04:いろいろ頑張った結果、その1
まったく、危ないところだった。
そう未だ鳴り止んでいない激しい動悸に肩で息をしながら、自分の所属する2年A組の教室前で立ち止まった。時間的に朝のホームルームが始まるということで、一階廊下と同じく人通りはない。ただ、教室の中から楽しげな喧騒が漏れている。やっと人の気配を感じることができた私は、その場で大きく息をついた。ずるずると座り込んでしまわなかっただけでも、割と頑張って正気を保っている方だ。
「……ぬあぁっ」
どうにも形容できない気持ちを変な言葉で言い代え、私は今度こそ頭を抱えた。こうして少し落ち着けばほら、先ほどまでの出来事が鮮明に……思い出したくないね。けれど、頬に触れられたときの感触、吐息がかかるほど間近で見てしまった沈丁花君尋の整った顔立ち、仄かに感じた甘い匂い――全て生々しいほどに、記憶へインプットされてしまったようだ。
ああもう、駄目だ。前世で彼氏ができた経験など皆無だった私には、刺激が強すぎる……じゃない。それよりも問題なのは、沈丁花が何を考えて私にあんなことをしでかしたのかということだ。なんとかキ……キなんとか、をされる前に、身体の硬直を解いて逃げ出すことができたけれど、魂胆がわからないうちはもう沈丁花との接触を避けたほうが良い。まあ、元から接触なんてしたくなかったけれど。
なぜ私が《傀儡》の力を行使されてしまったのかと言えば、これはあくまで推測だが、私のキャラ萌えという名の一種の好意をつかれてしまったのだと思う。
ゲーム内でもヒロインが攻略対象たちの《傀儡》と化してしまうルートがあり、《傀儡》とされる前には必ず仄暗い青色の画面が映し出されたのだ。あれがその現象ならば、急に体が動かなくなった理由にも説明がつく。
ちなみに、《傀儡》の服従レベルはその好意の深さに比例する。私のような前世のキャラ萌え程度ならば、あれぐらいの時間が限界なのだろう。やや安心要素ではあるが、ほんの僅かでも隙ができてしまうことに変わりはない。
ちなみに私が女の子に好かれようとしている理由も、この服従レベルが大きく関わっている。ゲーム内の《式降伊依》の殺害は、例のライバルキャラによる全校女子生徒の傀儡化によるものだった。ならばライバルキャラに抱いている好意以上の好意を、私は皆から向けてもらわなければならないということになる。まあ、付き合う気もないのに好かれようだなんて、酷な話だというのは経験済みだ。だから絶対に恋愛感情へは発展しないよう、他校に彼氏がいることを吹聴することで予防策を張っている。それでも最近やりすぎたかもしれないと、反省することが多いのだが……。
なんにせよ、まだまだ未熟だった中2のあの事件のような修羅場は繰り返したくない。
しかし、あまりに軽い好意では対抗することもできないし……まったく、どうしたものだろうか。
そうひとつ息をついてから、教室の扉に手をかける。ここからは切り替えなければ。そう自分の頬をぴしゃりと叩いて、木製の磨き抜かれた扉を静かに開いた。
「おはよう、天道さん」
「う、えっ…お、おはよう、式降さんッ」
廊下側の後方、扉に一番近い席で本を読んでいた三つ編みに縁なしメガネをかけた女の子、天道さんへいつものように声をかける。すると本人は飛び上がらん勢いでこちらを振り返り、勢いよく本を閉じた。そして眼鏡越しの大きな瞳を見開き、驚いている様子を露わにする。天道さんはいつ声をかけてもこんな調子なのだが、私は彼女に何かしただろうか。普段あまり絡んでくれるような人でもないので、こういう挨拶はこまめにしているのだが。
「今日も朝から読書? おすすめの本があれば、ぜひ教えてね」
「う、うんっ! お、おすすめできるものが、あれば……」
そう視線を逸らしながら呟く彼女に「うん」と頷いて、私はゆっくり彼女の元から離れた。あの手の子は押し過ぎると引いてしまうので、これぐらいあっさりとしていたほうが良いだろう。
と、こんな調子で男女関わらず挨拶をしながら、私は窓際列後方から三番目の席へと腰を落ち着けた。すると前の席である利加香ちゃんがポニーテールを翻し、パッと花の咲いたような笑顔で振り返る。が、それと同時に担任の外処教諭が扉を開けた。神経質そうな七三メガネの風貌通り、私語にはなかなか厳しい先生である。
「後でね」
そう頬杖をつきながら小さく呟き、人差し指で彼女のぷっくりとした唇に触れる。すると、利加香ちゃんはホウっと頬を赤らめて、可愛らしく頷き、黒板の方へと向き直った。その様子をにこやかに眺めながら、頭の中で机に突っ伏す。
……だから、少しは自重しようか私。
×××
一応授業を真面目に受けたり、休み時間に女の子たちと戯れているうちに昼休みがやって来た。
ちなみに目下最大問題である沈丁花は朝のホームルームをいつも通りに欠席し、一限目の現国には何食わぬ顔で教室へと戻ってきていた。中央列の真ん中にある彼の席と私の席は離れているため、休み時間さえ気を付けていれば接触することもない。そのことに安堵しながら、私は四限目に提出しなければならない数Ⅱのプリントを、若い男性教諭に手渡した。
昼食は今朝の約束どおり、利加香ちゃんを中心とする快活なお嬢様グループ(全員が体育会系部所属)とカフェテリアで取るつもりだった。「いよりーん!」と席で手を振ってくれている利加香ちゃんに手を振り返し、自分の席へと戻ろうと足を踏み出した時、不意に「式降!」と男子から名前を呼ばれた。何だろうと声の聞こえた後方廊下側に目を向けると、一人のクラスメイトが扉の向こうを指差している。彼は何故か、表情が引きつっていた。
なるほど。
壁が死角になっているためその先に何があるのかは見えなかったが、すぐに相手は予想できた。なので利加香ちゃんたちに少し待ってもらえるようお願いし、天道さんの背後を通り過ぎて、廊下へに出る。
そこには180㎝は優にある長身かつ、赤みを帯びた短い髪の男子生徒が仏頂面で立っていた。予想通りだ。
「久しぶりだね、恭兵くん。クラス替えの張り出しを一緒に見てから、随分と顔を見ていなかったような気がするよ」
「……俺はH組だからな」
そう低い声で唸るように言いながら、彼はつり気味な切れ目で私を見下ろす。沈丁花とはまた違った意味で整った顔立ちなのだが(沈丁花はどことなく中性的で、彼は男らしいという感じだ)、いかんせん目つきが悪いため女子からの人気はそこそこ止まりである。
そして彼が言っているH組というのは、私の所属するA組の教室がある東館から渡り廊下を挟んだ向かい側、西館に教室があるクラスのことだ。加えて偶然出くわすことも、この広い校舎ではあまり起こりえないため、こうしてわざわざ会いにこなければ接触できない。
そんな彼――石蕗恭兵は、私の中2、中3、高1での同級生であり、同時に例の攻略対象でもある。
「西館から、わざわざすまないね。何か僕に用事でも?」
そう笑みを浮かべながら尋ねると、恭兵はうっと言葉に詰まっているような表情を浮かべて、眉間にしわを寄せる。この様子を第三者が見れば、いかにも不良な男子生徒とその機嫌を損ねてしまった間抜けな女子という組み合わせに見えたかもしれない。が、そんな見方をする連中の考えは甘い。中2からの三年間、石蕗恭兵の信頼を得るために奔走し続けた私には、到底及ばない観察眼だ。
……まあ、こうやって自慢したくなるほど骨の折れる出来事だったわけだけれど。
そうそう、言い忘れていたが、ゲーム内での攻略対象は何も《伍華》の面子だけではない。今私の目の前にいる石蕗恭兵は、国が確認していない《傀儡》の血族の一人である。ちなみに学園全滅ルートへ導くキャラの一人も、この男だ。
「用事、つーか……」
目線を斜め上にして、何か迷うように口ごもっている恭兵。
そんな彼は、攻略対象の中で一番まともなキャラだ。私はそう確信して、石蕗恭兵が決して病まないよう、中2からの三年間彼の精神トレーニングに付き合い続けたことがある。まあ、その話はまた機会があればということにしよう。いい加減にこちらから口火を切らなければ、彼が拗ねてH組の教室へ帰りかねない。
「もしかして、僕をお昼に誘いに来てくれたのかい?」
一番ありそうな線を尋ねてみると、彼はぴくりと肩を揺らせて「……おう」と呟きながらこちらに視線を戻しはじめる。どことなく嬉しそうだ。私も本格的に接し始めたころは表情の変化に区別がつかなかったが、さすがに三年も絡んでいるとわかってくるものがある。
「そうか、そうかぁ。嬉しいよ。僕も久しぶりに、恭兵くんとお昼したかったからね」
この学内で言えば、園生先生に次ぐ癒しキャラなのだ。最近は女の子たちで手がいっぱいだったため、会いに行くこともできなかったのだが、この機会を逃す手はない。精一杯背伸びをして綺麗な赤髪を撫でながら(恭兵相手ではいつものことなので引かないでほしい)、「でも」と言葉を続ける。
「今日はもう先約があってね。明日のお昼でもいいかな」
口元をゆるめてそう尋ねると、彼はこくりと頷いた。これぞ三年間の調きょ、ではなく訓練の賜物だ。