閑話休題 均衡を崩す者
沈んだ聖域に満ちる、古い石の匂い。
昼下がりの理術院。
廊下の空気はいつもと変わらぬようでいて、どこかざわつきがあった。
書簡の束を抱えて走る侍祭の足音、階段を昇る革靴の硬い響き。
そのすべてが、ほんの少しだけ、浮ついて聞こえる。
まるで――水底の泥がゆっくりと巻き上がっているような、
そんな落ち着かない気配。
侍祭らしき若者が行き交い、紙束を抱え、誰彼と挨拶を交わす、その中に――例の少女の姿があった。
ミュリア・ルヴェール
名もなき田舎娘が、師匠とやらの推薦状一枚で大神殿の門を潜った。
しかもその“推薦者”が、あの イレリウス と聞けば、嫌でも眉が動くというものだ。
(やれやれ……また、厄介な置き土産を)
イレリウス――かつて調和派の筆頭と呼ばれた男。
神殿の結界術を一新し、魔素理論を塗り替え、一歩間違えば“王権の根本”すら揺らがせかねなかった。
だからこそ王家は彼を煙たがり、
神殿は彼の手腕を持て余し、
そして彼自身もそれを悟ったのだろう。
「村へ帰りたい」
あれは隠遁ではなく、半ば追放に近い。
その男が――隠し子のような少女を寄越してきた。
(表向きは弟子でも、実質は火種だ)
混乱の芽。
争いの種。
改革派に再び火をつける、あの男の延長線上にあるもの。
最近は子供らを相手に紙だの香り袋だのと作っては騒がせ、
保守派の古株から苦言が相次いでいる。
彼女本人に悪気がないことなど、分かりきっている。
だが――
“無垢ほど厄介なものはない”
それは神殿政治の理であり、王家の理でもある。
ふと、廊下の先に クラリサ の姿が見えた。
清儀院の若き神官。伯爵家の長女。
第二皇妃の姪であり、将来有望な政略の駒。
だが、その顔色が優れない。
婚約破棄の噂は、すでに保守派の耳にも入っている。
王家側の若き有力者――
神殿を“危険”と見なす一派の男。
あれと繋がっていたことこそ問題だった。
(伯爵家の長女が、神殿に残りたがるとは……)
彼女は優秀で、清廉で、神に仕える姿勢に嘘はない。
しかし、貴族としては融通が効かない。
ミュリアのように無意識に結界を乱す子供も厄介だが、
クラリサのように石のように真っ直ぐなのもまた、厄介だ。
ああ、頭が痛い。
大神殿は広いようで狭い。
天蓋の下で渦巻く派閥は三つ――
保守、穏健、調和。
その微妙な均衡のうえに、
彼らは立っている。
そこへ来てこの二人の娘。
片や、イレリウスの置き土産。
片や、王家に引き戻されるべき伯爵令嬢。
(なぜ、よりによって同じ時期に現れる……)
少女たちは知らない。
自分たちがどれだけの力を揺らしうるのかということを。
ミュリアが軽い足取りで聖庇舎へ向かっていく後ろ姿を見る。
ただ子どもたちを助けたくて、
ただ思いついたことを正しいと思って進んでいく。
それは尊い。
しかし同時に――危うい。
(イレリウスよ……お前はどこまで見通していた)
かつて敵対したわけではない。
だが、彼が動くたびに、
神殿の均衡は必ず揺れた。
そして今。
また揺れている。
あやつの影はもう遠くにあるのに、
残した影響は今もなお、去っていない。
少女の足音が遠ざかる。
廊下に静寂が戻る。
神官はゆっくり息を吐き、
深く、深く、目を伏せた。
「……歳を取ったものだな。」
小さく呟かれたその言葉は、
祈りの気配に紛れて、誰の耳にも届かなかった。




