episode31 シリルの呼吸
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その日、午前の書記業務を終えた後、ラシェルに呼び止められた。振り向くと、彼は机の上に置かれた書板を軽く叩いていた。
「ミュリア、少し時間を」
「はい、ラシェル様。どうされましたか?」
「以前より君の配属について話していた件が決まりました」
その言い方に、ミュリアは背筋を正した。
ラシェルは淡々と、しかしどこか穏やかな声音で続ける。
「君にはこれまで主に各部署の補助や使い走りを任せていました。それは単なる雑務ではなく、君がどのように人と接し、どのように仕事を捌くかを見極める期間です」
「……見極めですか?」
「そうです。推薦という経緯もあり、念のため理術院もとい、大神殿として確認が必要でした。報告と実際に差異がないかということが」
ラシェルの視線は厳しくも、責めるようなものではない。むしろ、安心したような光がそこにあった。
「結果として――問題はないと認めれました。むしろ期待以上ですよ」
ミュリアは思わず瞬きをする。
褒められた、というより正式に認められたような響きだった。
「君の人間性、記録の正確さ、周囲との連携、どれも申し分ないでしょう。よって、今後は理術院の本務理術観測と資料管理の補佐として努めてもらいます」
「……わたしが、ですか?」
「まだ研修の段階ではあります。シリルの下で同じ業務を学び、こなしていくといいでしょう。
今は昨今問題が起きていた結界修復はすでに完了していますが残務と報告整理が残っていて少し人手が足りない状況です。実務の感覚を掴むにはちょうど良いタイミングだと判断しました」
そう言って、ラシェルは書板を差し出した。
そこには「理術観測補助」「結界後処理記録」などの文字が並んでいる。
「……わかりました。精一杯務めます」
「はい。焦ることはありません。
――しかし、学ぶべきことは多いことでしょう。君の感覚は鋭いものですが、それだけに理論を伴わせることも必要です。感覚に理由を与えることこそ理術の本質です」
「はい。肝に銘じます」
ラシェルが小さく頷く。
その仕草に、淡い安心と信頼がにじんでいた。
「ではこの後はシリルから詳しい説明を受けてください」
その言葉を背に、ミュリアは胸の奥が少し熱くなるのを感じた。ようやく理術院の一員として歩き出せるのだと。
「やあ。今日からデビューだってね」
軽い声に書板から顔を上げるとシリルが机に肘をついてこちらを見ていた。書類の束の中に埋もれたまま、涼しい顔で笑っている。
「ラシェル様から事前に聞いていたんだ。俺の補佐ってことでしょ?よろしくね、ミュリア」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします。……えっと、補佐というより研修からになりますが、」
「うんうん。実務の流れを掴む感じだね。ま、あんまり気負わずいこうね。僕たちの仕事は数字と現象の仲人みたいなもんだからさ」
「仲人?」
「そうだよ〜。どうしてこの数値になるのかを見つけて示してあげるのが理術師。君は感覚がいいらしいから、理屈を追う練習にちょうどいいよ」
そう言って、持っていた書板をくるりとこちらに向ける。そこには結界綻び後の再測定データの一覧。
「現地の修復はもう終わってるんだけどね。綻びがあった土地が今どんな呼吸をしてるか、それを追跡中なんだ。これ、地味だけど重要な仕事なんだよ〜」
「呼吸を測る」
「そう。後片づけ。派手な修復の後こそ、地味な調整が大事なの。ミュリアの目でも異変の痕跡が残ってないかちゃんと見ていこうね」
シリルは口元に柔らかい笑みを浮かべる。軽口に混じる温度がちゃんと本気を含んでいるのがわかった。
「……はい。ちゃんと見ます」
「うん。でも適度に肩の力は抜いてこーね」
言って、彼は指で机をとんとん叩いた。
「じゃ、今日からよろしく、ミュリア。
君の感覚と、俺の怠け癖で、理術院をほどよく回そうか」
「えっ、それ大丈夫なんですか?」
「たぶんね〜」
肩の力が抜けるような笑いが、書記室にふわりと広がった。
理術院の二階奥、観測室。
午前の光が硝子の帯を通って壁を照らし、青い模様を描いていた。
棚には結晶管と磁導盤、魔圧計の細い針が並び、
空気のひとつひとつに測定されているような張りつめた静けさがある。
ミュリアは卓上の書板に数行だけ残る前回観測の記録を見ていた。
「第一結界・南西環・補修完了/安定指数0.94」
ラシェルから渡された指示書には“現地安定度再観測・残留魔圧の確認”とある。
それが今日の仕事だった。
「こっち来て。外出許可、もう出てるから」
軽い声がして書類から顔を上げて振り向くとシリルが扉に寄りかかっていた。上衣の袖を肘まで折り上げ、いつもののんびりした笑みを浮かべている。
「もう準備できてるんですか?」
「うん。あとラシェル様が観測具の持ち出しは君に任せるって」
「えっ、私に?」
「大丈夫大丈夫。そんなに重くないし、落としたら俺が拾うから」
軽口を叩く声を背に、ミュリアは観測具を抱える。
金属と水晶を合わせた測定盤は腕に収まるほどの大きさだが、内部の術式が微かに共鳴し、持つと指先がじんわり温かくなる。
風の回廊を抜け、南側の外壁へ出る。
結界の綻びが起こった地点は、大神殿の敷地境――巡導庫との接線部分だった。
そこには淡く波打つ光の膜が張られており、
遠くからでもまだ、微かなゆらぎが見える。
「まだ、残ってるんですね」
「うん。地脈の歪み自体は治まったけど、補修したばかりの術式はね、すぐ安定しないんだ。魔素が足りてなくて呼吸が浅い」
シリルは膝をついて、観測具の台座を地に置く。
彼の指先が短い呪文を描くと、水晶盤の上に淡い光の環が広がった。
「魔圧波形、取り始めるね。こっち見てみて」
ミュリアが覗き込むと、薄い線が滑らかに波を描いていく。
脈のようでいて、息のようでもある。
その動きにあわせ、風の流れが少しずつ強まった。
「数字で見ると穏やかそうですけど……」
「体感では違うでしょ?」
「はい。少し、冷たい。光も、澄みすぎてる気がします」
シリルが口角を上げる。
「正解。ここね、魔圧が下がりすぎてる。
つまり術が空気を飲み込みすぎてる状態。人間でいえば過呼吸。結界って生き物みたいなもので、均すのに時間がかかるんだ」
ミュリアは風を受けながら、地面の感触を確かめた。
足裏の下で、土が少し乾いている。
昨日の雨のはずなのに、ここだけ湿りがない。
「乾いてる……この下、流れてる地脈が強いから?」
「おっ、いい感覚。そう、上がりすぎてるね。
これ、数字では正確にすぐには出ないんだよね。だから感覚の観測者が数人必要になる」
シリルは水晶盤に手を添え、針の震えを確かめる。
「0.93……昨日より少し戻ったか」
数字を見ながら、彼はさらりと呟く。
「これが、後処理の仕事。
修復が終わったあとの呼吸の平準化。
俺たち理術師は、術を打つよりも見守る時間の方が長いの」
「……地味ですね」
「地味だよ?でもね、派手な修復を支えてるのは、こういう数値の積み重ね。ミュリアが来てくれて、ちょっと空気が柔らかくなった気がするよ、ありがとう」
彼がそう言って笑うと、ミュリアも思わず笑ってしまう。頬をなでる風の温度が、さっきより少しだけ暖かく感じた。
測定を終え、数値を記録し終えたころ、太陽が南中に差しかかる。
青い光膜が徐々に透け、結界の縁が自然と馴染みはじめていた。
ラシェルが言っていた安定域への移行――まさにその瞬間だった。
ミュリアは観測盤を抱え直し、深く息を吸う。
空気の層が、重なり、混じり合う音が聞こえる気がした。
「これで……少しは落ち着いたんですね」
「うん。あとは巡導庫の風と馴染めば完全に閉じる。
あ、そうだ、これ見て」
シリルが記録盤の隅を指す。
波形の下部に、極細の線が重なっていた。
「これが、魔圧の残響。
人の気配とか、祈りの断片とか、いろんな要素が混ざってる。結界が破れると、こういう微細なノイズが地脈に残るんだ。
完全に消えるには……まあ、数週間」
「そんなに長く……」
「でも面白いでしょ?数字で追えばただの波形、
けど君が触ると風の息に聞こえる。どっちも真実なんだ。理論も感覚も、結局は同じ現象を別の角度から見てるだけ」
ミュリアは小さく頷いた。
理術とは、理屈だけではなく、
世界の呼吸を読み取ること――その言葉が自然と浮かんだ。
観測を終えて戻る道。
回廊を歩きながら、ミュリアはふと空を見上げる。
まだどこかに、あの光膜の残り香が漂っている気がした。
「この結界の綻びって、どうして起きたんですか?」
「単純に言えば、地脈のねじれ。
魔圧が溜まりすぎて、抜け道を探した結果、ここに裂け目ができた」
「……つまり、魔物が増えたのもそのせい?」
「半分はね。地脈が不安定だと魔圧の澱が溜まって、
それが形を取ることがある。
でも、出る場所は大体決まってるんだ。
西の外れ――あそこは、海風が強くて魔圧の逃げ場になりやすい」
西の外れ。海岸脇。
ミュリアは心の奥がわずかにざわつくのを感じた。
そこには確か砂糖を作っていた工場群があったはずだ。
「被害が……出てるんですよね?」
「うん。流通が止まってる。甘味の取引は、今は清儀経由で制限中。まあ、そのうちすぐ再開するだろうけど」
シリルは軽く肩をすくめた。
「……心配してるの?」
「はい。あの辺りの人たち、どうしてるんだろうって」
「ミュリアって優しいね」
「えっ?」
「理術師はたいてい数字しか見ないのに。その数字の向こうが見えてるんだね」
からかうような声色だったけれど、
その目は少し真剣で、穏やかだった。
「だからさ、ミュリア。
君は学びより考えるを続けていけばいい。
理術院は、神様はそういう人を必要としてる」
風が回廊を抜ける。
紙の端をふわりとめくって、書板の上に新しいページをめくるように。




