03:なにかのフラグが立ちました
《伍華》。
それはこの藍芭学園の頂点に君臨する、実質的な支配者と言っても過言ではない生徒機関の名称である。代々その座につく者は莫大な資産を実家に有し、成績優秀、文武両道、あらゆる意味での支配者としての器を持ち合わせていなければならない。また、半年に一度行われる支持率調査においてもある一定数を満たせなければ、即座にその地位を剥奪されるという割とシビアな仕組みをしている。
――というのは表向きの話。
この説明ならばお金持ちで成績が良く、人格者であれば誰でもなれるかのように思えるが、《伍華》に属するためにはそれ以外にも絶対的な条件が必要である。それは、彼彼女らの血族が代々《傀儡》を使役する家柄であること。それなしに《伍華》を名乗ることは許されず、逆にその家柄でさえあれば簡単に《伍華》に属することができる。
《傀儡》とは、端的に説明すれば自分に対して好意を抱いている人間を操る能力、または操られている対象そのものを指す。現在日本で確認されている《傀儡》の血族は五つ――紫壇、沈丁花、椚野、朽無、譲羽である。彼らは少なくとも藍芭学園の設立された大正時代には存在し、様々な世界でその力を振っていたという。財界や政界が、その主たるところだ。ちなみにその時代以前はどのような文献にも著されることがなく、血族とある一部の関係者以外には代々秘された存在だったらしい。
まあ、そんなチート能力の存在、誰だって信じたくはないだろうけれど。
しかし、存在してしまうからには仕方がない。国はせめてある程度の彼らの行動を把握しようと、《傀儡》の血を受け継ぐ子どもたちの教育を申し出た。どの家柄も干渉されることを嫌ったそうだが、自分たち以外の血族を監視し、また後々利害云々でもめ事が起こらないよう交友を持っておく良い機会だと、その提案を飲んだらしい。それ以来《傀儡》の血を受け継ぐ子どもたちは藍芭学園に入学し、正しい支配力と未来の利益を培うようになったのだそうだ。
ちなみに支持率調査というのは《傀儡》の能力を大幅に用い、均衡を乱している者がいないかどうかを確認するためのものであって、地位の剥奪は一切ない。
「僕をちゃん付けで呼ぶなんて、本当に沈丁花くんは変わっているね」
テーブルに頬杖を突きながらにこやかにほほ笑むと、沈丁花は朗らかな笑顔で私の前に立ち止った。
「そりゃあ、伊依ちゃんは女の子なんだから、そう呼ぶのが普通だよ」
と、まるで世間一般の常識を説いているかのような口調だが、彼は初対面のときから苗字にさん付けをすっ飛ばして『伊依ちゃん』と私を呼んでいる。沈丁花との初対面は中等部2年の頃。そのときにはすでに私の女の子に好かれよう作戦は始まっており、学年でも私を女扱いする同級生はいなかったはずなのだが……。
ゲーム内での沈丁花君尋のBADENDが、ヒロインを自分だけのものにしたいがために相手を人間不信に陥らせ、自分以外の拠り所を潰していくという策略系ヤンデレルートだっただけに、こんな些細なことでも何か見抜かれているのではと考えてしまう。ちなみに、彼は攻略対象で私が純粋に恐いキャラベスト1に輝いている。純粋ではなく恐ろしいキャラや、攻略対象以外を含めたランキングになれば、もう少しランクも下がるのだが。
会話をするたびに滲む手のひらの汗を感じつつ、私は苦笑を浮かべて口を開く。
「僕に限っては、あまり普通でもないんだけどね。ところで、何か用事でもあるのかい?」
慣れた口調でそう尋ねると、沈丁花は細かな黒髪を少し揺らせて、平坦な笑顔を私に見せる。
ちなみに、園生先生の姿はすでにこの場からは消えていた。ゲーム内でもそうだったが、彼女はいつでも神出鬼没なのである。そのスキルのお蔭かどうかはわからないが、例の学園全滅ルートにおいても、彼女だけはしっかりと生き残っていた。
「用事ってほどのものじゃないけど、少しきみと話したくなったんだ」
そう小首を傾げて、綺麗に笑う沈丁花。普通にこわい。目の保養としては十分すぎるほどの光景だが、その分心臓にかかる負担がマッハの勢いだ。それほどまでに、彼のシナリオはどれもこれも恐ろしかった。ヤンデレ成分は十分に補給させてもらったし、当時の私へ大いにうるおいを与えてくれたことには感謝しているが。だって外堀からヒロインを追い詰めていく様が生々しすぎて、もう……そんな沈丁花シナリオに滾ってた私の趣味も相当アレだけど。
そう過去の自分の回想しつつ、私はその場に立ち上がって「そうか」と頷く。
「伍華の沈丁花くんが誘ってくれているんだ、断るだなんて勿体ないね。うん。園生先生もどこかへ行ってしまったし、教室へ帰りがてら、話そうか」
こんな人気のないところで、沈丁花と二人きりというのは耐えられそうもない。元プレイヤーとしての愛情は溢れんばかりに存命だが、それでもこの恐怖には変えられないものだ。そんな理由で彼を外へ促すように出口へ歩き始める。すると、少し後ろから沈丁花の足音が聞こえた。ついさっき園生先生と一緒に聞いたものと、そっくり同じものだ。けれど姿が見えないことに不安を感じて、少し歩調を緩める。すると、すぐに私より頭一つ分高い沈丁花の姿が視界に入った。
「さっきは図書館が好きって言ったけど、もしかして本当は園生先生に会いに行ってるの?」
そう朗らかな口調で話す沈丁花に、私は内心ギクリとする。園生先生は私が唯一愚痴を吐ける相手なのだから、足しげく通いたくもなるものだ。しかし、それを沈丁花に話すわけにはいかない。
そもそも、どうして私が度々図書館へ通っていることを、彼は知っているのだろうか。目立たないようにしていると言えば、それはもちろん嘘になるが(女の子の注目を集めるためには、ある程度目立つことも必要なのだ)、沈丁花がわざわざ絡みに来る程の人間とは思えない。ゲーム内でもそうだったけれど、彼の特徴として基本何を考えているのかよくわからないというものがある。しかも、絶対にわざと自分の手の内を見せないようにしているのだから、手に負えない。
「そうだね。図書館という閑静とした場所も、そこに仕舞われている大量の本も、綺麗な園生先生も好きだっていうのが正解かな」
全体的に、嘘はついていなかった。人目を気にしなくてもいい場所と本の匂い、年齢不詳な美人先生を眺めるのは本当に好きだ。そんな私の言葉をどう思ったのか、図書館から一度外に出て、沈丁花は太陽に照らされながら静かに口元を緩める。
「へえ、そうなんだ。俺も本は割とよく読むし、顔立ちの綺麗な人も好きだよ」
――でも。
そう付け加えて、沈丁花はやけに上機嫌な口調で言葉を続けた。
「俺は美人よりも可愛い女の子の方が好きだな」
「ああ、っぽいね。ちょっと顔立ちの幼い女の子とか、沈丁花くんは好きそうだ」
まさに例のヒロインが、そういう顔立ちだから。
ちなみにヒロインの登場まではまだ少し猶予がある。彼女は二年生のこの時期、6月にやって来る変わった転校生として、攻略対象の興味を引くというのが序盤のシナリオ。そして現在が5月の下旬であるため、まだ肩に力を入れなくてもいい段階だ。しかし、期限が迫っているのも確かで、いよいよかと表情がひきつりそうになる。
そうこうしている間に四階建てのモダンな赤いレンガ作り(本当にレンガということはないだろうが)の本校舎へとたどり着いた。朝のホームルーム間近ということもあり、クラスごとの教室がない一階の廊下には人通りがない。とはいえ少し安堵して、ガラスの扉に手をかけた。
そのときだ。
扉を押すために伸ばした右手を、不意に黒いブレザーの袖から見える手が絡め取った。
「な……」
瞬時に背筋へ悪寒が走る。ほとんど反射的にその手を振りほどき、その場から飛び退いた。落ち着きを取り戻していた鼓動は速まり、警鐘の如く私の頭で鳴り響く。それでもできるだけ落ち着いた様子を繕い、何かしらのイベントを発生させようとしている沈丁花の方へと振り返った。
彼の表情はやはりにこやかで、目じりも頬も口元も、全てが緩いままだった。
あまりにも変わりのないその様子に、ぞくりと身が震える。ああ、こういう得体のしれない不気味な感じが、私は好きだったんだけどなぁ……。やはり画面越しか否かという差は、重要なものらしい。
「さっきの話のつづきなんだけどさ、俺は美人な子より可愛い子が好きなんだよね」
まるで何事もなかったかのように、沈丁花は莞爾と私に微笑みかける。太陽を背にした彼の表情には影が下りており、とても素直に笑顔を受け取れるような光景ではない。というより、どうしてその言葉を二回言ったのだろう。大事なことなので二度言いましたの精神だろうか。まあ、沈丁花君尋びいきだった私のようなファンから見れば、好きなタイプという情報はとても美味しいけれど。
そんなくだらないことを考えているうちに少しだけ動揺が収まり、私は落ち着いて「それは暗に、僕へ可愛い女の子を紹介するよう催促しているのかな」と返事をした。
「まあ、僕がそんなことをしなくても、沈丁花くんに好意を寄せる女の子は多いだろうけどね」
「それはそのとおりだけど、そういう意味じゃないんだ」
うわあ言い切った、イケメンにしか許されないモテるのは当然です発言。まあ、本当にイケメンだから許せてしまうんだけど。むしろそんなところが私は好きだったけれど。思い出せば思い出すほど、前世の私の好みは『※ただし二次元に限る』な性質ばかりのようだ。今の私は騙されないので、関係はないが。いや、本当に騙されていない。うん。
……ではなくて、そういう意味じゃないというのは、どういう意味なのだろう。さすがに首を傾げて眉を潜めると、沈丁花は何気ない様子でこちらに歩み寄りながら口を開いた。
「伊依ちゃんって、黙っていれば普通の女の子だよね」
「さあ、僕にとってはこれが普通だから、何とも言えないな」
そう返事をしながら退き、距離は一定を保ち続ける。沈丁花が何を考えているのかは知らないが、何かあっても逃げ切れる間隔を空けておかなければならなかった。 それにしても、これは不味い状況だ。ヒロインの登場までの私の考えていた計画が、早くも倒壊の危機に瀕している。まあ……四月に沈丁花と同じクラスって時点で、嫌な予感はしてたんだけど。
「身長も160はないんじゃないかな。その振る舞いと言葉さえなければ、普通の可愛い女の子だ」
元々の《式降伊依》のキャラクターが普通の女の子だったのだから、当然と言えば当然だろう。中身は真逆のものにさせてもらったが。そんなことを思っているうちに後ずさる後も限りが見え始め、これから五歩でも下がろうものなら壁に背をつけるのが目に見えていた。
とりあえずなんかもう……脇目も振らず逃げたい。完璧に何かのフラグが立ちつつある……。しかし、ここまで来てしまったからには、このフラグの紛いのものを最小で収める必要もあるのだ。逃げ出すわけにはいかない。そう心の中で痛む頭を押さえながら、目の前で柔らかく笑っている彼に口を開いた。
「それで、僕に何を言いたいんだい? 沈丁花くんの言う、普通の女の子にでもなった方がいいってことかな」
僅かに声を低くして、怒り気味に両腕を組む。すると、沈丁花は「あはは」と軽い笑い声を上げて、冗談めかしに微笑んだ。
「いや、今の伊依ちゃんも、俺は素敵だと思うよ。きみがどうしてそんな風に振る舞っているのかは知らないけど、そんなきみを周囲は好ましく思っている。ならそれは、別に間違ったことじゃないさ」
ただ――。
そう言葉を付け加えた沈丁花君尋は、目を細めてこちらに手を伸ばした。それと同時に視界の中で蒼が弾け、世界がそのほの暗い蒼に染まる。私はこの光景に見覚えがあった。そして、その記憶に唖然とする。私にはまだ、全ての前世の記憶が揃っているわけではない。だからこそたまに詰めの甘いミスをしてしまったり、どうしようもない勘違いをしてしまうことがある。
それが、今だった。
まるで動画をスローモーションで再生するかのように、沈丁花の左手が私の頬に添えられた。手を握られた時と同じように、冷たい指先が私の体温を侵していく。
まずい、まずいまずいまずい。
そうだった、そうだった。こういうシナリオも、あのゲームには確かにあった。
もはやフラグを最小限に止めることなど、思考の外だ。私は無駄かもしれないと思いながらも、沈丁花の手を振り払って逃げ出そうと体を動かした。しかし、私の体は指先ひとつ動かない。まるでそう命じられたように、ぴくりともしなかった。
私は《傀儡》を行使されたのだ。
「ただね、伊依ちゃん。俺はきみが、普通の女の子として振る舞ってくれた方が嬉しいんだ。普通に女の子らしく笑ったり、女の子らしくお喋りをしたり、女の子らしく――」
恋をしたり。
そう言って空っぽの笑みを浮かべた沈丁花は、その形のいい唇を私に近づけて――。