黒いヤツ
アーシェラの戦いから三日。純の絶対安静は解除され、彼は三日ぶりに大地を踏みしめていた。全身に走る無数の裂傷はほとんど塞がったものの、傷の深い箇所は激しい運動で開く危険があること、そして腹の腫れがまだ完全に引いていないこともあり、トレーニングの再開まではまだ少し日を置く必要がある。
彼の隣を愛花が並んで歩いている。緊張しているのか落ち着かない様子で、ソワソワしている。もっとも緊張しているのは純も同じだが。
蝉は喧しく鳴き、陽射しが容赦無く照りつける真夏の昼下がり。二人は美しく高級感漂うエントランスを持つマンションの前で立ち止まった。
「ここ……だよな」
「うん……ここだよね」
今日は引っ越しの日。『近辺警護』という名目で同居することになった二人が新しく住む部屋を見に来たのだ。
予め委託されている業者が二人の荷物を運んでくるまでの間に二つの個室をどちらが使用するか、などといったことを決めておく必要がある。想定外に煌びやかな建物を前にたじろぐ二人だが、意を決した純が自動ドアをくぐると、愛花もそれに続いた。
中年女性の管理人に自分が滝本だと告げ、彼女から『403号室』と書かれた鍵を受け取った。
エレベーターで四階まで上がり、部屋の前に立つと、再び純は緊張感に襲われた。
この扉を開けた先で、これから愛花と二人暮らし。その実感を前にして純の心は、あのローズ・ウォーターとの戦いの時。それと遜色ない程緊張していた。隣を見ると、愛花も胸の前に手を添えて純を見ている。二人はマンションに入ってから、一言も言葉を交わしていない。
純は一つ深呼吸をすると、自分に『これは任務だから、浮ついた緊張感など持っていてはいけない』と言い聞かせつつ鍵を開け、扉を開け放った。
するとそこに広がっていたのは二つに分かれた廊下。宮村から渡されていた間取り図を確認したところ、右側には四・五畳の洋室があるらしい。左側には二つ扉があり、手前の扉が脱衣所からバスルーム、トイレへと繋がっていて、奥に行けばキッチンを備えたリビングがある。そしてリビングの横にはもう一つ洋室があるという。ただし、そちらの洋室は六畳と広めだ。
二人は相変わらず会話も無しに部屋を一つ一つ見て回る。室内の蒸し暑さを消す為に全ての冷房をつけ、部屋をなるべく細かく見ていった。一通り見終わった後、純はようやく沈黙を破ろうと、自分が思ったことを口にしようとした。
『とりあえず……』
すると、愛花も純と全く同じタイミングで口を開いた。
「もしかして、二つある個室のことか?」
「え、純も?」
「ああ、それについて思ったことがあって」
「私も」
『あの二つの部屋はーー』
幼馴染ゆえ息が合うのか、再び二人の言葉がシンクロした。しかし、二人の口から出た言葉は全くもって真逆の意見だった。
「広い方を愛花が使えばいいよ」
「広い方を純が使って」
純と愛花。二人による『譲り合い』の喧嘩。その口火を切ったのは愛花からだった。
「私は純が使った方が良いと思うけど? だって純は春から一人暮らししてたでしょ。確か七畳くらいの部屋だったから、狭い方の部屋だったら大体三分の二の広さだよ。一人暮らしで部屋の分増えた物、とてもじゃないけど入り切らないよ」
「いや、それは違う。俺はトレーニング以外趣味はないから特に貯めるものとかもない。だからあの部屋もかなり持て余してたし、狭い方でちょうどいいぐらいだよ。物の多さで言えば愛花の方が明らかに多いし、愛花の部屋も六畳だからちょうどいいだろう」
冷房が効いてきて、涼しくなっていく室内と対照的に二人の譲り合いは更にヒートアップしていく。
「私と純じゃ体格は全然違うんだし、大きい方が大きい部屋を使う方が合理的でしょ!」
「いや鳥かごとか水槽じゃないんだから。というか、俺は少し狭い方が落ち着くんだよ。だからーー」
「じゃ、じゃあ私も狭い部屋が落ち着くから!」
「じゃあって何だよ!?」
「何でもいいじゃない! とにかくーーひっ!?」
随分と意固地な態度をしていた愛花が、突然怯えに怯えた声で壁際まで凄まじい速度で退避した。余りの変容に純は理解が追いつかず、立ち尽くす。すると、顔面蒼白の愛花か震える指で純を指した。
「純……後ろ……」
愛花に言われるまま後ろを向くと、彼女が逃げた理由が良く分かった。そして、純も『それ』を見た瞬間、反射的に愛花の右隣に退避した。
二人が見たもの。それはアーシェラより遥か昔からこの世に存在した人類種の天敵。その黒いボディと彗星の如き速さは全ての人を震え上がらせる。『G』『黒い彗星』とも呼ばれるヤツの名は、蜚蠊。
*
純はヤツの正体を確認した後、履いていたスリッパの片方を手に持って愛花を自身の後ろへつかせた。正直言えば、純も虫は大の苦手である。この場から逃げ出したいとさえ思うが、ここで逃げたところでヤツは出て行かず、そのまま我が物顔で居座り続けるだろう。そして何より、ここには愛花がいる。この部屋にヤツがいる限り、愛花は笑えない。
「この部屋の家賃が幾らだと思っている……お前のいていい所じゃないんだ」
郊外の上交通アクセスが不便とはいえ、2LDKでそれなりに新しいマンション。任務ということで補助が入るため、二人は結果的に相当格安で住めるのだが、普通に借りようと思えば、その家賃は月に十万円は下らない。そんな所にヤツがいるというのは考えにくい。おそらく外部から侵入してきたものだろう。そのため、この一匹を始末すればもう出てくることはない、と純は推定した。
ヤツは今動きを止め、床で触覚を蠢かせている。サイズは小さめだが、純には実際のサイズなどどうでも良く、ただその何倍もの威圧感に押され、額から汗が流れる。
意を決してヤツに近づく。そしてスリッパを振り下ろした。フローリングに叩きつけられたスリッパが弾けるような大音量を鳴らす。しかし、その直前にヤツがその場所を離れていたことを、純は見逃さなかった。
すぐにヤツのいる方向に身を翻し、跳びつこうと踏み出す。
が、純は失念していた。床は綺麗に掃除され、ピカピカに磨かれたフローリングであること。故に普段の動きやすい運動靴は玄関先だということ。更に間の悪いことに、純は冷え性のため、夏でも靴下を履いているーー単純にサンダルが嫌いなこともあるがーー。この条件下で無策に跳ろうとすればどうなるか、火を見るよりも明らかだ。
フローリングで滑り、前傾姿勢のまま宙を舞う純。そのまま重力に引っ張られ、顔から地面に激突した。
その間にヤツはカサカサと移動し、壁を登り始める。
「純! 大丈夫!?」
「ってて……。ああ、平気だ。それよりーー」
「ヤツを仕留めないと」と言おうとした純は直ぐさま立ち上がると、鼻から何か液体が垂れる様な感触を覚え、右手でサッと拭った。すると手の甲に三日前散々見た色の線が走っていた。それを見た愛花がスカートのポケットからティッシュを取り出し、背伸びをしながら純の鼻に詰める。
「もー! アーシェラはともかく、何で虫退治でも血出すの! ホラ、上見て!」
「宿命……かもな」
愛花の言う通りに天井を見ると、鼻血が逆流して体に戻っていく様な感覚を覚えた。『鼻血の時は上を向くといい』というのは迷信だが、気休めにはなる、と少し気を落ち着かせた純。
スリッパ片手にティッシュを鼻に突っ込んだ全くもって締まらない姿。しかも相手は衛生害虫とはいえ昆虫一匹。しかし、純と愛花にとっては大敵だ。このままヤツを放置していれば、安らかな生活など送れるはずもない。純は周囲を見渡し、ヤツを探す。ヤツは今、二人とは逆側の壁にくっ付いている。相変わらず忌々しい触覚を蠢かせる様は、二人を挑発しているようにも見えた。
純がスリッパを持つ手に力を入れると、殺気を感じ取ったのか、ヤツは壁を降りて床を這い、二人の方に向かって来ていた。そして、ヤツはその勢いのまま『飛んだ』。
しかも飛んでいる方向は純の所からは微妙にズレている。純から向かってやや左、そこには愛花がいた。
「愛花!!」
考えるより先に動き出していた。
純は即座に左手で愛花を軽く押し出しヤツの軌道から逃した。その行動と、愛花に向かったというヤツの動き。それが純のモードを『害虫駆除』から『外敵排除』に切り替えさせた。
ヤツは押し出された愛花を無視して直進、二人の背後の壁に取り付こうとしていた。それを、純は逃さない。
壁への距離は近い。が、下手に動けばまた先刻の様に滑ってしまうかもしれない。何よりヤツは疾い。壁へ移動する僅かな間にまた逃げられてしまえば元も子もない。故に、今やるべきことは一つ。『この位置から』ヤツが壁に着地した瞬間に叩き潰す。
純は足を前後に開き、右腕を後ろに大きく振りかぶった。そして、ヤツの予想される着地点に向かい、勢いよくスリッパを投擲。裏面を向いたまま無回転で飛んでいくスリッパは、ヤツが壁に着地した瞬間、ちょうどその位置に叩きつけられた。
スリッパが地面に落ちると、無惨にも潰れたヤツの遺骸だけが壁に残されていた。
*
純は備え付けられていたトイレットペーパーを使い、ヤツの亡骸を包んでトイレに流した。壁にヤツの体液のシミが残ったが、そこはちょうどテレビを置こうかと考えていた場所だったため、日常的にシミを見て暮らすことにはならないだろうと考えた。
「ねぇ、純」
愛花が洋室の扉から顔を出している。ヤツの亡骸を掃除する際に見ないようにするため、隣の洋室に避難させていた。今思えばヤツと戦う際もそうすれば良かったかもしれないが、今となっては考えても仕方ないことだった。
「もう終わったよ」
「そうじゃなくて、この部屋……どっちが使うか結局決めてなかったでしょ?」
「そうだったな……」
まだ譲り合いは決着していなかった。純としてはこれから自由に外出出来なくなる分、必然的に生活拠点となる自室ぐらい少しでも広くさせてあげたかったが、愛花は恐らく引き下がらないだろう。だからこそ、絶対に文句の出ない方法で決着をつける必要があった。
「話し合っても埒があかないからな。いっそのこと、ジャンケンで決めるか。一本勝負でな」
「ジャンケン……そうだね、それなら公平だね。よっし」
愛花がリビングに入り、右手をグッと握りしめている。その顔は何処か不安げだ。
繰り返すがこれは『譲り合い』のため、負けた方が広い部屋を使うことになる。そして、純にはこのジャンケン、勝てる保証があった。
『最初はグー! ジャンケンーーポン!!』
二人の手は、愛花がグー。純がパー。つまり、純の勝ちだった。
「ウソ、負けちゃった!? 何で!? 私何でこんなジャンケン弱いんだろう……」
純の勝てる保証。それは、愛花がジャンケンで出す最初の手は『まず間違いなくグー』だということだった。つまり、パーを出せば確実に勝てる。純だけが愛花の欠点を知っていることは、言ってしまえばアンフェアだが、どうしても愛花に引き下がって欲しかった純はこの手に賭けてみるしかなかったのだ。
「決まったな。じゃあここは愛花の部屋だ。俺はあっちを使うよ」
「うう〜〜……」
最初に一本勝負と宣言されていたためか、愛花は大人しく頷いた。
*
二人の部屋が決まった直後、引越し業者が二人の荷物を運んできた。純は荷物の運び出しを手伝おうとしたが、害虫駆除の際は幸い傷が開くことはなかったが、その後開かないとは限らないため、大事を取ってやめておいた。特にアクシデントもなく荷物は無事部屋に入り、二人の新居が完成した。
純は新しい自室でベッドに寝転がり、考えていた。
アーシェラが愛花を狙う理由。『過去に聞いた』理由は既に解決済みである以上、何か他の理由がある。いや、もしかしたらその過去の理由は見当違いのものだったのかもしれない。
愛花との生活はきっとアーシェラを倒すまで続く。幾ら幼馴染とはいえ『恋人でもない男と一つ屋根の下で暮らす』ことが良い事であるはずがない。しかし愛花を狙う悪辣な者達がある限り、彼女は匿い続けなければならない。
「……魔導協会に入って本当に良かった」
純が魔導協会に入った理由は言わずもがな『愛花の笑える場所を守るため』である。魔導協会に入る以前から、一般には知られていない悪鬼の存在を知っていた。だからそれらが何れ愛花に牙を剥いた時、彼女を守る力を手に入れたかった。だから高校時代から魔導協会で非常勤職員として働き、訓練を積んできた。そして今は、愛花のために積み重ねてきた努力。その全ての使い所だ。
純は枕元に置いてある小さな機械に目をやった。これはアーシェラの接近があった場合、屋外監視を行っている魔術師から来る警告を受け取るものであった。そしてその機械の横には魔導ギアが置かれている。
通常協会外の持ち出しが固く禁じられている魔導ギアだが、純に対しては特例的に携帯を許可されていた。宮村曰く、最も時間の掛かった手続きはこの『魔導ギア携帯許可』を魔導協会ニューヨーク本部から貰うことだったという。
純がそんなことを考えていると、扉をノックする音が聞こえてきた。それから少し置いて、愛花が顔を出す。
「ねえ、今日の晩ご飯どうする?」
「晩ご飯か。何か食べたいものは?」
「特に無いかな。あ、冷蔵庫の中空っぽだから、ある程度お野菜とかもついでに買っておかないと」
「そうだな。そうだ、引越しした訳だし、蕎麦はどうかな? 作る手間もそんなに無いし、茹でる用の鍋は俺のがある」
「純、お蕎麦茹でるの?」
「スパゲッティのために買ったんだけどな。結局一、二回しか使ってないけど」
夕飯の相談とは夫婦のやるような会話だな。
純はそんなことを考え、一人小さく照れていた。




