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薬草村から世界へ:お母さん、私、錬金術師になります!  作者: 鹿ノ内


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episode33 新しい一歩



 聖庇舎から理術院へ戻る帰り道、ミュリアの手の中にはひとつの貝殻があった。あの女の子がお守りをひとつ分けてくれたのだ。

 育生院の神官が西の被災地から持ち帰ったという貝殻のその内側の虹のような光沢を、指でそっとなぞる。

 ――このかたちを誰かの笑顔に変えられたら。

 胸の奥で、静かな決意が灯った。


 その夜。

 人が減って厨房の片隅で片付けをしていたソラーナに、ミュリアは小さく声をかけた。


「ねえ、ソラーナ」

「ん、どうしたミュリ?」

「この貝殻、見たことある?」

 そう言って取り出したそれを、ソラーナは一目見るなり目を丸くした。 


「うわ、懐かしい! これ、西の浜で拾えるやつだよ。サイズも色もいろんなやつがあって、あたしもめちゃくちゃ拾ってた」

 ふっと笑う。その表情は、郷愁と少しの寂しさを混ぜたものだった。


「この前知り合いから手紙が来てたんだけどさ、今は海が荒れてて漁もできないって。代わりにこういう細工物を作って売ってるらしいよ。食うためにさ」


「……そうなんだ」

 ミュリアは貝を見つめ、ひと呼吸おいて言った。


「ねえ、もしお願いしたら、少しだけこのくらいのサイズの貝殻をいくつか送ってもらえるかな?試したいことがあるの」

「試したいこと?」

「うん。やっぱりお菓子を作ってみたいの」


 ソラーナの眉がぴくりと上がった。


「……お菓子? まさかこの貝で?」

「そう。形がちょうどいいの。熱にも強いみたいで丈夫だし、綺麗で……それにお守りになる心強いお菓子って素敵じゃない?」

 真っ直ぐな瞳にソラーナは苦笑を浮かべる。


「ほんとあんたって発想が変わってるよね。こんなあたしと仲良くしてくれるし。でもそういうとこ嫌いじゃないよ!よし、知り合いに伝えてみるよ。貝殻くらいなら、いくらでも送ってくれると思うさ」

「ありがとう!」


 ぱっと笑顔を見せるミュリアに、ソラーナは照れくさそうに鼻をかいた。


「でも、あんたも気をつけなよ。神殿でお菓子なんて、眉をひそめるやつもいるからさ」

「……うん、わかってる」 


 それでもやりたいと思った。

 心の底から。


 翌日、ミュリアは育生院の薬草庫でエルモアに声をかけた。


「エルモアさん、少しご相談があって」

「ん? どうしたの?」

「西の方の素材を使って、子どもたちとちょっとしたお菓子を作りたいんです。もちろん砂糖の使用量を抑えますし、片付けとか材料とかはこちらで用意します」

 エルモアは一瞬ぽかんとしたが、すぐに笑った。


「なるほどねぇ。食用実験ってわけか。……面白いじゃないか」

「いいんですか?」

「もちろん。ただし条件があるよ。材料の入手経路と調理環境を明記して、きっちり報告すること。あと清儀院の食材管理規定に触れないように。それから、試作品はちゃんと僕にも食べさせること」


 冗談めかした言い方に、ミュリアは思わず吹き出した。

「はい、約束します」



「それと――ラシェル様にも報告はしておいた方がいいね。他の人だとまずいと思うけど、あの人、甘いもの嫌いじゃないだろうし」

「…………そうなんですか?」


 ミュリアの脳裏に、一瞬、倒れかけた彼の姿がよぎった。

 エルモア様は一体何を知っているのだろうか。にこやかな笑みの裏になんだかぞわりとした。


 報告を終え、外へ出ると、春を通り過ぎた新緑を含む風が頬を撫でた。

 空は高く、遠く。

 その先に、海と砂糖畑のある西の空がある。

 ミュリアはすっかりお守りになった掌の中の貝殻を見つめた。

 変えるとは、ただ新しいものを生むことではない。

 誰かの失ったものを、別のかたちで取り戻すこと――その始まりが、静かに芽吹いていた。



 製作場所として選んだ聖庇舎の厨房には、長く使われていない一角のスペースを見つけた。

 手前にはよく使っている火元や保管庫があって、そのまた奥の扉を開くと、ほこりが光を含んで舞い上がる。錆びた鍋、煤けた炉、欠けた陶器の器。

 ここで誰かが料理をしていたのは、もうずっと昔のことらしい。


「ここで……作るの?」

 ミュリアの隣で、年長の少年が不安げに尋ねた。

「うん。少し手を入れれば、使えるようになるよ」

 ミュリアは袖をまくり、笑って答える。

 何もないということは、いくらでも作れるということだ。


 まずは掃除からだった。

 子どもたちはほうきを手に、わいわいと動き出す。

「ほこりが目に入った!」

「ここ、蜘蛛の巣ー!」

「きゃー!」

 悲鳴と笑い声が交互に響く。

 ミュリアは雑巾を絞り、炉の上を磨いた。煤を落とすたびに、鈍い鉄が顔を出す。


「見て、火口がまだ生きてる。風の通りも悪くない」

 声に反応して、少年たちが石炭を運び込んだ。


 そこの水場の桶は乾いていたが、配水管を繋ぎ直せばどうにか使える。

 ミュリアは薬草の保存に使う布を水通しし、手拭きとして架ける。

 油壺の底に残っていた澄んだ層をすくい、灯芯に火をつけた。

 小さな炎が、暗かった部屋に光を投げる。


 ――やっぱり、火の色ってあたたかい。


 火が灯ると、空気の匂いが変わった。

 埃の重さが消え、少しだけ希望の香りが混じる。


「ねえ、ここで本当にお菓子ができるの?」

 少女が不思議そうに尋ねた。

 ミュリアは頷く。


「うん、きっとできるよ。でもね、まずは場所を清めないと。清い場所で作ると食べる人の心まできれいになるから」


 子どもたちはその言葉を真剣に聞いていた。

 誰かがすすんで布巾を持ち、誰かが鍋の底を磨く。

 ミュリアは心の中で小さく祈った。

 ――壊れたものを、もう一度、使えるように。


 整えた炉に、試しに火を入れる。

 乾いた薪がぱちんと弾け、赤い芯が灯った。

 その瞬間、子どもたちが歓声を上げた。


「ついた! 火がついたよ!」

「すごい、壊れてなかった!」

 ミュリアは笑った。


「ふふ。言ったでしょ? 少しずつ直せばちゃんと動くんだよ」



 笑い声が満ちる中、扉の外から微かな囁きが聞こえた。

「……お菓子? 本気で言ってるのか」

「贅沢品を作る余裕なんて、どこにある」

 神官らしき声が遠くで交わる。

 それは咎める言葉だったのか、ただ信じられないという響きだったのか。

 ミュリアの手が一瞬だけ止まる。

 けれど、振り返らなかった。


 この手は、まだ誰かのために動ける。

 それなら――ためらう理由はない。


 掃除が終わるころには、厨房はすっかり息を吹き返していた。

 白布をかけたテーブル、整えられた器。

 壁際には、ソラーナが送ってくれた貝殻の箱が置かれている。


 ミュリアはその箱に手を置いた。

「これを使って作るんだよ」

 目を輝かせる子どもたちの中で、ミュリアはふと胸の奥が熱くなるのを感じた。

 前世でも、厨房を整える瞬間がいちばん好きだった。

 道具が並び、空気が整って、そこに作る気配が満ちるあの感じ。


 いま、その感覚が再びここにある。

 けれど、もう切羽詰まって終われる私はいない。

 自分のためだけに必死に作り続けていた私ではない。


 壁横の蝋燭の小灯りがゆらめき、白い光が部屋を照らした。

 ミュリアは深く息を吸い込む。

 甘い香りではなく、まだ焦げも混じらないはじまりの匂いだ。

 それはまるで、神が最初に世界を作った朝の空気のようだった。


「よーし!――これで準備完了。明日は、みんなでお菓子を作ろう」

 小さな拍手が起こる。

 その音の中に、確かに強く生きていこうとする力があった。

 


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