episode40 神殿内ゴシップ
朝祈祷の光が清儀院の白い大理石を薄桃色に染めていく。
ミュリアは列の端に立ち、静かに息を整えていた。
祈りの声が重なる中、ふと前列にいるクラリサの背中を見て眉を寄せた。
(……あれ? なんだか元気がないような気がする)
前に立つクラリサは背筋は伸びているけれど、
肩の力の入り方がいつもと違う。
祈祷の合間、顔を伏せた瞬間に淡い影が落ちた。
気のせいかもしれない。
でも、ミュリアはこういう何となくそうなんだろうなと言う第六感がよく働く方だ。
祈祷後、ミュリアはその日の配属である清儀院の補助につく。
水盤の縁を磨いたあと、聖布の交換の準備をしていたらちょうどクラリサが確認のためそこに立ち寄っていた。
「クラリサ様、今日どこか具合が悪いですか……?」
クラリサは手を止め、ひと呼吸して──
すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「心配をかけるような顔をしていたかしら?ごめんなさいね、ミュリアさん。少し考え事をしていただけよ。大丈夫です」
頬に手を添え、ふっと苦笑した。
「……そんなに、表に出しているつもりはなかったのだけれどね」
(……やっぱり、何かあるんだ)
確信に近い違和感が胸に残ったが、クラリサはそれ以上語らなかった。
***
その後、理術院に行く途中でフィオレンティアとすれ違ったミュリアは思い切って声をかけた。
「ねえ、今日のクラリサ様、元気ないような気がしない?」
フィオレンティアは首をかしげる。
「そうかしら? いつも通りに見えたけれど」
「……そっか、気のせいかなあ」
そこまで言ってから、フィオレンティアが小声で思い出したように言った。
「そういえば──この前言っていた気になる噂だけど、あれ、クラリサ様の……」
クラリサの名を出した瞬間、
フィオレンティアはきゅっと声を顰めて、二人の距離をぐっと縮めた。
小声で囁く。
「……婚約者がいたというのは本当らしいの。でもね、話題になっていたのはそこじゃなくて、
婚約“者がいた”という事実自体は貴族なら普通なのよ。私だって──」「え!? フィオレンティア婚約者いたの!?」
「声が大きいっ…!」
思わず跳ねたミュリアの声に、フィオレンティアが慌てて口を塞ぎ、周囲の神官たちへぺこぺこ謝り倒す。
「申し訳ありませんわ、すみません……! ミュリア、ほんとにやめて……!」
「ご、ごめん……!」
フィオレンティアはため息をつきながら、小声で続ける。
「……今どき政略結婚なんて高位貴族くらいしかやらないのよ。時代遅れですもの」
(へえ……そうなんだ)
ミュリアは余計な口を挟まないよう黙った。
フィオレンティアは視線を落とし、さらに声を潜めた。
「──それでね。クラリサ様が“婚約者ができた”んじゃなくて……
“婚約破棄された”らしいの」「えッッ!?!?」
「シッ!!!」
フィオレンティアが再びミュリアの口を塞ぐ。
その時だった。
「そこ。神聖な回廊で何をはしゃいでいる」
低く落ち着いた声が背後から降ってきた。
2人は飛び上がり、反射的に横に避けて深々と頭を下げる。
「す、すみません……!」
恐る恐る顔をあげると──
「あ、シリル様……」
シリルは呆れたように眉を下げ、でも口元は笑っていた。
「ははっ。仲良くするのはいいけど、場所選ぼ?ここ、声響くからね〜?」
「す、すみません〜〜……」
フィオレンティアはまた周囲にペコペコ謝り、
ミュリアはもう穴があったら入りたい気分だった。
シリルが軽く手を振って業務に戻るよう促す。
フィオレンティアと別れ、ミュリアはシリルと巡回に戻ったが──
(え……どういうこと……!?
クラリサ様が……婚約破棄……!?)
そわそわそわそわ。
頭の中で気になりすぎて、
祈祷の花の並べ方を逆に置きかけてシリルに腕をつかまれた。
「おっと。ミュリア? 今日は落ち着きないね〜」
「あ、あっ、すみません……!」
(うぅ……仕事どころじゃない……気になる……)
心ここにあらずのミュリアだった。
シリルにたしなめられ、なんとか気持ちを切り替えようと、気分転換を兼ねて溜まっていた他部署に回す書類を奪うように「提出して参ります…!」と執務室を後にした。
ミュリアの頭はまだ半分クラリサの噂でいっぱいだった。
(クラリサ様、婚約破棄……?そんなこと現実にあるんだ、ファンタジー…)
考えながら回廊を進むと、背後でかすかな小声が耳に触れた。
「……ねえ聞いた?」「……家が許さなかったらしいわよ……」
祈祷の静寂を守るため、大神殿では声をひそめるのが常識。
ミュリアもこれまで「静かだなあ」としか思ってなかったけれど──
(……あれ?)
今日、やけに小声の雑談が多い。
みんな、祈祷中以外は無言というわけじゃない。
むしろ小声のまま会話することが当たり前の文化らしい。だからこそ、ここに来てからずっと聞き逃していたのだ。
耳を澄ませれば、あちこちから小声の噂話が細い糸みたいに流れてくる。
「……クラリサ様の縁談……」
「……伯爵家の……あの家系だし……」
「……ほら、あの若君……」
「……断られたらしいわよ……」
(あ……。みんな知ってる感じ?)
なんだか、胸がざわざわしてくる。
それに──こういう空気。
(これ、なんかデジャヴ……)
前世。
厨房の裏口で、ボウルを抱えて泡立てながら耳に入ってきた会話。
「本店シェフ、フランスと日本に奥さんいるらしい」
「え、じゃあ向こうの店によく来る息子さんって……?」
「ていうかマネージャーってあの有名ショコラティエの愛人だって噂──」
「え、昨日テレビ出てた芸能人と不倫してるって聞いたけど?」
「違う違うそれは、」
(……あー……そうだよね……うんうん……)
どんなに厳しい職場でも、
どれだけ清く正しい顔をしていても、
人間の興味ってだいたい同じ。
噂話、ドロドロ恋愛、誰かの失敗、誰かの秘密。
(娯楽が少ないと、余計にね)
大神殿は厳粛で品行方正──
そんなイメージは入ってきた当初はあったけれど、
実際は「声を抑えて話す文化」があるだけで、
中身は普通の人間たちの興味に満ちていた。
(そりゃ、気になるよね。他人事だし、刺激的だし、)
それが良い悪いじゃなくて、当たり前にある光景。ミュリアはだんだん状況が飲み込めてきて、むしろ妙に納得してしまった。
(……そうか。ここもこういう場所なんだ)
自分だけが気に病んでいたけれど、
みんな案外人間らしい生活をしているだけなのかもしれない。
が──同時に、耳に入る別の小声が刺さる。
「……例の新入り……」
「……様に贔屓されてるって…」
「……調和派のスパイって話みたいだけど…」
「……あまり調子に乗っていたらーー様に目をつけられるわよね……」
(……あ。私の話、?)
その瞬間、背中を冷たい指でなぞられたような感覚が走った。
噂は、人について回る。
どの世界でも。
ミュリアは深く息を吸い込んで、
胸の前で両手を握った。
(……よし。気にしない。気にしたら負け。みんな他人事だから、向こうも話題に出して面白がっているだけで気にしてないよ、きっと)




