◆3 現実
◆3 現実
「自己紹介からはじめますね」
女はそう切り出した。
「私の名前は、チェカ。チェカ……なんちゃらという名前です」
「は?」
女は自分の名前を名乗る。
明は表情をまたも崩す。後半の言葉に。
戸惑いを見せる。
それに答えるチェカ。
「ごめんなさい。知らないんです。いえ……分からないんです。私は記憶を失っていますから」
いきなりの告白。
覚めたといえど、寝起きである明の頭は全くついていけなかった。
ぽつんとベッドに座る明は、言葉を失っていた。
表情が固まってしまい、動かない明を見てもチェカは微笑むだけ。
「本当は教えられたのですが、忘れちゃいました」
自己紹介を再開して言った言葉は後ろにてへぺろがつきそうなくらい軽いものだった。
「長かった、というのは覚えてるんですけど……。どこかにメモでもしておけばよかったです」
淡々と自分のことを笑いながら言葉で晒す女。
チェカの口はまだ、動き続ける。
「天使ってことは昨日言いましたよね。あ、天使って何かご存知ですか?」
チェカは両手を合わせ、閃いたように聞いた。かすれたような、小さな小さな軽い音が鳴った。
質問されたことに気付いた明は、目をなにもないところに一瞬向ける。
間をほんの少し開け、言葉を探す。
「なんとなくだけど」
探し出された言葉を頷きながら、言った。
それを見て、そうですかとつぶやくチェカ。
顔を下に向け顎というより唇に、軽く握った右手を当てて考え込むチェカ。
明はそんな仕草をするチェカを見ているだけ。
雨音が窓を叩く。
「……たぶん、貴女が知りたいのは、なぜ私がここにいるのか――ですよね?」
間の開いた静寂とも言えない時間を消すように早口で言った。
確認を求めるために下げていた顔を上げるチェカ。
それに対し、無言で頷き肯定する明。
「なぜここにいるのか――。それは貴女が私の波動と合う人間だからです」
「ハドウって?」
明は聞きなれない言葉に疑問符を浮かべ聞き返した。
「それを説明するのは、私では難しいです。書物に載ってる知識しか私にはないですし」
そう言って、天使の左手の上にある物を明に見せようと、確実にさきほどまでなかったはずの書物を右手に持ちかえて明へと差し出すチェカ。
明は驚きながら、差し出された書物へと目を向ける。
差し出されたのは分厚くずっしりと重そうな雰囲気をまとった物だった。
何も書かれていない表紙に、きれいなほど真っ白で整った小口。触れたら指が切れそうなそれに無意識に手をさする。
紙に見えない表紙を見つめる。瞳に映るのは、一切の変色を知らない藍色だけ。
チラリと目を上へと動かす。微笑みしかない。
スローモーションのような動きで本へと近づける手。
かすかに震えていた。
「ここには、いろんな事が書かれているんです。人間k――」
説明するために開いた口から流れた言葉が途切れた。
光がはじけた。忽然と。
夜中に見たあの時と同じような光が、明を襲うかのように。
「何!?」
怯えの叫び声。
強制的に瞼を閉ざされる明。
右手に鋭い痛みが駆け抜け、差し出された書物は床へと落ちた。
やっと光が消え、ゆっくりと、ゆっくりと目を開ける。
視線の先には、書物はなかった。
いや、視線の先である床にはないだけで、書物はチェカに腕の中に存在した。
それを抱えるチェカの表情は今にも泣き出しそうなものだった。
「ごめんなさい。天界のものであるこれに人間は触れちゃいけないの忘れてて……。その、ごめんなさい。本当にごめんなさい。痛いところない? 大丈夫? ねえ。どこか痛いところない?」
そう、流れるように綴られた言葉は幼稚なもので、しかし心配する言葉と態度に、
「ああ」
と、わけのわからないまま返す。
夜中とは違い、怒る様子などない。
チェカは明が怒るのではないかと心配していたわけではないが、そのなんでもない様子に安心の息を吐く。
「よかった。ごめんなさい。これは片づけますね」
そう言って、書物が光の粒子となって消える。
淡い光は背景にかき消されたように溶けた。
「なんかさ」
それを見た明は、やっと追いつき始めた頭を使い言葉を探す。
出てきたのは、
「夢を見ているみたいだ」
そんなものであった。
明は自嘲じみた笑みを浮かべる。
チェカはそんな笑みを浮かべる明にへと、
「はい、まぎれもない現実です」
"みたいだ"という言葉を拾った肯定をつきつける。
頬笑みと一緒に。