episode32 記憶を繋ぐお守り
太陽の光がゆるやかに傾き始めた頃、理術院の休憩所には、湯の香りと紙をめくる音が漂っていた。
シリルはいつものように机に片肘をついて、報告書の束を片手で扇のように揺らしている。
「西の方の砂糖工場はもう半分くらい稼働を始めたらしいよ〜」
気怠げな声。けれど、その言葉の奥には淡い安堵の色があった。
「育生院の人たちが畑の復興に派遣されてるから、そっちはなんとか回ってるみたいだけど……魚はね、結界の再構築で魔素が薄くなってぜんぶ沖に逃げちゃうんだってさ」
ミュリアは持っていたカップから顔を上げてシリルを見た。
「魔素が薄いと魚も……?」
「うん。水の魔圧が変わると、海の呼吸そのものが変わる。潮が鈍るんだ。だから、港も静まり返ってる。残ってるのは動かない貝ぐらいかな〜」
シリルは淡々と言いながら、窓の向こうの青空を眺めた。
「まあ、海のことは海の神官たちの領分で、ポサーレ様の思い召すままさ。俺たちは数字と線を合わせるほうが仕事だし」
口調は軽い。けれど、その軽さの下に、遠い土地への祈りのようなものが滲んでいる気がした。
シリルのその言葉にミュリアの胸がかすかに揺れた。
裏口の階段で、茶を飲みながら故郷を語っていたソラーナの横顔が、脳裏に浮かぶ。
潮風と砂糖の匂い。笑いながらも、少し寂しそうに遠くを見ていた眼差し。
「……ミュリア?」
「え、あ、すみません」
我に返ると、シリルが苦笑していた。
「考え事? 覚えることいっぱいあるけど、無理しすぎないでね?頭が疲れると余計なことばっかり考えちゃうから」
「はい。気をつけます」
「ま、ほどほどにね。仕事も息抜きも理のうち」
軽口を残してシリルは報告書を抱え、回廊の奥へと歩いていった。
残されたミュリアは、その背を見送りながら、小さく息を吐く。
――結界も、魔素も、私の手には届かない。
けれど、誰かの暮らしを整えることなら少しはできるかもしれない。
そんな思いを胸に、ミュリアはカップを片して立ち上がった。午後の祈祷前に聖庇舎の子どもたちの裏の森へ薬草採取に同行する予定だ。
育生院の門をくぐると、柔らかな夕陽が降り注いでいた。大理石の床に射す光は金色に揺れ、薬草園の方からは子どもたちの笑い声が風に乗って届く。
「ミュリア!」
声の方を見ると、エルモアが手を振っていた。
彼の隣では、小さな子どもたちが籠を抱えてはしゃいでいる。
「来てくれて助かったよ。今日の子たちは元気すぎて、神官たちだけじゃ手が足りなくてさ。派遣で元々人が少ないのにね」
「もちろんお手伝いさせてください」
そう言って駆け寄ると、ミュリアの胸の奥に小さな安堵が広がった。
前に訪れたとき――あのときは皆、聖句の勉強の時間で息を潜めるように座っていた。
けれど今は違う。陽の下で、風の中で、子どもたちは生きている。
草木の匂いがする。
誰かが笑い、誰かが駆け出す。
その音のすべてが、命の鼓動のように響いた。
「これは?」「こっちは?」
小さな手がいくつも伸びて、葉を引き抜こうとする。
ミュリアは慌ててその子の手をそっと押さえた。
「待ってね。そうやって無理に引っこ抜くと、根が切れてしまうの。
ほら、指で土を押して……自分で抜けるのを待ってあげるの」
ミュリアが見せた手本を真似して、子どもが小さく頷く。
白い指が土に沈み、やがて、ぷちりと音を立てて小さな茎が抜けた。
「できた!」
「すごい!」
歓声とともに、笑顔が広がる。
ミュリアはその様子を見ながら、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
ちいさくて、華奢な手。細い肩。
その輪郭に、かつての自分を重ねてしまう。
――この子たちは、ただ生きるために必死なんだ。
前に見た沈黙の意味が、いまようやく分かった気がした。
空を見上げると、落ちてきたオレンジ色の陽の光がやさしく木々の間を透かしていた。
その光の下で、彼らは笑っている。
それだけで、少し救われたような気がした。
薬草採取を終えると、子どもたちは籠を抱えて聖庇舎の中へ戻っていった。
夕陽が窓硝子を透かして、床に淡い模様を描いている。外には宿舎の影が浮かび上がってくる。
濡れた靴の跡、葉の香り、笑い声。どれもが命の証のようだった。
「今日はよく頑張ったね」
エルモアが小さな子の頭を撫でる。
その掌の動きは穏やかで、春の陽射しみたいだった。
「薬草は、命をつなぐものだからね。みんなの手で採った葉は次の誰かを助けるんだよ」
子どもたちは真剣に頷き、籠の中の緑を誇らしそうに見つめていた。
ミュリアも隣で笑いながら、机の上の薬草を広げる。
ふと、机の端に目をやった。
そこには、貝殻で作られた小さな花の飾りが並んでいた。白と淡桃色、指の先ほどの大きさのものが糸でまとめられている。子どもたちの誰かが作ったのだろうか。
「これはあなたたちが?」
ミュリアが尋ねると、年上の少年が誇らしげに頷いた。
「育生院の人たちが、西の方から持ってきてくれたんだ。お守りみたいなものなんだって」
「お守り?」
「うん。あっちでは魔物が出て、海の方が荒れてるんだってさ。でも貝は残るから生き残りの証なんだって」
そう言って、少年は貝殻を胸の前でぎゅっと握った。
「だからね、これを持ってると、ずっと強くなれるの。」
ミュリアは貝殻を手に取り、胸に当てた。ひんやりとした感触の中に、微かな波の音が残っている気がした。
――この光の下にも海の記憶は繋がれて生きているんだ。
ソラーナが笑っていた夜を思い出す。
「潮風と砂糖の匂いが混ざるあの香りを思い出すといちばん幸せな記憶が思い起こされるんだ」
あの言葉の意味が、いまようやく胸の奥で輪郭を持った。
――砂糖も、海も、貝も。
失われた土地の残り香は、こんな小さな手の中にも残っていた。
ミュリアは貝殻を掌に包み込み、静かに息を吐いた。
甘いものがなくても、人は笑う。
けれど、甘いものがあれば、心がほどける。
それは魔法でも術でもなく、きっと私なりの祈りの形になる。
机の上で光が反射して、貝の縁を淡く染める。
それはまるで、あの村で照らし続けてくれた灯果のようなやわらかな明かりだった。
ミュリアの胸の中で、微かな熱が生まれる。
前世の記憶がふと揺らぎ、厨房の白い蒸気が頭をよぎった。
ずうっと初めの頃、貝殻の型で焼いたお菓子。
小さくて、甘くて、貝のように光る焼き菓子。
手の中の貝殻を見つめながら、ミュリアは小さく呟く。
「……ああ、そうだ。マドレーヌ」
誰も気づかぬほどの小さな声。
けれどその瞬間、部屋の空気が、自分が吸う空気が少しだけ変わった気がした。
エルモアが薬草の束を抱えて戻ってくる。
「ミュリア、子どもたちと道具の片付けが済んだらこっち手伝ってくれる?」
「はい。すぐに行きます」
答えながら、ミュリアはもう一度貝殻を見た。
その内側の光沢がまるで未来を映しているように見えた。
――この手で、何かを作れるかもしれない。
癒しでも、笑顔でも。
小さくても、確かに変わるものを。




