閑話休題 侍女からの小さな贈り物
王都は、朝が来るたびに少しずつ音を増やす。
パン屋が扉を押しあける音、車輪の軋み、井戸から引き上げられる桶の水の震え。
石畳は夜露をほどき、空気はまだ冷たく、でもどこか甘い。
わたし――子爵家の侍女セラは、当主の奥方の使いで台所口へ香草を受け取りに向かう。その日は時間が少し早かったため、帰り道、いつもの露店通りをひとつ余分に迂回した。
香りの店がある。旅の行商人が時々ひらく小さな屋台で、籠のなかに、花や葉や薄い木片や見たことのない実がごちゃりと並ぶ。わたしが足を止めるのを店主は知っていて、言葉少なに布をめくった。
「灯果の蝋燭。新しい香りが入ったよ」
蓋を開けた小瓶のなか、透明な蝋の向こう側に、淡い紫の穂が沈んでいた。
日向で育ち、夜露で育ち、誰にも名を呼ばれぬまま、風とだけ喋ってきたみたいな香りがする。
わたしはそれを吸い込むと胸の奥がまですうっとほどけるように感じた。
「この花、名前は?」
「名は聞かないほうがいい。咲く場所がひとつしかないんだとさ。買い手に困る時もあるが……香りはいい」
「一本、いただけますか」
商人は、蝋の中で眠る紫を光にかざし、包み紙で丁寧に巻いた。
「初夏にだけ採れる。寝つきに効くと評判だ。火を点けなくても、枕元に置けば部屋が吸ってくれると」
わたしの“ささやかな贅沢”は、だいたいこの店で完結する。
侍女に豪奢は似合わない。けれど、香りと灯りくらいは許される。深夜の片付けを終えて、みんなの寝息が落ち着いた頃、部屋の隅で小さな灯をともして、そこに沈んでいく自分の心を見ている。
そうしていると、たいてい翌朝までさみしさやこわさに怯えずに済む。息をすればするほど。
屋敷へ戻る廊下を急ぐ。
子爵家の若い令嬢アデリエ様は、このところ眠れていないようだ。
夜着の胸元にしわがよるほど咳をこらえ、明け方に目の下に沈む影が濃くなる。
婚約の話が行き交う年頃で、書斎には礼節の本と、見知らぬ青年の名を書き込んだ舞踏会の招待状。
眠れぬ夜は少女から笑いを奪う。
わたしは見ているしかない。
――見ているだけの手が、何かできたらいいのに。
部屋に入る前、わたしは小瓶の蝋燭を胸に抱いた。
「失礼いたします、アデリエ様」
白い寝台の上、ふわりと肩を寄せたお嬢様が顔を向ける。ぶどう色の瞳は眠気の霧に曇り、髪は艶やかなのに心だけが乾いている。
「少し、香りを置いてもよろしいでしょうか」
許しを得て、窓辺の小卓へ蝋燭を置く。火は点けない。窓は少しだけ開いている。
朝の風が薄いカーテンを揺らし、蝋の中の紫が微かにきらいだ。
「灯果の蝋燭、と申します。田舎から来る行商がときどき持っているのです。よく眠れますように、と――」
言いながら、胸が詰まった。
わたしは祈る資格のある身分ではないのに。
「ありがとう、セラ」
困ったように笑った声。
眠れぬ夜が続いた人の、遠慮の笑い。でも、その笑いに触れるだけでわたしの手は救われる。
「夕餉のあと、少しだけ火を入れますね。長くは点けません。香りを部屋に覚えていただければ、火を消したあとも香りは残ります」
夜。
廊下の灯は落とし、侍従も台所も眠りに入り、屋敷がようやく静かになる。
わたしはお嬢様の枕元で、短く火を点けた。
炎は蝋を溶かし、紫の穂を柔らかく包み、甘すぎない、草の体温のする香りが滲み出てくる。
アデリエ様の呼吸は、最初のうちは浅かった。
胸の上が、不規則に上下する。部屋の隅で衣擦れの音ひとつにも肩が跳ねる。
「大丈夫です。わたくし、ここにおります」
火をゆっくり三十ほど数えてから消す。
蝋はまだ温かい。香りも幾分か残っているようだ。布団の端を直し、髪を梳き、手を取って、震えが落ち着くのを待つ。
そこからまた十数え、二十数え、やがて――呼吸が、すう、すう、と長くなる。
頬から力が抜け、まつ毛の影が落ちる。眠りの輪郭がそっと降りてきて、少女の顔に壊れやすい安堵の薄膜がかかる。
わたしは胸の奥で小さく泣いて、でも涙は落とさなかった。これくらいの魔法なら、侍女でも使える。
灯りと香りで、夢の中に連れ出すくらい。
翌朝、アデリエ様はひさしぶりに朝食をきちんと召し上がった。
パンの端をちぎる手に力が戻り、湯気を吸い込む横顔の目元が柔らかい。
「セラ……あの、昨夜の香りは……」
わたしは小瓶を示し、使用法と火の長さを説明する。
「それ、どこで……手に入るの?」
「露店で。行商が来る日だけ。わたくしの分を差し上げます。次に見かけたら、また」
「いえ、あなたの癒しを奪いたくないわ」
お嬢様はそう言って、ふと笑った。涙が出そうだった。癒しを持つことを、誰かが許してくれる。
それだけで、人は立っていられる。
その日から、灯果の蝋燭は夜ごと短く灯された。
火をつけない日も、窓辺に置けば風が香りを運ぶ。眠れぬときは深呼吸を三つ。
香りが胸の奥にたまって、心拍が落ち着く。
ほどなくして、令嬢の書斎に招待状が増えた。顔色が戻ると噂は早い。
「最近、あの子はよく眠れるようになったらしい」と。
やがてお茶会に呼ばれた令嬢が、小さな紫の蝋燭をお土産に持参した。
「夜、お試しになって。火は短く。香りが残るから」
令嬢の言葉は、さざ波みたいに広がる。“気の利いた贈り物”は、貴婦人たちの社交における通貨だ。
最初は一、二家。次に、その友人へ。
やがて“子爵家の娘が使っている安眠の灯り”という噂になり、香りの色まで語られた。
「紫色がよいの。野の花の香り。とても優しくどこか懐かしい」
「火を長くしないのがコツですって。枕が香りを覚えるから」
露店に灯果が出る日は、人だかりができるようになった。商人は品を広げながら言う。「田舎の、名もない村から来た蝋だよ。花は、その村でしか咲かないらしい」
名もない――。けれど、人を眠りへ連れ返す力がある。そんな御伽話が、王都の端から端まで薄く張られていった。
季節が巡り、初夏。
紫の花が再び届く頃、アデリエ様は一通の手紙をしたためた。宛先は親しくしていたが結婚を期に殿方のご実家の方に引っ越していかれた友人。
――最近子供が産まれてからよく眠れないっておっしゃっていたでしょう。たまの休みにでもこれを使ってみて。
蝋燭の小瓶を布で包み、薄紫の糸で結ぶ。贈り物は、それだけで祈りになる。
手紙が幾つも飛び、蝋燭が幾つも回る。社交界は流行に敏い。やがて“灯果の香り”は、夜会の後のお土産、舞踏会の翌日の労い、婚約が決まった令嬢への小箱、といった形で棚に並ぶようになった。
けれど、その円の真ん中にいるのは、わたしたちではない。
商人が来る日を待ち、分け合い、火を短く灯し、眠りを借りるだけの名もなき手たち。
夜、蝋燭の芯に火を近づけるとき、わたしは誰か知らない人の手を思う。
「セラ」
ある晩、アデリエ様がひそやかに笑って言った。
「今夜は眠れそう。灯してくれる?」
「はい。五つ数えたら消しますね」
炎が花を撫で、香りが部屋へ広がる。
お嬢様のまぶたが落ちるのを見届け、火を吹き消してから、わたしは窓辺に小瓶をそっと置いた。
外には王都の夜が広がっている。馬車の音、遅い帰宅の笑い声、見張りの足音。どの家にも灯りはあり、どの灯りにも眠れない誰かがいる。
その人たちのそばへ、この香りが届けばいい。
わたしは祈らずに、ただそう思う。祈りは身分の高い人の特権だ。願いは、誰の胸にも許されている。
数日後――露店の主人が言った。
「この灯果、王都で流行りはじめてるらしい。『野の紫』って名で呼ぶお屋敷もあるとか」
わたしは笑って頷き、一本だけ余分に買った。自室の机の引き出し、母の古い手鏡の隣に置く。仕事の合間、蓋をほんの少しずらすだけで、部屋に小さな丘ができる。そこに腰を下ろすようにして息を整え、また廊下へ戻る。
名はなくていい。わたしには、この香りがあればいい。
でも、どこかで静かに信じている。
――この灯りを作った人は、いつか必ず見つけられる。
灯果は、灯りであり、合図だ。
名のない人たちの夜を、同じ速さで照らす。
王都の片隅、侍女の小さな趣味から始まった火は、気づかれぬうちに、貴族の寝室と、穏やかな夢の間に小道をつくりはじめていた。




