閑話休題 リアンセル論文抄録
大神殿の大講堂はいつもよりざわついていた。
講壇の上には何も置かれていない。
長机も実験器具も薬瓶もない。
あるのは大きな黒板と整然と並ぶ席だけ。
それでも席はいつになく埋まっていた。
理術院の神官たちが列を成し、普段はあまり管轄外の講義には参列しない文祀院や幽祀庫の刺繍もちらほら見えた。
育生院、清儀院、慈癒院はもちろん、遠方から呼び出された分院付きの神官まで混じっているのがエルモアの目にも分かった。
自分も招集を呼びかけたひとりなのだが、その光景は普段の様子と比べるとかなり異様だった。
今日は壇上ではなく、育生院助祭として講堂の後方から静かに様子を見守る。
(神官長の講義なんて何年ぶりだろうか)
隣で小声が聞こえた。
「リアンセル様が自ら演壇に立つなんて前回はいつでしたか」
「十年前とかでは?」
「いや、あれは共同発表だから純粋な単独講義はそれこそ就任時以来では、」
ひそひそと交わされる声は半分期待、半分不安を含んでいる。
育生院神官長リアンセル。
魔法学、素材学、魔素理論の分野で名実ともに「現代最高峰」と呼ばれる人物。
だが、日々間近でリアンセル仕えるエルモアの目には普段は何を考えているのか掴めない、抽象的な人という印象の方が強い。
子どもたちの見舞いにふらりと現れては意味の分からない比喩を残していく。
調合室にこもったかと思えば三日ほど戻ってこず、戻ってきたと思えば「少し水の味見を」とかなんとか言って、浄滴を延々と舌で比べ続ける。
天才は大抵そういうものだと、エルモアは理解しているつもりだった。
ただ今日は、空気が違う。
大講堂の扉が閉じられ、ざわめきが静まったそのとき。音もなく、彼は立っていた。
白とも透明とも言える衣。金糸の髪はいつも通り、光を吸い込んでは溶かすように垂れている。
灰青の瞳が、静かに壇上から聴衆を見渡した。
「本日はご多忙の中、足を運んでくださりありがとうございます」
よく通るのに淡々としている声。
丁寧でも高圧的でもない、中庸の調子。
「『粉霊抱合法を応用した新型ハイポーション製造法』の試験結果について、簡潔に報告いたします。詳細に致しましては今から配る書類に表記しております」
黒板に白い線が走った。
旧来のハイポーションの図式。
魔素濃度の曲線。
層の分離。
加熱と冷却のタイミング。
エルモアは何年も前から見慣れた図を確認しながら、その横に描かれていく新しい線に目を細める。
(ここまでは従来通り……いや、違う)
リアンセルは、さらりと言った。
「従来の製法では材料の配合比を変化させることで効能の変化を試みてきました。しかし今回の研究では、材料はそのまま工程順序のみを変更しています」
ざわ、と空気が揺れた。
「順序……?」
「配合比じゃなく?」
「それで安定するのか?」
理術院席から小さな声がこぼれる。
リアンセルは特に反応せず、淡々と線を重ねていく。
「先に魔素を“抱え込む媒質”を形成し、その後に薬液成分を段階的に折り込む。粉霊――粉に宿らせた微量の魔素を、あらかじめ油脂成分と結合させておくことで、後から加える水性薬液の衝突を和らげることが可能になります」
黒板に描かれたのは、層の境界線がなめらかに変化していく曲線だった。
階段状に分かれていた濃度分布が、一つの緩やかな山に近づいていく。
「結果として、魔素の暴発が抑えられ、従来比一・四倍の効力と、一・八倍の保存安定性を確認しました」
その数値が出た瞬間、エルモアの周りで息を飲む音がいくつも重なった。
「一・四倍!?」
「そんな馬鹿な、配合をいじらないということは材料も変わらず、?」
「保存安定性が倍近いとなると、遠征隊の荷がどれだけ軽くなるか」
武務庁や慈癒院など遠征派遣の多い神官たちの視線が一斉に黒板へ集中する。
リアンセルは、淡々と続けた。
「理屈は単純です。材料が同じでも順序が変われば別のものが生まれる」
それは、なんとなくどこかで聞き覚えのある言葉だった。
エルモアは思わず指先を止める。
筆記の手が止まった。
(……どこかで……)
厨房の片隅。
聖庇舎の臨時調理室。
甘い匂いと、粉塵と、子どもたちの笑い声の中で。
あの小さな神殿侍従がやけに楽しそうに語っていた。
『同じ材料でも、作り方で全然変わっちゃうんですよ!』
真剣な顔で、バターと砂糖を泡立てながら。
粉を抱かせるだの、空気を含ませるだの、乳化だの、放っておいたら明後日まで話し続けそうなその熱量。
正直、当時は聞き流していた言葉の断片が、今、黒板の上で魔法理論として形を取っている。
(いや、まさか)
エルモアはすぐにその連想を自分で否定した。
論文に載る研究は、何年も、何十年も下準備を経て発表されるものだ。
最近ふらりと現れた一人の少女の言葉ひとつで軌道修正されるようなものではない――はずだ。
はず、なのだが。
リアンセルは、黒板にもう一本、滑らかな線を加えた。
「粉霊抱合法は、従来の“分離を嫌う”魔素の性質を、“抱き込ませる”ことで折り合いをつける製法です。この技法を応用することで、今後は高濃度ポーションだけでなく、栄養補助薬、浄滴の長距離輸送、さらには魔圧の高い土地での救護活動にも、一定の成果が見込まれるでしょう」
エルモアの胸が、静かにざわついた。
栄養補助薬――それは、まさに育生院がずっと抱えている問題だ。
痩せた子どもたち。
療養が長引き、普通の食事だけでは追いつかない体。
今は高価な素材で作る微々たるポーションを薄めて飲ませることもあるが、それで間に合うようなことではなかった。
しかし、もし、安定性の高い補助薬が作れるなら。
(……聖庇舎の子どもたちにだって、手が届く)
そんな未来図が一瞬だけ頭をよぎった。
講義は淡々と進んでいく。
試験データ。
使用した実験個体数。
魔素濃度の推移。
副作用の有無。
日頃から抽象的な表現が多い上司の様子とは裏腹にその講義は思った以上に分かりやすい説明で成り立っていた。
専門用語は最小限。
図と数値で誰が見ても同じ結論に辿り着くように構成されている。
それでも、最後に付け加えられた一文だけは彼らしいと言えば彼らしい、どこか抽象的な響きを帯びていた。
「――錬金術とは、本来、“既にあるもの”の別の在り方を見出す術です。材料を増やすことだけが進歩ではありません。順序を変えることで世界の形が変わる。それを今回の研究で確認できたかと思います」
静寂。
次いで控えめな拍手。
やがてそれは、波紋のように広がっていった。
エルモアは手を叩きながら、周囲の小声に耳を澄ませる。
「さすがリアンセル様だ……」
「また一つ、常識がひっくり返されたな」
「粉を媒介に魔素を抱かせる発想自体が異常だ。誰がそんなところに着目する」
「あの方だから、で片付けるしかないだろう」
「神官長は日頃は何を考えておられるのやら……」
感嘆と、呆れと、遠い尊敬。
それらを混ぜ合わせたような声。
育生院に戻る道すがら、エルモアは無意識のうちに自分のメモを見返していた。
粉霊抱合法。
順序の切り替え。
媒質の役割。
そこに、別の文字列が重なる。
薬草封。
香守り袋。
ブレッシェル。
クアトル=カルム。
聖庇舎の小さな厨房であの子が嬉しそうに説明していたあれこれ。
どれも「材料は同じだけれど、工程を工夫して別の価値に変える」ことばかりだ。
(……いや、本当に、まさか)
エルモアは、苦笑を胸の内だけに留めた。
繋げて考えるのは少しミーハーすぎる気がする。
天才神官長と、小さな神殿侍従。
あまりにも釣り合わない。
だが――
その日の夕刻、育生院の中庭で。
聖庇舎の子どもたちが、せっせと紙を干している光景が目に入った。
薬草封だ。
浄滴を含ませた淡い色の植物紙が風に揺れている。
奥では、香守り袋に詰める薬草を仕分けている小さな背中がいくつも屈みこんでいる。
風が、かすかに甘い匂いを運んできた。
蜂蜜と、バターと、柑橘に似た何かの香り。
エルモアは、ふっと目を細める。
(順序を変えれば、世界の形が変わる、か)
錬金術の講義で聞いたはずの言葉が
なぜか、子どもたちの笑い声と重なった。
そのとき彼はまだ知らない。
今日大講堂で発表された論文が、
のちに「第三期ポーション革命」と教本に記載されることも。
そして、そのきっかけの一片が聖庇舎の厨房で、お菓子の生地をこねながら、楽しそうに喋っていた一人の少女のうわごとの中にあったことも
エルモアはただ、育生院助祭としての務めに戻るだけだった。
新しい製法で、あの実験が進むかもしれない。
栄養補助薬の試作。
浄滴の長距離保存。
子どもたちの未来に繋がる可能性。
それらを静かに頭の片隅で並べながら。
今日、世界は少しだけ変わったのだと
彼だけがささやかに気づいていた。
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