きだな」
純が思ったままのことを口にすると、彼女はほんのり頬を紅く染め、見ている側まで嬉しくなってくる様な最上級の笑顔で喜びを露わにする。そしてその顔のまま、更にハンバーグの話を続ける。
「そろそろ自分でソースも作ってみたいんだけど、何ソースがいいかな? 純は確か、さっぱりよりこってりした味の方が好きだったよね」
「そこまでしなくてもいいんじゃないか……? 今だって愛花のハンバーグは好きだし、そこまでしたらもう本格的にお店で出せるとか、そういう話になる」
「お店で出せる? ふふふ、望む所だよ!」
静止のつもりで発した一言、それが彼女の魂をより激しく燃えたぎらせた。
思いの外本気でハンバーグに向き合っている愛花に、内心動揺する。純は彼女がハンバーグを作るようになった一年前のことを思い返す。
突然夕食に呼ばれたかと思えば、愛花が作ったハンバーグを試食するよう恵梨香に言われ、食卓にコトンとハンバーグが置かれた。今純が食べているものと比べると、少し黒く、サイズも二回り程小さかった。また、愛花の左人差し指に、ピンクの絆創膏が巻かれていた点でも違っていた。味については何の問題も無かったが、それからというものの月に一度、彼女は純にハンバーグを振る舞うようになった。そして段々と、純好みの味、食感に変化している。
「駄目よ純くん。本気になった乙女はひたすらに盲目なのよ」
「愛花が真っ直ぐな人間なのはよく知ってますけど、それにしたって何でここまで……。まさか本当に料理人とか?」
「んー……何故かは、自分の味覚に聞いたらどうかしら?」
そういうことなのか、と純はとりあえず納得することにした。
ハンバーグに手をつけようとするも、考えながら食べているうちに既に平らげてしまっていた。
「あ、おかわりあるよ。食べる?」
「そうか。じゃあ――」
「頂くよ」と言おうとした矢先、純のポケットでスマートフォンが鳴った。通知音から電話と判断した純は席を立ち、廊下に出た。
*
スマートフォンに映る相手の名前は『魔導協会 東京支部』。少し驚きながら、電話に応じる。
「はい、滝本です」
『滝本さん、オペレーターの柏木です。今どちらにいらっしゃいますか?』
聞こえてきたのは、柏木と名乗る若い女性の声。純とは顔見知りの『オペレーター』のものだ。
「今ですか? 友人の家です」
『友人? もしかして、「山崎愛花さん」ですか』
「……? そうですけど」
純が応答すると、柏木は「そうですか」と安心したような声を出す。電話を介して、向こうの周囲の声も聞こえてくる。ただならぬ雰囲気を感じた純の身は一層引き締まった。
『ちょうど良かったです。直ぐに外に出て頂けますか?』
「外に? その、何かあったんですか?」
『とりあえず、外に出たらもう一度こちらにお掛け下さい。指示や状況説明は後程行います』
そう告げられると、電話は間髪入れずに切られた。
魔道協会から直接、それも非番の者に電話がかけられたこと、向こう側の騒がしさ。この二つから事態を把握した純は、すぐさまリビングの扉を開け、そこから顔だけを出して愛花と恵梨香に声をかけた。
「ごめん、二人とも。職場から連絡があって、直ぐに出なくちゃいけない」
「えっ!? じゃあご飯は――」
「帰ったら食べるよ」
簡潔に伝え、靴を履いて外に出た。夏とはいえ、七時を過ぎているため辺りは既に暗くなり始めている。夕食時ゆえ、人通りも無いに等しい。
魔道協会に折り返しで電話をかける。
「滝本です。状況の説明を願います」
『柏木です。これより状況を確認します。現時刻より一分前、そちらの周辺から強大な魔力反応を感知。これを『門』と断定しました』」
「『門』? こんな街中に?」
通常門は街中には出現しない。何故ならそこからくる『奴ら』は目立つことを、更に言えば『一般市民に存在が知られること』を極端に嫌うからだ。
『間違いありません。相当な何かがあるものと予想されます。門の座標を送ります。今から行けば、解放に間に合うかもしれません』
『戦闘服を取りに行く暇は無い訳ですか。了解しました。『魔導ギア』の転送をお願いします」
純の今の格好は半袖半ズボンの寝間着。サイズはぴったりであり、機能性は問題ない。あえて不安があるとすれば防御力だが、そこは大して気にしていなかった。当たらなければいいし、当たればどのみち無傷では済まない。
純の手元に長方形の、ボイスレコーダーに近い形をした機械が現れた。純が先ほど要請した『魔導ギア』だ。
中心の丸いボタンを押すとその上の液晶画面に光が灯り、『魔術師モード 起動可』という文字が映る。それを確認した純は自身の左胸、心臓の部分に魔導ギアを当て、再度中央のボタンを押す。
直後、純の身体に強烈な電気が走り、喉の奥から声が漏れる。その電撃を受けた瞬間、純は目を閉じ、想像した。
訓練の度に思い浮かべてきた、自身が闘うための姿。しかし今は、これまでほんの二回程度しか経験していない実戦。故に純の心は、普段のそれより鮮明に、力強くイメージを映していた。
イメージが完全に固まった瞬間、身体の奥から沸き上がる感覚。単純に力が湧いてきただけではない。精神は高揚し、周囲の音や景色も普段よりずっと鮮明に映る。そして、彼の両手には白銀色の籠手が、両足には足鎧が装着されていた。
ニュースで報じられている魔法と、『実用には後百年かかる』という予測には大きな誤りがある。日常生活を支えるエネルギー源として、なら然程間違っている訳ではないが、ある一分野に関しては既に十二分に実用に耐えうるものとなっている。
「『軍事力』……」
純は魔道協会入会時に今の上司が言った『魔導ギアを起動している間、お前達は新世代の兵器「魔術師」になる』という言葉を思い出す。もっとも、そんなことは純にとってどうでもいい事だったが。
スマートフォンのメールアプリを開いて、魔導協会からのメールを確認する。記されていた座標は、ここから約一km先。確かに、今の純の身体能力なら間に合わなくもない距離だった。
一呼吸した後、両足に力を込めて強くアスファルトを蹴ると、乗用車と遜色ない速度で駆け出した。
*
純が座標の位置に着いて数秒後、空間の一部が歪み出した。そこから現れたのは、『人』。細身で緑の髪を持つ白人の男。外見は通常の人間と何ら変わらない。が、彼から発せられた言葉は、男が純たちとは違うと予感させるものだった。
「何故ここにいる……『旧人類』」
「お前がここに来たからだ」
純は元々鋭い目つきを更に鋭くし、男を睨みつける。
「しかもオスとはな……反吐が出る」
男は吐き捨てるように言うと胸の前に左手をかざす。すると、男の身体から機械の駆動音に似た音が鳴り響き、周囲に銀色の粒子が飛び交う。その粒子は男の左手の中に集束していき、それは瞬く間に美しいレイピアへと姿を変えた。
「戦闘は予定に無かったが、仕方ない。消えてもらうぞ、旧人類のオスが」
男と純は、同時に戦闘の構えを取った。