閑話休題 先生の置き土産
理術院神官長執務室。
壁一面を覆う古い魔術書の背表紙は長い年月で褪せ、空気には香の名残がほのかに漂う。
昼でも薄暗いその部屋に、ぽつり――と墨を落としたような沈黙が落ちた。
──「教育訓練報告書」の山の中に不意に紛れ込んでいたそれを手にした瞬間、指先に走る違和感でエルミオールは一度書類の束を置いた。
「……ラシェル」
横に控えていた侍祭がぴくりと肩を揺らす。
彼の癖はよく知っている。緊張が走ると言葉を選ぶ間に必ず睫毛が一度だけゆっくりと伏せられる。
「はい。提出者は……、ミュリア・ルヴェールです」
名を呼んだ瞬間、胸の奥にわずかに渋みが走った。
(……先生の、置き土産か)
添付された紙束は明らかに神官の書式ではない。
文字の癖、行間の取り方、金額試算の論理。
来たばかりの神殿生の常識の外にある。
軽く流し読みしたつもりが、気づけば物珍しさにページ枚数分きっちり目を通してしまっていた。
目の前の書類は素人が一晩で作るにはあまりにも整っていた。粗利計算、コスト削減案、負担率調整、KPI指標、循環計画……。しかも神殿の保管コストの構造まで理解し、改善策に落とし込んでいる。
(普通ここまで見えない。神殿ひとつ運営するのがどれだけ複雑か、子どもに分かるはずかない)
肩の力が抜け、机に書類を置いた。
「……先生が拾ってきたのは、神殿生ではなく商人の子なのか?」
つい口に出た独白に、ラシェルが苦笑した。
「いえ、彼女は村の薬師の娘ですが、確かに提出物は何というか、そう、売れる書類ですね」
売れる。
ラシェルがそんな言葉を使うとは。
だが、言い得て妙だった。
もう一度、と書類をめくる指先にエルミオールの表情がわずかに変わる。
損益計算の前提条件の置き方が異様に洗練されている。素人にありがちな情緒的な理想論だけを詰め込んだ気配は一切ない。数字で語り、効果で区切り、目的を三つに絞り込んでいる。
それに付随する、深く切実な気持ち。
(……聖庇舎の財政改善、薬草廃棄コスト削減、子どもの自立支援)
神殿内部の歪みと育生院の構造的問題を外から来たばかりの少女が直感で見抜いている。
それがむしろ、すえ恐ろしい。
本来、こうした視点は神殿で10年以上勤める神官でも持たない。彼らは担当外の管轄には関心を示さないし、示さなくていい仕組みになっている。
だが彼女は——
まるで全体図を俯瞰しているようだった。
(……いや、違うな。俯瞰しているのではない。見える世界が違うのか)
それならもっと厄介だ。
⸻
「それでラシェル、この書類はどこまで通している?」
「一次審査は私のところで止めています。子どもの労働扱い、取扱品の品質維持試験、あと派閥への影響を考慮して、聖庇舎管轄であるリアンセル神官長にもまだ出していません」
ラシェルの判断はいつもきっちりと正しい。
優秀で派閥間の空気も読める。
エルミオールは書類を閉じ、静かに息を吐いた。
「……これを表に出したら保守派は騒ぐだろうな」
「はい。聖庇舎が自立収入を持つことそのものが彼らにとっては脅威ですからね」
「王家もいい顔はしないだろう」
彼らは神殿が富を持ちすぎることを嫌う。
富は権力に直結するからだ。
エルミオール自身も保守派から常に警戒されている。
貴族出身でもなく、イレリウスの弟子であるというだけで。
(……神殿の外から来た人間を彼らは決して完全には信用しない)
ミュリアがどう扱われるかは、推して知るべしだ。
「それでも通しますか?」
ラシェルの問いは穏やかだった。
エルミオールは書類を指先で軽く叩いた。
その癖はイレリウスからの唯一の、遺伝だった。
「……この計画が成功すれば聖庇舎の子たちの未来は確実に変わる」
「はい。子どもの自立性の向上は調和派が最も重視する理念です」
調和派。
イレリウスが生涯貫いた派閥。
そして——師の遺志を継ぐ者として、エルミオールが背負う旗。
「私は……必要なものは通す。それだけだ」
言った瞬間、ラシェルの目に微かな安堵が浮かんだ。
「承知しました。神官長へは私の方から段階的に示します」
「頼む」
書類を再び広げる。
ページ端に小さな文字で書かれた文言が、ふと目に留まった。
私はいくら失敗しても、絶対に諦めません
彼女の気持ちが込められているかのように、
震えてはいないが、刻むように書かれている。
(……本当に、商人の子の文章だな)
いや——それ以上だ。
生きるために足掻き、土地に根を張る労働者の文字だ。
神官の文字ではない。
貴族の文字でもない。
だが——
(……こういう子を、先生は気に入るのだ)
そして、こういう子は神殿にとって得難い原石にもなる。
ただし
扱いを間違えれば一瞬で粉々になる危険な原石でもあった。
「……まったく。先生はまた、良からぬ置き土産を残していかれた」
ラシェルが苦笑して一つため息をつく。
「対応が大変になりますね」
「ああ、…頭が痛い」
しかしその声音の底にはほんのわずかに期待にも似た温度があった。
紙束を整えながら、彼はひとりごちる。
「……歳を取ったものだな。
こんな子一人の桃源郷にも等しい計画書に胸を打たれるとは」
「…」
ラシェルはまだそんなことを言うような歳でもないだろうに、と思ったが昔から妙にじじ臭いところがある上司に何も言えず、ただ無言を貫いた。
2人の視線は揃って窓の外へ向いていた。
風に揺れる白い帷、遠くで高く響く祈祷鈴の音。
日常が日常であることを神に祈った。




