episode46 帰省の旨
その日の午後、書類の束を抱えて理術院の廊下を戻っていると、背中に涼しい声が落ちてきた。
「ミュリア、少し時間を取れますか」
振り返ると、いつもの端正な顔のラシェルが立っていた。
けれど、どこか視線の置き場が定まっていない。手に持った帳面をわずかに持ち替えたり、襟元を直したり、妙に落ち着きがない。
(あれ? なんかいつもと違う)
胸の奥がきゅっとなる。
怒られるようなことしたっけ。いや、待って、心当たりが多すぎて、逆に分からない。
「はい、大丈夫です。……あの、何か不備でも?」
「いえ。話は薬液庫で」
それだけ告げて早足に歩き出したラシェルの後ろをミュリアは小走りでついていった。
◇ ◇ ◇
薬液庫は、いつもの冷えた空気と薬草と薬液の匂いに満ちていた。
扉が閉まる微かな音がして、外のざわめきがすっと遠のく。
ラシェルは棚と棚のあいだに視線を逃がし、ひとつ息を吐いてから口を開いた。
「まずは……西方支援の件について、改めて」
「西の街のですか?」
「ええ。ブレッシェルのことも含めてです」
きちんと整えられた言葉。
だがその声には、いつもよりわずかに柔らかい色が混じっていた。
「今回の復興支援は、聖庇舎と育生院、どちらからも高く評価されています。遠征に出ていたうちの術士たちからも、現地で大変喜ばれていたと報告がありました。ありがとう」
最後の一言だけ、少しだけ視線を外したまま。
「い、いえっ、こちらこそです!そんな、私、ただ出来ることをしただけで……」
胸がじんわり熱くなる。
支援の報告書は提出していたし、セオドールからもらった手紙にも感謝の言葉は深く書き込まれていたが、上司から直接評価され、聞かされるとは思っていなかった。ましてや、
それでも、ラシェルはまだ何か言いたげに口を噤んでいる。
薬瓶のラベルに視線を這わせては、また戻し、結局ミュリアの肩のあたりで止める。
(……なんだろう。まだある)
沈黙がひとつ。
やがて、ラシェルが小さく息を吸い込んだ。
「……ええい、ままよ」
ぼそりとこぼしてから、きっぱりと言い直す。
「報告書だけでは、実感が湧きませんのでね。
その……ブレッシェルとやらの“実物”を、私にも一度、確かめさせてもらえますか」
最後の方はわずかに早口で、耳が、ほんの少し赤い。
(……あっ)
そこでようやくミュリアは思い出した。
以前、灯ひ溜まりの缶の飴を渡したときの、あの一瞬の表情。
身に覚えのあるものを目にした安堵感。
セオドールの言っていた「こっそりもっているやつ」とは。
(ラシェル様は低血糖なだけでなく、そもそも甘党なんだ)
胸の奥で何かがぽんっと弾けた。
「もちろんです、すみません提出してしていなくて!次の休みの日には焼いてきます!」
「い、いえ、必須事項ではないので、…まあ、その、お願いします」
きっちりとした言い方のわりに、視線は相変わらず少し横を向いている。
ツンとしているのに、どこかかわいくて、思わず頬がゆるみそうになる。
ていうか今だ、!今がチャンスだ。
ミュリアの中で、別の「ええい、ままよ」が跳ねた。
「あのっ、ついでと言っては何なんですが……ご相談が、ひとつありまして!」
「……はい?」
ラシェルがきょとんと目を瞬かせる。
「夏季休暇の申請なんですけど! その、村に帰省したくて、ご相談してもよろしいでしょうかっ」
一気にまくし立てた。
ラシェルは一瞬だけぽかんとし、それから少し肩の力を抜いた。
「そのことですか。もっと重大な報告かと思いましたよ」
「じ、重大なんですが……!」
「分かっています。冗談です」
ふ、と口元だけで笑ったあと、いつもの調子に戻る。
「夏季休暇の取得は問題ありません。時期と日程が決まりましたら、二週間前までに提出してください。帰省の際には保護者の方にも、どうぞよろしくお伝えを。…とてもよく働いてくださっています、と」
最後の一文は、ほんの少し目をそらして付け足された。
「……っ、はい!」
胸がいっぱいになる。
「ああ、それから。休暇についてはもとよりこちらからお願いしようとしてたのです、」
ラシェルは手に持っていた書類の中から一通の封筒を取り出した。重みのある封蝋には理術院神官長の紋章。
「神官長から、イレリウス様宛の書簡を預かっています。帰省の折にお渡しいただきたい。それに対するお返事も、こちらに戻る際に持ち帰っていただけると助かります。ですから少し長めに休暇を取っても構いませんよ」
言い終える頃には、ミュリアの頭の中で祝祭の鐘が鳴っていた。
(やった……! ちゃんと帰れる! お母さんにも、神父さまにも、アニーにも会える……!)
「ありがとうございます! 日程が決まり次第、すぐに申請に参ります!ブレッシェルも準備が出来次第お持ちしますね!ほかに何かありましたら、いつでも仰ってください!ではお先に失礼します!」
一気に頭を下げ、薬瓶一つも揺らさない身のこなしで、しゅばっと扉へ向かう。
ぱたん、と扉が閉まった後。
静かな薬液庫に、遅れて小さな笑い声が落ちた。
「……本当に、嵐のような子だ」
ラシェルは、ふっと目を細める。
重たい書類の束を抱え直しながらも、その口元には、さっきまでよりも柔らかな線が浮かんでいた。
◇ ◇ ◇
休憩時間の合間を縫って、ミュリアは机に向かった。薄茶色の便箋を広げ、インク壺の蓋をそっと開ける。
(まずはセオさんに帰省のことを相談しないと)
ペン先を軽く整え、さらさらと筆を走らせる。
――
セオさんへ
ご無沙汰しています。
以前お話していたフェルナ伯爵家への献上菓子の件で、無事試作が終わりましたのでご報告いたします。
それとは別に、夏季休暇に合わせて村へ帰省する許可をいただきました。
もしよろしければ次の行商のタイミングでご一緒させていただけないでしょうか。
帰りの日程はまだ決まっていませんが、手紙でも大丈夫ですので、一度ご相談させてください。
ミュリア
――
封をして、理術院の発送箱にそっと差し込む。
数日後、返事は驚くほど早く戻ってきた。
封を切る指先に、自然と力が入る。
――
ミュリアちゃんへ
休暇がもらえてよかったね。もちろん、行きの馬車ならいつでも乗せていくよ。
ただ、今回は西回りの行商が長くてね。
帰りの便はかなり先になりそうなんだ。
だから一緒に行って、一緒に帰るは難しい。
それでもよければ、行きだけでもどうかな?
村の皆にも顔を見せてあげてほしいしね。
帰りの足は神殿経由で馬車を頼むなり、村の誰かに送ってもらうなり、なんとでもなるとは思う。
無理はしないこと。
返事を待っているよ。
セオドール
――
「……そりゃ、そうだよねえ」
手紙を持ったまま、机に突っ伏す。
(行きだけでも一緒に行けるなら十分ありがたいんだけど……帰りを自分でなんとか、か。うーん、どうしよう)
頭の中で、村の地図と馬車の路線がぐるぐると回る。それでも、胸の奥では、じんわりとした喜びの火が灯ったままだった。
(でも――帰れる。ちゃんと、帰れる)
そう思った瞬間、目の奥が少し熱くなった。
ミュリアは慌てて顔を上げ、深呼吸をひとつして、インク壺の蓋を閉めた。
その手つきは、いつもより少しだけ、軽かった。




