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薬草村から世界へ:お母さん、私、錬金術師になります!  作者: 鹿ノ内


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閑話休題 フェルナ伯爵①


 フェルナ伯爵 レオン・アーベルハイトは報告書に目を通し、たまにちらりと窓の外に広がる海霧を見下ろしていた。


 ここ数年、この海を見る目は大きく変わった。

 豊穣を運ぶ潮の道であり、甘い黄金――砂糖の源でもあるはずの西の海は昔、その牙を剥いた。


 結界の綻びは本当に一瞬の出来事だったと後から聞かされた。

 だが、被害の爪痕は一瞬では済まなかった。


 港の灯が一列ごと、海に呑まれるように消えていった夜。

 海底から膨れ上がった魔苔が船底を蝕み、育て上げてきたサトウ葦畑を腐らせ、浜の貝を黙らせた。

 西の街は豊穣の象徴だった白砂糖を一転して呪詛のように口にするようになった。



(あのまま、潰れていてもおかしくはなかったな)


 伯爵は掌の節を、ゆっくりと眺めた。

 貴族の手にしては少し骨張っている。若い頃、まだ父の代で役所勤めをしていた頃、書類と格闘していた名残が抜けない。


 フェルナ伯爵家は、元々「机仕事の家」と呼ばれてきた。

 戦場で剣を振るうより、宮中でペンを振るう方が得意な一族。代々、王家に優秀な官僚と監査官を送り出し、地味だが確かな統治と調整を担ってきた。


 華やかではない。

 だが、その退屈な堅実さが今回ほど頼もしく思えたことはない。


 結界の綻びの報が入ったとき、王都からの指示を待つ前にフェルナは自ら西の街へ馬を走らせた。

 破損した堤。

 傾いた倉庫。

 港に積み上がる、出荷されるはずだった砂糖の樽。


 そして、海を見て泣き崩れる者たち。


 伯爵はただちに臨時税の免除と救護物資の搬入を決めて役人たちを走らせた。

 だが、心までは追いつかない。

 どれだけ食料を配っても、焚き火の数を増やしても、人々の心は温まらず、目は沈んだままだった。


 どうしたものかと思っていた矢先、そこに届いたのは大神殿からの援助隊だった。


 育生院の神官たちが子どもを抱き上げ、理術院の一団が結界の再構築に当たり、神殿衣に身を包んだ者たちが淡々と魔苔を焼き払っていく。

 それは信仰以前に技術の力だった。

 フェルナ伯爵はそれを素直にありがたいと思った。


 さらに数週間遅れて、もうひとつの援助、という名の贈り物が届いた。


 黄金色の貝殻と封じられた通貨。


 最初にそれを口にしたのは港で汗を拭っていた若い漁師だったらしい。そこから従者の手を渡って、毒味が済まされ届いたそれ。


 差し出された包みをフェルナは訝しげに受け取った。

 見慣れぬ紙だ。植物紙特有の繊維のざらりとした感触があるのに、指先には魔素の膜のような、薄い守りの気配がまとわりつく。


 包みを開くとふわりと軽やかな香りが立ち上る。

 蜂蜜と、焦がしたバター、柑橘の皮。

 そして、貝殻の形。


 西の浜で拾うものより少し丸みがあり、柔らかな線をしている。

 だが、焼き色は――サトウ葦畑を照らす夕陽のように、温かくて、懐かしい黄金色だった。



 思い出される情景を胸の奥で噛み締め、それを一口かじると、驚くほど優しい甘さが舌に広がった。

 しっとりとしているのに、重くはない。

 噛むたびに、あの西の浜の、塩の匂いではなく、麦藁小屋の灯りの匂いを思い出す。


(……こんなものを、どこで)


 包みと一緒に簡素な添え書きがあったらしい。それも一緒に渡されていた。

 書き慣れているとは言い難いが、真面目な筆圧の文字で、こう記されていた。


 ――聖庇舎の子どもたちが作った焼き菓子を、魔苔被害のあった地域へ贈る計画の一環として送らせていただきます。

 収益および義援金は大神殿名義にて西方復興支援に充てられます。


 そこには作者の名はない。

 あるのは神殿と商会の名前だけだ。


 ブレッシェル。


 添えられた別紙にそう書いてあった。

 祝福を意味する古語と貝殻シェルを合わせた造語だという。


(よく出来た、名だ)


 フェルナは感嘆した。

 砂糖はこの州の命だ。

 その砂糖で焼いた菓子が同じ土地の貝殻の形をとり、神殿からの祝福を名乗って届く。


 それは、ただ美味いだけではなかった。

 物語を伴っていた。


 そして同じ箱に数行の報告とともにまとまった寄進金が封じられていた。

 それも「大神殿名義」で。


 だが、文面の端々からフェルナ伯爵は察していた。

 これは「誰か」が動かないと、こうはならない。もとより神殿は何かと白砂糖を避けていたと思う。王都でも特定の商会にしか卸していないため、数も少ない。


 そして廃棄されるはずの資源を集め、子どもたちの時間を調整し、焼き菓子という形に変え、商会へ卸し、その売上の一部を寄進という形に整え直す――。


 机仕事を本分とする家の人間として、そこにどれだけの手間と調整が必要か、痛いほど分かる。


 だから、返事を書いた。


 ブレッシェルは確かにこの土地の心を救ったと。

 もし作者と橋渡しが可能なら、同じお菓子を今度は「伯爵家の茶席用」として正式に納めてもらえないかと。


 それが、ひと月ほど前のことだ。


 そして今日。

 その返答が、箱のかたちになって届いた。


 執務机の上に鎮座する、淡い生成りの包み。

 封緘に使われているのは、あのときと同じ不思議な植物紙――いや、より厚みがあり、表面にかすかな文様が浮かんでいる。


 封を切るとわずかにハーブの気配が立ちのぼった。

 清浄の香りだ。タイムか、似たような薬草だろう。


 蓋を開ける。


 整然と並んだ焼き菓子が視界いっぱいに広がった。


 ブレッシェルとは形が違う。

 これは、長方形だ。

 だが一本一本に、薄く透けるような砂糖衣がかけられている。


 ふと、包みに掛けられていた細いリボンのようなものが目についた。白い――花だ。


 細い糸で編まれている。あまりに細く、指でそっと触れなければ分からないほどの繊細さ。


(……これは)


 伯爵の胸に、どこかで見たような既視感が走った。


 そうだ。

 王都の工房が持ち込んだ、新しい成人儀衣裳によく似た白があった。

 伝統の純白の上に、ただ糸の陰影だけで咲いた、小さな花。


 あれを見たとき、評定の場で誰かが言ったのだ。

 「布に咲いた、まだ名の無い白だ」と。


 フェルナは笑みを含んだ吐息を漏らした。誰かが、意図的に動いている作為のようなものを感じたからだ。


 その推測が合っているかどうかはどうでもよかった。少なくとも、自分好みの静かな工夫がそこにあることが心地よい。


 ひとつ、取り上げる。

 しっかりとした重量感。ナイフで端を切ると、断面に細かな気泡がぎっしりと並んでいた。

 空気と、バターと、砂糖と、粉――その均衡が綺麗だ。


 口に運ぶ。


 最初に来るのは、バターの香りだ。

 次に蜂蜜。

 噛むと、舌の上でほどけるように崩れ、最後に馴染み深いフェルナナッツの香ばしい余韻と、タイムの清澄な香りが鼻に抜ける。


 甘さは強すぎない。

 だが、記憶に残る。どこか懐かしい、味。


(……これは茶席ではなく、歴史に残したくなる味だな)


 軽々しく続ける言葉ではない、と自覚しながらそれでもフェルナ伯爵はそう思った。


 西の街は、砂糖で興り、砂糖で痛手を負った。

 その街の伯爵家が復興の折に、最初に正式な献上菓子として迎え入れるものが――砂糖とナッツと蜂蜜の、温かな焼き菓子だというのは、なんという巡り合わせだろう。


「……クアトル=カルム、か」


 同封された書き物に、その名があった。

 古い言葉で「四つの均衡」を意味するのだという。

 砂糖、バター、卵、粉。四つが等しく、支えあう。


 それはどこか、伯爵にはこの州そのものの在り方に似ていると感じられた。


 砂糖を作る畑。

 それを運ぶ港。

 それを管理する役人。

 それを買い付けに来る商人。


 どれかひとつが崩れれば、州は成り立たない。

 結界の綻びは、そのバランスを一度壊した。

 だが今、こうして少しずつ元に戻りつつある。


 クアトル=カルム。

 四つの均衡。


(名付けた者はなかなか良いセンスをしている)


 伯爵の口元に微かな笑みが浮かんだ。


 机の隅には大神殿からの正式な通知文も並んでいる。

 「育生支援循環計画」と名付けられた小さなプロジェクトの報告。聖庇舎の子どもたちの労務時間が過剰にならぬよう配慮されている旨。薬草封と香守り袋によって、神殿内の保管コストが削減されつつあること。そして――そこから捻り出された余剰の一部が、西方沿岸部への支援に回っていること。


 伯爵は紙の上に指を置いた。

 紙越しに、やはり見えない糸が繋がっている気がする。


 名も知らぬ誰かが、遠く王都の厨房で、生地を混ぜ、子どもたちと紙を漉き、商人とやり取りをしている。

 その結果の一端がこうして自分の口に届いている。


 机の向こうでは、秘書官が控えめに咳払いをした。



「……伯爵様。復興祭の件で王都より使者が」


「ああ、分かっている」


 伯爵はクアトル=カルムが並ぶ箱の蓋をそっと閉じた。

 まだ、家族にも食べさせていない。

 特に甘いものに目がない末娘には最初のひと切れを渡してやりたいと思っている。


(あの子がこの白いリボンを見て何と言うか……それも少し楽しみだな)


 伯爵は立ち上がり、窓の外をもう一度見た。

 以前よりもほんの少しだけ海霧の色が薄く見えた。


 復興は、まだ途中だ。

 人々の心も休まらない。


 だが――。


「……よし。これをフェルナ家の正式なお茶菓子として登録しよう」


 小さくそう呟き、書記に向き直る。


「名は、クアトル=カルム。

 備考にブレッシェルの姉菓子と記しておけ」


 書記が目を瞬かせ、それから小さく笑った。


 ブレッシェル。

 祝福の貝殻。


 それを西の街にもたらした名も知らぬ焼き手とその背後で動いた者たちへ。


 フェルナ伯爵は心の中で静かに礼を述べた。


(いつか、会えると良いのだがな)



 そう思いながら、彼は公務の顔に戻り、執務室の扉へ向かって歩き出した。


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