episode36 フレンチトースト
朝が来る少し前──寝所はまだ夜の匂いをわずかに残している。
ミュリアは静かに身を起こし、儀式衣の襟を整えた。
鏡台に映る自分に問いかける。
神前に立つ姿でいられるか
ほんの数日で、身支度の点検はすっかり習慣になった。廊下で祈祷列に同行し、触れずに祈り、神具室で裏方仕事を教わり──
清儀院の一日は、思っていたよりずっと厳しくて、ずっと静かで、ずっと忙しい。
それでも空白の時間はある。
正午より少し前に食堂へ行けば、三十分ほどの余裕が生まれる。
夕刻の祈祷までの一時間も、自由に使ってよいとフィオレンティアに教わった。
夜祈祷後も、寝るまでに二時間はある。
その時間をどう使うか。それが今のミュリアの焦点だった。
肩がけのポシェットから、小さな布袋を取り出す。
指で重みを確かめると、心臓のあたりがぎゅっと縮んだ。財布の中身は、村を出る時よりずっと軽くなっている。
「……人のお金じゃなくて、自分のお金の心配もしなくちゃね」
ひとりごとのように呟いて、乾いた笑みが漏れた。
神殿で、否、生まれてこの方、前世を合わせても決して非難されるほどの贅沢をした覚えはない。
けれど──聖庇舎の子どもたちのために動いた数日で、思った以上に出費はかさんでいた。
本当に、自分のしたことは正しかったのだろうか。
胸の奥に、ひやりと澱が沈む。
祈祷を終え、清儀院での業務を済ませてから食堂に入ると、フィオレンティアがすぐ気づいて手招き、席に呼んでくれた。
「……ミュリアさん、少し元気がないようにみえます」
「そんなこと……」
ごまかしきれないと悟る前に、ソラーナが後ろから皿をどんと置いた。
「こら、無理すんなミュリ! 顔に書いてあるぞ〜。お前さん器用なんだか不器用なんだか」
ソラーナはわざと明るく笑い、耳元で小声に言う。
「ミュリアの作ってくれた菓子、村に送ったよ。あたしも食べた……ほんとに、ありがとな」
照れたように笑うソラーナを見てミュリアは瞬きした。
なぜだろう、胸の奥でなにかほどけていく。
フィオレンティアが、ぎこちなくも真剣な顔で身を寄せた。
「私もミュリアさんには、お礼を言いたいの。聖庇舎にはよくお手伝いを頼んでいる子がいるの。
ずっと何かしてあげたいと思っていたのに私は怖くて……動けなかった」
そこで言葉が震え、フィオレンティアは続けた。
「あなたは、迷いなく手を伸ばしたわ。その善行は必ず神様は見ていてくれるわ。……ありがとう」
その言葉が、胸に深く染みる。
フィオレンティアは貴族家の出身として、神殿内で余計な蟠りを生むようなことは決して出来ないのだろうこともあって、その心内を想像して、心臓がきゅっとなった。
ミュリアが自分勝手に突っ走ったのではないかという不安。
保守派の冷たい視線。
異端だと囁かれた耳の痛さ。
全部が溶けていく。
にじむ視界をごまかすように、ミュリアは小さく笑った。
「……ううん。わたし、ひとりじゃなかったんだね」
その日の仕事を終え、夜祈祷を見送り、寝所へ戻る。机の上に一通の手紙が置かれていた。
封蝋に見覚えがある。
イレリウス神父様がよく使っているものだ。
指先が震えた。
封を切くと、ふわりと乾いた薬草と薪の香りがした。
村の家に帰ったようで、鼻の奥がつんとし、
文字を見る前から涙が滲んだ。
その文面には溢れるような母の筆跡が並んでいた。
胸の奥がじんと熱くなる。
便箋には、ゆっくりと噛みしめるような筆致でこう綴られていた。
⸻
ミュリア
そなたは今、遠い空の下でどんな顔をしているのでしょうね。
働きすぎていませんか。また本ばかり読んで、ろくに眠っていないのではありませんか。
母は毎日考えています。
そなたがこの村を離れて、まだ日も浅いというのに、
家の中は急に広く、静かになりました。
でもここはあなたには狭すぎたのだろう、と
思う気持ちと寂しさが半分半分です。
ミナばあやの腰痛もすっかり良くなり、時々来て夕飯を置いていってくれます。
井戸端会の母さんたちも、わたしの畑を気にしてくれています。
だから、心配しなくていいわ。
あなたは胸を張って、あなたの選んだ道を歩きなさい。
ミュリア
あなたは誰かを救おうとばかりする子でしたが、
どうか、自分のことも守ってあげてください。
幸せを諦めることを、もう二度としないでほしい。
あなたのことを一番に思っています。
ミリア
⸻
あたたかさと、少しの痛みが同時に胸を押した。
「……お母さん」
声に出すと、急に涙がこぼれた。
指でそっと拭って、息を吸い、吐く。
困った時はさりげなく手伝ってくれていて、エスパーかなってぐらい私のことを私より分かっていて、
こんなにも想ってくれている。
ミュリアは胸元に手紙を当てたまま、静かに灯を落とした。
静かな暗闇の中でぽろりと涙が落ちた。
フィオレンティアやソラーナの言葉。
子どもたちの笑顔。
ここで出会った人たちの温かさ。
母からの手紙。
全部が、ひとつに結ばれて胸を満たす。
「うん……大丈夫。わたし、大丈夫だよ……」
ミュリアは手紙を胸に抱き、静かに涙を拭った。
明日はまた、朝が来る。
祈祷も仕事も、やるべきことは山ほどある。
それでも。
ミュリアはもう、“ひとりじゃない”。
その夜は、ひどく久しぶりに夢を見た。
――職人時代の、いちばん苦しかった頃の夢。
まだ何も分からなくて、何もできなくて、
何度も泣き続けていた頃。
“朝は時間通りに来るなんてもってのほかだ。
誰より先に来て、準備を整えておくのが当然だろうが”
“洗い物が残ってるだろう?
先輩にやらせるつもりか、お前は”
“泣いてる暇があったらお前もう帰れよ”
“お前が男なら殴ってる”
息を吸うのも痛かった日々。
でも、そんな中で唯一楽しかったのが――
朝のまかない作りだった。
仕事終わり、店の電気がひとつずつ落ちていく中、自分は小さなランプだけをつけて余った食材などが入った“まかない用食材ボックス”を漁る。
「……これ。これにしよう」
袋の中には、お客様には出せない固く乾いたパンの端切れ。
破片みたいな小さなやつ。
でも――
私にとっては宝物のように思えていた。
それを卵と牛乳と砂糖に一晩漬けて、
仕上げにほんの数滴のバニラを落とすと……
ふわふわ、とろとろ、香ばしくて、夢みたいなフレンチトーストになる。
初めて同期の口から「おいしい」の言葉を聞いたとき、
胸の奥がじんわり熱くなって、
なんだかよくわからないけど泣きそうになった。
⸻
ぱちり、と目が覚めた。
薄い天井の布が揺れている。
(夢……か)
心と体が、少しだけ前世に置いていかれたような気がした。
祈祷の時刻が迫っていることに気づき、
慌てて身支度を整えた。
いつも通りその日午前の仕事を終え、少し早い昼食を済ませると昨日フィオレンティアにお願いして作ってもらっていた時間になった。
「それで、どうしたのですか?」
金のゆるいカールが肩で揺れ、
心配そうにこちらを見る。
「実は神殿の中で困っていることとか、不便に思っていることを、調べたくて、」
「できればどんな小さなことでも知りたいの」
私が何をしようと思ったのか、フィオレンティアは分からなかっただろうけど、何も言わずにすぐに頷いてくれた。
「分かりました。一緒に探しましょう」
ふたりは回廊へ出る。風が大理石を転がるように早足で歩みを進めた。
「フィオレンティア、は神殿で困りごととか……不便とか、ある?」
フィオレンティアはさっきも聞いたばかりのその言葉に笑うが、すぐに考え込む。
「……そうね。例えば、文祀院の筆記具棚」
昨日まで自分が書き写し作業をしていた机の上でふと気がついた。愛用していた細筆が元から無かったかのように見当たらなくなった。
「お気に入りのペンが消えたのよ。三回探したのに」
「いつも使ってる小さなピンクの羽がついているやつだよね?」
「ええ、でもまあよくあることなの。共有棚だし、みんなで使うものだから。名前を書くのもはしたないって言われるし」
なんとなく胸がぎゅっとなる。
小さな不便って、放置されやすい。
「あとはー調合室の前、通ったことあるかしら?」
「うん。たまに……なんか、酸っぱい匂いするよね?」
「そうなの!あれね、換気口が詰まってるのよ。誰も直さないし口にもしないけど」
ふたりは顔を見合わせ、小さく笑った。
「それと……ここだけの話よ?」
フィオレンティアが声をひそめる。
「毎週懺悔室にいらっしゃるオルガ様。今日もいたわね?毎回毎回なにを懺悔なさるのかしらって思ったら……夫の悪口しかしないらしいわ」
「……うん?懺悔……?」
「そう、あれは愚痴よ。完全に。でもたいそうな額の寄付を毎回頂けるから無碍に出来ないらしいわ」
ミュリアは思わず噴き出し、慌てて口を押さえた。
どこのお母さんたちも井戸端会議を繰り広げているのは変わらないんだなあと小さく笑った。
「あとこれは私の個人的な悩みなの」
「うん?」
「肩が……ずーーーっと凝ってるの。祈祷姿勢のせいで」「分かる!!!!」
華奢な肩をぐるりと回して、心底困った顔をするフィオレンティア。
回廊に響くほど元気な声が出た。
ふたりは笑い転げ、肩をさすり合う。
笑いが落ち着いたころ、また歩き出した。
「他には?」
「そうね。…これは元も子もない話なのだけど、聖庇舎の子たちの服がすぐ擦り切れて悪くなっているわ」
「……そっか」
「仕方ないのよ。寄贈されたものはお古が多いし、よく動き回るし。子どもたちの数に頂ける数が追いつかなくて」
笑いのあとに来た静けさが、胸に落ちた。
「あとね、清儀院で噂されてるの」
フィオレンティアの声が少し低くなる。
「クラリサ様に婚約者がいるみたいらしいの」
「えっ、えっ!気になる……!」
「真実は分からないわ。だってあの方、次期副神官超候補と言われてるエリートで、仕事一筋の方だもの。…でも火のないところになんとやらっていうじゃない?」
その声音には遠い憧れではなく、慎重な敬意があった。
話を続けながら文祀院を抜けると、紙屑籠が目に入る。書き損じの羊皮紙、折れた羽根筆、染みのついた台紙。
「こんなに、捨てるんだね」
「記録は神殿の命脈だから。精度を落とせないの」
次に、清儀院の裏庭。
祈祷後の供花がまとめられ、乾きを待っていた。
――まだ、香るのに。
「儀式を終えた花は還すの。そう決まってるから」
「…役目って、誰が決めるんだろう」
ぽつりとこぼれた声に、フィオレンティアが横目を向ける。
「ミュリアって、ときどき核心を突くわね」
最後に理術院搬入口へ。
割れた木箱。端切れの紙。中途半端に溶けた蝋。
香草の乾いた茎。湿り気のある布の切れ端。
風に煽られ、まとめられた紙の端がひらひら舞う。
ミュリアは吸い込まれるように足を止めた。
「これ全部、廃棄?」
「ええ、再利用できるって話は昔からあるんだけど……」
「人手が足りないとか?」
「そういうこと」
風が吹き、紙と花と蝋の匂いが混ざった。
ミュリアの胸の奥で、何かが静かに沈殿し始める。
「ねえ、フィオレンティア」
「なあに?」
「もったいないって思うの、変かな」
「いいえ。とてもいいことよ」
その言葉は、火種みたいに軽いけれどあたたかかった。
自然と2人の間にあった蟠りと違和感がその火種ですっかり溶け切ってしまったようだった。
ミュリアの胸に、夢で見た光景が重なる。
――硬いパンの端切れも、
ちゃんと宝物になる。
――捨てられるはずのものが、
誰かの“おいしい”に変わる。
脳裏に、じゅわっと染みるような懐かしい匂いがよみがえって、近くに咲いていたミントの香りがその記憶をますます刺激した。
端切れのパンは、誰も振り向かない。
固くて、乾いていて、形も不揃いで――
まるで自分のことのようだと思った日もあった。
でも。
卵と牛乳と砂糖を混ぜて一晩漬けて、
じっくりバターで焼くと、
外は香ばしく、中はとろけて、
あの頃の自分の唯一の救いになった。
(捨てるだなんて、もったいない)
前世のミュリアが、そう呟く。
現在のミュリアの胸にも同じ言葉が落ちた。
「フィオレンティア」
「はい?」
「ありがとう」
そう言ったミュリアの顔は、
自分では気づいていないのに
驚くほど強い光を宿していた。
その光を見て、フィオレンティアが思わず笑う。
「……ミュリア。今、すごく楽しそうですわね」
「うん。なんだか、すごく」
一から作る必要なんてない。
捨てられるはずのものを救うことから始めればいい。
それが、ミュリアにできる最初の錬金術。
胸の奥で、前世と今世の願いが静かに重なった。




