あの日の約束の場所で、神様の木の下で待ってる。
長いです。
でも、ぜひとも読んでいただきたい作品です。
気持ちが伝われば幸いです。
――パパ。ママ。ありがとう。そして、ごめんなさい。さようなら……。
街灯の燈が消えた月明かりの下。
私は真夜中の街へ走り出していた。誰もいない街はまるで、自分だけが置いて行かれたようだ。感覚は研ぎ澄まされていて、街から香るのは自分の匂いだった。
まだ息が白く、肌寒さが残る冬の終わり。家を飛び出した私は薄着の上に若草色のロングコートを羽織っただけだった。
私は急いでいた。あの育った家には一秒も居たくなかった。なによりも、早くあの約束の場所へ――
毎日のように繰り返されてきた怒声に暴力。眠る時間なんてほとんどなかった。とにかく次の朝日が昇るのが怖かった。体中に残る無数の傷跡を誰にも見られたくなくて家の中に閉じこもった。でも、それがさらにパパとママの気に障った。襖の向こうで鈍い音が響いていた。拳を振るうパパと悲鳴を上げるママの姿。耳を塞いでも、目を閉じても、脳に直接流れ込んでくる痛々しい光景に、ただ黙っていることしかできなかった。そして、気が治まるまで何回も何回も殴られ続けた。手を伸ばしてママに助けを求めたが、見て見ぬふりをして助けてはくれなかった。
小学六年生の卒業間近に始まったドメスティック・バイオレンス。それまでは穏やかな毎日だった。笑い声が絶えないにぎやかな家族だった。中学校に入学してすぐ――――
私は――――声を失った。
一生の声を泣き叫ぶだけに使い切ってしまったのだ。家の中には助けてくれる人はいない。だから私は家の外に飛び出して助けを求めた。けれど声を出せない私はどうすればいいかわからなかった。そんなとき、目の前に現れたのは小学校でクラスが同じだった洸希君だった。今は互いに違う中学校に通っている。洸希君は私の傷だらけの体を見て驚いていた。
「おい! どうしたんだその傷!」
私は笑顔を作ったまま涙を流すしかなかった。
洸希君は急に私の手を掴んで走り出した。遠く遠く。空の色が変わってしまうまで、どこまでもどこまでも。辿り着いたのは何処かもわからない場所だった。目の前に広がる森の中へ、洸希君はぎゅっと手を握ったまま入っていった。手入れのされていない森の中は光すらあまり届かず、薄暗く視界の悪い荒れた場所だった。歩き進める度に木の枝にぶつかって腕や頬を切った。けれど私にはそんな傷、痛いとは思わなかった。
洸希君が手を放したのは森の切り拓けた広い所だった。そこには一本だけ、周りの木とは違う木があった。
「きれいな木だろ? 桜の木だ。オレは神様の木って呼んでる」
――かみさまの……木。
「この木にお願いをしたら願い事が叶うんだ。三年に一度、たった一夜だけ、ほんの一瞬だけだけど、桜の花が咲くんだよ。オレが初めてここにきたのは六歳の時だった。お父さんに連れてきてもらったんだ。お父さんも子供の頃よくここへ来てお願いしてたみたいなんだ。桜の咲く晩にここへ来て散る桜の花びらを一枚持って森を出ると願い事が叶うんだ」
私の足は無意識に桜の木へ向かっていた。特別大きいわけでも、変な形をしているわけでもない、普通の桜の木。その木に私は触れた。
――あたたかい。
木にぬくもりがあることを初めて知った。生きているんだと知った。そのときの私には、木の呼吸音が心臓にまで聴こえていた。
「もしかして……こえ……でないのか?」
一言も話さない私の異変に気が付いたのか、悲しげな表情で聞いてきた。首を縦に一度振った。すると洸希君は手を合わせて目を閉じ、神様の木に向かって叫んだ。
「オレのお願いだ! 前に来たとき言ったのはなかったことにしてくれ! 今日言うのがオレの本当のお願いだ! どうか陽子の声を戻してやってくれ! お願いします!」
洸希君の姿は、声は、強くてまっすぐで、天高くそびえる光の柱だった。
「次は陽子の番だ。自分の本当のお願い、どうしても叶えたいお願いを叫んで」
――お願いします! どうかパパとママの仲がよくなりますように! パパとママが仲よくしてくれたら私はどうなってもかまわない! 一生で一度のお願い! だから……どうか……どうか!
森に強い風が吹いた。ざわめく森はまるで拍手をしているようで、揺れる神様の木はまるで、私の声を聴いて頷いてくれているようだった。頬を伝う涙は月明かりに照らされて、私の輪郭を綺麗にかたどった。
「三年後……中学を卒業して三月の終わり、桜の咲く晩にここで待ってる。だから、それまでは絶対に諦めるな。なんで怪我をしているのかも、声が出ないのかも、どんな願い事をしたのかも今は聞かない。けど、約束の日にすべて陽子の口で、言葉で話してくれるのを約束してほしい」
私たちはその日、神様の木の下で約束をした。
―――― ―――― ―――― ――――
来た道を戻って森を出た。走ってきた道を手をつないで歩く。洸希君の歩幅に合わせて一歩一歩。
幸せに胸が張り裂けそうになる。すぐに終わってしまうのが悲しくて、怖くて。
十字の分かれ道。洸希君は私の手のひらに何かを置いて両手で包み込んだ。
「オレが初めてお願いして桜の花びらを拾ったとき、この中に入れて森を出たんだ。落とさないようにするためにさ。そのときの花びらがまだ入ってるんだ。オレの大切なもの――」
洸希君は両手を退けた。私の手の中には桜色のヘアピンで口を閉じた巾着袋があった。
「――だから……預ける! なくさないでほしい。オレには何もできないから……せめて側にオレがいるってことだけ覚えていてほしい!」
私は何度も何度も頷いた。胸に両手を押し当てて何度も何度も頷いた。それしかできなかった。
その日の夜。家に帰るといつも以上にパパは私に怒声と暴力を浴びせた。
痛い。
痛い。
痛い。
でも。
耐え抜いて見せる。約束のその日まで――。
私は中学校に無理やり行かされた。学校側に安否を確認させるためだ。両親は、事故を目の前で見たショックで、私が声を出せなくなっていることにしていた。傷はフラッシュバックを起こす度に抑えるため、自ら付けているものだと言った。先生から質問されるのはいつも「暴力を受けているのではないか?」とか「何か悩み事でもあるのか?」とかだった。筆談で私はいつも「ありません」と書いた。もしも本当のことを書いてしまったら、私の願いが叶わないから。
学校を休んだ日は、先生が必ず様子を見に来ていた。両親が仕事で平日はいないことを先生たちは知っていた。そしていつものように質問をしてくるが、私はにっこりと笑顔で、「ありません」と応えた。
季節はいくつほど巡った。
中学校を卒業して三月の終わり。とうとう約束の日が来た。待って待って待ち続けたこの日。何度の夜明けを目にしたかはもう覚えていない。すでに身体は限界だった。痛みは心にまで浸食していた。きっとあと一日で私の命は消えてしまうような、そんな感じがしていた。
その日の夜は雲一つない、月が綺麗な夜だった。いつものようにパパに殴られた後、私はコートを羽織って夜中の街に駆け出した。
――パパ。ママ。ありがとう。そして、ごめんなさい。さようなら……。
あの日――洸希君に手を引かれて走った道をひたすら走る。重たい足を前へ出して、ぐらつく視界を振り切って、肺に入る冷気に咽ながら、ひたすらひたすら。
森の入り口は暗く、何も見えなかった。それでも私は気にせず走り抜ける。容赦なく襲いかかる枝の牙が私のコートを引き裂いていき、引っかかった。枝を外すのに立ち止まる。辺りは何も見えない。微かな月明かりだけが頼りだった。震える足は恐怖だった。
――ここで動けなくなったら……わたし……。
脳裏に浮かぶ帰り道。今なら引き返せる――そう両足が言っている。
――でも、ここで引き返したら一体私に何が残るの? もうすぐで辿り着くのに。もうすぐですべてが終わるのに。願いが叶うのに!
私の震える両足は前へ走り出していた。
枝の牙を抜けると拓けたところに出た。見えた。
大きな月。
無数の輝きを放つ星。
月明かりに照らされる神様の木。
その下に見える人のシルエット。
「ようこ……か……?」
洸希君の声に胸が高まる。私は走る。神様の木まで全力で。足がもつれて洸希君にぶつかった。そんな私を見て洸希君は大声で笑った。
「待ってた! 今日が来るのをずっと! 来てくれるの信じてたよ!」
――わたしも!
その時。空気が温かくなって春の匂いがした。上から一枚の花びらが私の鼻の先を掠めていった。頭上を見上げると、さっきまで一輪も咲いていなかったのが、満開になっていた。
「これが神様の桜だ。一夜の一瞬しか咲かない泡沫の花――」
神様の木の美しさは今まで見てきたどの桜の木にも勝っていた。一枚一枚の花びらが幾つにも折り重なっている。木の枝も幹も花に覆い隠されていた。月明かりの下の桜の色はあまりにも薄くて、まるで雪のような儚い色だった。緩やかな風が吹く。その風に揺れる桜は一瞬ですべて舞い落ちていく。触れたら溶けてしまいそうな花びらを洸希君は一枚手に取って、
「これで、あとは森を出たらおしまい」
私も手を伸ばして無数の中から一枚、親指と人差し指でつまむ。左のポケットから桜色のヘアピンで口を閉じてある巾着袋を取り出した。
「よかった、持っててくれて」
安堵のため息を洸希君はついた。
「ヘアピン取っていいよ。その中に花びら入れて」
私は首を横に振る。この中には洸希君の大切な花びら入っているから。
洸希君は私の手から巾着袋を取って、ヘアピンを外した。そして、巾着袋を逆さにした。出てきたのは砂のような細かな粉だった。
「六歳の時のだ。花びらの形であるはずがないよ。この巾着袋もヘアピンも陽子にあげる」
私の花びらを掴んで巾着袋の中に入れた。口をヘアピンで閉じる。
「さぁ出よう。三年越しの願いを叶えに――」
私たちはゆっくり森の外へ歩いていく。枝はまるで花道のように道を開けていた。来るときは暗かった森も月明かりが射し込んで明るかった。あっという間に森の出口の一歩手前。
「あと一歩でオレのお願いも陽子の願いも叶う。いくよ!」
同時に右足を前に踏み出して森を出た。
特に違和感や変化は感じない。
もしも声が本当に出るなら、洸希君にあの言葉を――
「ありがとう」
「おかえり陽子」
私の口から出た声は確かに私自身のものだった。思わず涙が流れ、嗚咽がこぼれる。
叶ったんだ。本当に叶ったんだ。
「よーぅこー! よーぅこー!」
遠くから聞こえるパパの声。
「ようこちゃーん! ようこちゃーん!」
ママの声も聞こえる。
向こうから走って来て、パパは私に抱きついて泣いた。怒声じゃない。泣きじゃくる声で私の名前を何度も何度も繰り返し呼ぶ。ママも背中から私に抱きつく。ママも大粒の涙を流しながら何度も何度も私を呼んだ。
「叶ったよ……洸希君。ありがとう……ほんとうに……ありがとう」
私はありがとうとしか言えなかった。他の言葉は出なかった。
――私やったよ。勝ったんだ。あきらめなかったよ。優しかったパパとママに戻すこと出来たんだ。ああ、なんだろう。すごく気持ちがいいな。なんだか身体が重たいな。疲れてるのかな? ちょっとだけ眠ってもいいよね。おやすみなさい。
さようなら。
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