07:順調に立つなにかのフラグ
現在午前4時15分。間もなく初夏に差し掛かろうというこの時期であっても、まだ太陽は昇っておらず、窓の外は暗闇に満ちている。今この室内を照らしている明かりも勉強机の電気スタンドのみであり、とても明るいとは言えない状況だ。が、私の起床時間は三年前からこの時間帯である。寒かろうと暑かろうと暗かろうと、関係なくこの時間には起きるようにしていた。そうしなければ授業の予習と復習、そしてテスト対策の勉強に励むことができないのである。学校生活において、朝も昼も夕方も夜も女の子のお誘いを断れない私からしてみれば、早朝こそが最も勉強に適した時間だ。
というわけで今日も今日とて早朝学習に精を出そうと起床したのだが――。
「……いっつー」
ただ今絶賛、頭痛に苛まれている。ちなみに病的なものではなく、寝ている最中にベッドから落ちたことが原因だ。私はなぜかよくベッドから落っこちるのだが、そのたびに後頭部をぶつけて痛い思いをする。何なのだろう。頻繁にどこかから落ちる夢でも見ているのだろうか。もしくは寝相が壊滅的に悪いのだろうか。どちらにせよ、やはり女の子とのお泊りは控えたほうが良いだろう。
そう後頭部を擦りながら簡素な木造の椅子に腰かけ、数Ⅲの教科書に手を伸ばす。とりあえず一年先の予習までしていれば、どんな質問が来ても対応できるはずだ。そう考えて三年で習う範囲を今から予習しているのだが、やはり一人では理解に限界がある。そもそも私は天才でもなんでもなく、地道な努力に物を言わせているだけの凡人だ。そういうこともあって、相談がてら図書館司書の園生先生にご享受願っている。
ちなみに、園生先生は純粋な藍芭学園の職員ではない。国から《伍華》の監視を任された、私には想像もつかない特殊かつエリートな経歴の持ち主だ。そのため、やたらとスペックが高い。彼女は私の転生を唯一知っている、そして信じてくれている人なのだけれど、それを知られたのもほとんど事故のようなものだった。とりあえず紆余曲折あって、今は私が知っている《傀儡》の知識や《伍華》のメンツの情報を明け渡す代わりに(相当な出し惜しみをしているのだが、何故だか園生先生は情報提供を急かさない)、相談やら勉強やらを見てもらっている。いやもう、中等部1年の頃からお世話になりっぱなしなので、頭が全く上がらない相手だ。
そんなこんなで教科書や参考書と睨めっこをしている間に夜が明け、窓際から小鳥の囀りが聞え始める。カーテンからは朝日が零れ、今日も晴れだと私に知らせた。そしてふと時計を見ると、時刻はすでに6時を回っている。そろそろ出かける時間だ。
ぐいーっと伸びをしてから電気スタンドを消し、質素な室内を歩いて、机と同じデザインの洋服ダンスに手をかけた。その中は、ほぼジャージで占領されている。これは私がジャージ女だからというわけではなく、女の子からよくもらってしまうからだ。嫌だという気持ちは一切ないが、こんなにもらってしまっていいものかと、最近はやんわり断っている。財力のある女の子は、プレゼントの頻度が多くてかえって申し訳ない。別に物質的見返りなど、求めていないのだから。
とりあえずローテーションで着まわしているジャージから、ラインがカラフルな黒ジャージを取り出す。そしてさっさと着替えて、髪を一つに束ね、全身鏡の前で直立。
ショートカットのため小さく束ねられた髪型は問題なくいつも通り。体型も体重・体型管理が功を成し、別段変わってはいないだろう。服装にも問題はない。
「さて」
さて。
鏡の中の自分に笑みを浮かべて、私は人の好さそうな彼女に言葉をかける。
「僕は『僕』だ。沈丁花くんが何を言おうと、これまでのスタンスは変わらない。僕は優しくて爽やかな人間でなくてはいけないし、勉強もスポーツも、音楽も美術もできなくてはいけない。欠点なんて見せてはいけないよ。絶対にだ。死にたくないなら頑張らないといけない。僕は生きてこの学校を卒業するんだから、そのためにどんな努力も惜しまない。疑問なんてもたない方が良いよ、考えたって疲れるだけだからね。今日も僕は『僕』として生活するんだ。それじゃあ、頑張ろうか」
そう鏡の自分に言い聞かせて、ぴしゃりと自分の頬を叩く。
よし、自己暗示完了。
単なる気休めと言われればそれまでだが、これは一種のジンクスのようなものだった。私が僕でいられるための、おまじないのようなものだ。
そうして鏡から目を離した私は、外へ出るために扉へと向かった。
×××
山を一つ削り取って建てられたという藍芭学園の校舎は、何度も言うようだが敷地が恐ろしく広い。とりあえず、全運動部に運動場、体育館が割り当てられるほどの広大な面積を有している。私はどの運動部にも所属していないが、助っ人参加や校内の練習試合には顔を出しているため、おおまかな地図は頭に入っている。ちなみに、わざわざ声をかけてもらえるレベルに達するには、さすがに相当な時間を要した。こうして今までに繰り返した努力だけは、自信を持って誇ることができる。
とはいえ、結果的に私がDEADENDを迎えた場合は、ただの水の泡になるものだけれど。
そんなことを考えつつ、私は朝日の眩しい第五グラウンド周辺を走っていた。2年の女子寮からスタートして、すでに20分は経っているだろう。時刻は6時半ということもあり、まだ人影は見当たらない。これまでの五年間がずっとそうなのだから、今更例外もないはずだ。そう呑気に構えて、中1の頃は苦行でしかなかった早朝マラソンを鼻歌交じりに楽しむ。こういうときに出てくる音楽がアニソン(前世で視聴していたアニメのもの)なあたり、さすが私、と何故か少し誇らしい。
――と、曲のベースソロのあたりを鼻歌で再現(無理がある)していたとき、数十メートル先の建物の陰から、突然人影が現れた。
それが見知らぬ生徒であれ見知っている生徒であれ、本来の私は気にしない……が、特徴的なウェーブがかった黒髪を見た瞬間、私はすぐそばにあった茂みに飛び込んだ。
枝が突き刺さってとても痛い。しかし、フラグ回避には変えられない。
視界が葉の緑と枝の茶色で覆われている中、速まる鼓動を覚えながら、こっそり黒髪ウェーブ――沈丁花君尋の様子を伺う。
彼は第三体育館の陰から出てきた後、道沿いに真っ直ぐ進んでいった。すぐこちらへ背を向けられたため、表情は分からないが、あの先にあるのは高等部の校舎だ。
こんな時間に一体なにを……。
そう気になるものもあったが、この段階で踏み込み過ぎるのはまずい。ばれたときのリスクが高すぎる。息を殺しながら沈丁花の姿が消えたのを見届けて、私はやっとその場を立ち上がった。
「まったく、油断も隙もない……」
やれやれと額を押さえながら、今日はもう寮へ戻ろうと回れ右をする――と。
「…………」
無言で、私をじいっと見つめている灰色がかった長髪の男子生徒が、そこにいた。……灰色、長髪……だんし……? 一瞬ホワイトアウトしてしまった記憶の海で、この男の正体を探し当てるのにそう時間はかからなかった。そして、気づいてしまったと同時に、すさまじい寒気が背筋を襲う。
そう、彼は例の攻略対象の一人だった。
「何してるの」
疑問文であるにも関わらず語尾が全く上がらないという、声優さん殺しのキャラ設定。沈丁花とはまた違った意味で感情を読み取れない無表情さ。とろんと眠たげな双眸は今にも寝てしまいそうな雰囲気を醸し出しており、それなのにこれまた睫毛が長くて目の大きい美形童顔というお決まり何だか違うんだかよくわからないキャラである彼の名は、椚野朝生という。高等部一年の《伍華》、つまりは《傀儡》を使役する人間だ。
ちなみに病み方はストーカー気質なもので、彼のルートに進むとバッドエンドだろうがトゥルーエンドだろうが、四六時中監視される羽目になる。持ち物は頻繁に持ち出されるし、イベントによってはヒロインの写真と私物にまみれた自室にご招待されることもある。ヤンデレ好きには非常にたまらない設定だが、実行=犯罪な行為だ。
まあ、そもそも攻略対象に合法的な求愛行動を示したキャラなど、人差し指一本で済んでしまう数しかいないのだが。
「なにって、猫を探しているんだよ」
じいっとこちらを凝視してくる朝生へ、私は朗らかに嘘を吐いた。内心は冷や汗まみれのパニック状態だ。こんな段階で、彼と面識を持つつもりはなかったのに……。
「猫……」
「そう、猫。このあたりって、たまに野良猫が迷い込んでくることがあるんだ。清掃員の人に見つかると、無下に追い払われてしまうから、その前に僕が見つけてそっと校舎外に放そうと思ってね」
事実無根の言葉に対する、舌すべりの良いこと良いこと。
逆に疑われるんじゃないかとヒヤヒヤしながら笑みを浮かべていると、ぼうっとしている朝生がトコトコとこちらに近寄ってきた。逃げようかとも一瞬考えたが、ここで背中を向けることも、それはそれで後々のフォローが面倒だ。というわけで心構えはしながら首を傾げると、彼は私の両手を握って、やはりじいっとこちらを見つめる。身長差がさほどないせいもあって、綺麗な色素の薄い黒眼がいように近く感じられた。
なんなんだ私はまたなにかやらかしたのかっ……!?
緩く握られている手はいつでも解けそうだが、恐いものは怖い。
心の中でビクビクしながら反応を待っていると、朝生が「明日も」と口を開いた。
明日……?
「明日も、きみ……ここにくるのかな」
「う、ん……?」
想像していなかった言葉へ、思わず返事につまる。心なしか朝生の目に光が宿っているような(いつもはほぼ半目なので、光がさしていないように見える)、気がするようなしないような。私が返事に困っていることへ気づいたのか、彼はゆるゆるとした口調で言葉を繋ぐ。
「猫、見たいから。よく出る場所、教えてほしい」
椚野朝生が猫好きだなんてファンブックには書かれていなかったんだけど、なんなの日を見ることのなかった隠し設定?
思いつきでペラペラと喋った嘘に、朝生がこんなに食いついてくるとは思わなかった……。目の前が暗くなる思いだったが、返事はしなければならないので、首を横に振る。
「いや……僕も、毎日くるわけじゃないからね。残念だけど、明日は来な――」
「来て」
有無を言わせない断固とした声だった。ああ、ヒロインもこうやって、強引に丸め込まれてたなぁ……明日は我が身とはこのことか。しかし、物は考えようかもしれない。《傀儡》というカードとして、恭兵は手にしてにしているつもりだけれど、加えて《伍華》に味方ができれば、それほど心強いものもない。半ば賭けのようなものだが、ヒロイン未登場の今、接触するならこのタイミングしかないだろう。おまけに朝生は全校全滅ルートがない。病み方としては、一番軽いと言ってもいい。ならば、多少のリスクをおかす価値はありそうだ。
そう瞬時に頭を回転させ、私は苦笑を浮かべながら「そうだなぁ……」と思案気を装って返事をする。
「見つかるかどうかはわからないけど、そこまで言うなら、明日も来よう」
「そう……」
コクリと頷いた朝生は、「ありがとう」と素直にお礼を口にして、私の手を離した。
「それじゃ、僕……用があるから」
また明日。
あっさりとそう言い放ち、彼は私の隣を通り過ぎて、沈丁花の向かって言った方向へと歩いて行った。対する私も「ああ、また明日」と言葉を返して、歩いていく彼を笑顔で見送る。そうして彼の背中が見えなくなった頃合いを見て、すぐさま寮へと駆けだした。
もうこれ以上フラグを立てるのは御免だッ!




