episode30 神様の掌
昼下がりの理術院は、午後の祈祷前の就業を終えつつある時間帯、ようやく静けさを取り戻していた。
湯気の立つ書板の束をまとめながら、フィオレンティアがそっと手を挙げる。
「ラシェル様。ミュリアさんに大神殿の中をご案内してあげたいと思うのですが、よろしいでしょうか?」
彼女の声音には、いつになく柔らかさがあった。先日の灯果の件以来、2人のあいだには妙な気まずさもなく、むしろ互いを気遣う穏やかな距離が生まれていた。
ラシェルは束ねた帳面から顔を上げ、短く頷いた。
「そうですね。そろそろ行動範囲や見聞を広げるべき頃合いです。……聖庇舎の方も見て回ってきてください」
「聖庇舎、ですか?」
ミュリアは小首を傾げる。
「はい、孤児院です。育生院の管轄になりますが、神殿の庇護下にあります」
「承知しました」
ラシェルは軽く頷き、何かを思い出したように目を伏せた。
「少し風が強い日です。気をつけて行きなさい」
⸻
理術院の扉を出ると、回廊に春の光が差し込んでいた。白い石畳を踏む音が静かな廊下に小さく響く。
「今日は二階を一通り回って、その後に聖庇舎に向かいましょう。一階は民間の方も入れる区域ばかりなので空いてる日に気兼ねなく見に行かれるといいでしょう」
「はい、よろしくお願いします」
そう言ってミュリアが頭を下げた瞬間――
「おやおや、珍しい顔ぶれだねえ」
脇の階段から、栗色の髪を無造作に撫でつけた青年が仕事が終わったのか降りてきた。
灰緑の瞳が半月のように細められ、口元に軽い笑みを浮かべている。
「……シリル様」
フィオレンティアが眉をひそめた。
「おもしろそうな話が聞こえたからさあ。大神殿の案内?いいねえ」
軽い調子で言いながら、彼はミュリアに目を向ける。
「理術院の話題の新人さんだよね?」
「、はい。理術院見習いとなりました、ミュリアです」
「そっかそっか、俺はシリル・レイヴン。フィオレンティアの同期で、同じ理術院所属だよ」
彼は肩をすくめて笑う。
「名前だけは知ってたけど、こうして話すのは初めてだね、よろしくね」
「こちらこそよろしくお願いします」
ミュリアが丁寧に一礼する。
その瞬間、シリルの口元が悪戯っぽく歪んだ。
「……あれ?でもフィオ、前にミュリアのことなんだか気に食わないですわ〜って言ってなかったっけ?」
「っ――な、な、シリル様!?」
いつも冷静な彼女の顔が、みるみるうちに赤く染まる。
「そんなっ、そんな言い方してないですわ……!」
「ははっ、やっぱり思ってたのには違いないんだ」
「違います!」
あまりの慌てぶりに、ミュリアは思わずくすりと笑ってしまった。
その笑いに釣られて、シリルがますます面白がるように肩を揺らす。
「もう仲直りしました」
ミュリアは柔らかく言った。
「これからよろしくお願いしますね、フィオレンティアさん」
真っ直ぐに向けられたその瞳に、フィオレンティアが少しだけ言葉を失う。
あの灯果が照らすあの日、情けなくも蹲っていた自分を庇ってくれた少女の手の温もりが一瞬で蘇る。
「……ええ、よろしくお願いします」
少し照れながらも、フィオレンティアはしっかりと返した。
「じゃあ決まりだね!三人で回ろうか!」
その様子をにやにやと見ていたシリルが切り替えるように軽く指を鳴らし、回廊を指さす。
⸻
こうして三人で並んで歩き出した。光を受けて白い床が淡く輝き、遠くの方で鐘の音が鳴る。ミュリアの胸の奥には不思議な温かさが広がっていた。昨日までの緊張が少しずつ解けていくように。
今日の案内はただの見学、ではないような気がしていた。
大神殿という巨大な生き物の中で、自分がどこに立っているのか、それを様々と実感する時間になる、そんな予感だ。
大神殿の二階はただ真っ直ぐ歩けば十二の院が円環状に並ぶ知の環状になっている。
その中心を通る一本の回廊がそれぞれの聖域をゆるやかに結んでいる。
「まずは東側から行きましょう」
フィオレンティアが先を歩く。
「この階層は実務と知を担う十二院が集まっています。理術院を起点にすれば今の時間帯ならぐるりと簡単に一周できるはずですわ」
ミュリアは頷き、静かにその後に続いた。
東の翼には鋳堂局と武務庁――火と武勇を象徴する一対の院。
赤銅の門扉には古代の祈祷紋が刻まれ、壁面には鎧をまとった神官の姿が浮き彫りになっていた。
熱を感じるほどの緊張感。
廊下を渡る風が、鉄の匂いを運んでくる。
北東に進むと空気が冷たく沈む。
そこは秘跡局。
神殿でも選ばれた者しか入れない“深淵”の領域。
閉ざされた扉の前を通るだけで、喉の奥がひやりとした。
さらに北西――幽祀庫の前では、どこからともなく水琴窟のような音が響く。
冥界と対話する魂の保存庫だという。
フィオレンティアが低く一礼し、ミュリアもそれに倣う。
西側に入ると、光が戻る。
文祀院――文明と記録の院。
壁一面に埋め込まれた銘板と書簡の数々。
通り過ぎると、インクの香りが衣に染みた。
南へと折れ、巡導局と慈癒院を抜ける。
巡導局は風が祈りのように通り抜け、
慈癒院では廊下に並ぶ壺からかすかに薬草の香りが立ちのぼっていた。
「この階層を一周すれば、神殿で何がどう動いているのかが少し見えてくるはずですわ」
フィオレンティアの言葉に、ミュリアは頷いた。
やがて中央区画――清儀院と育生院へ戻る。
そこは最も人の往来が多く、儀式と生活が交差する場所。
金属と花の香り、祈祷と笑い声が混じり合う。
「ここが、大神殿の息づく心臓のような場所ね」
ミュリアが呟くと、フィオレンティアが柔らかく笑った。
「そしてここから下に降りると、風の通り道があるの」
「風の通り道……?」
「ええ、風回廊と呼ばれる下層へ降りる連絡通路のこと。風と祈りが通る道です。その先に聖庇舎があるの」
育生院の裏階段を降りると、空気が急にひんやりした。
風の回廊。
壁面に刻まれた螺旋模様が淡く光り、足元を照らしている。祈祷を織り込んだ風が、静かに髪を撫でて通り過ぎた。
やがて石段が終わり、木の匂いが混じる土の地面に出る。
その先――木々の狭間にひとつの建物が佇んでいた。
大神殿の喧騒が遠く霞んで、人の声は届かない。風に混じるのは濃い土草の匂いと、どこか懐かしい香り。
その小さな建物は白い壁は少し煤け、屋根には苔が広がり、古びた木戸の隙間から子どもたちの声のようなものがかすかに漏れていた。
「ここが聖庇舎よ」
フィオレンティアが言った。
「大神殿に身寄りのない子どもたちを預ける場所で主に育生院の管轄区域になりますわ」
ミュリアは思わず息をのむ。
もっと明るく、祈りに満ちたキラキラと光の落ちる場所を想像していた。けれど、目の前にあったのは言いようのない静寂だった。
扉の向こうで子どもたちが机に向かっている。
大神殿らしいといっていいのか、そこには私の知っている子どもらしさは感じられない。
聞こえるのは筆の音と、小さな話し声、たまに乾いた咳が空気を裂いた。
それぞれの顔に影があった。頬はこけ、唇はかすかに色を失っている。髪の毛は細く、肌は灰を混ぜたように乾いていた。
ミュリアの胸の奥で、何かがぎゅっと縮まる。
――心臓が、痛い。
手を胸に当てた。
鼓動が早い。苦しいほどに。
ミュリアの喉が鳴った音がひどく大きく聞こえた。
――生きる、ということは、こんなにも苦しいものだったっけ
彼女は無意識に、かつての自分を思い出していた。
前世の、家を。
それは遠い遠い昔話だけれど、ぼんやりと覚えている。
母の穏やかな笑い声が静かに籠る部屋。
ちいさなテーブルを囲い、2人で食べた半額シールのついたお弁当。
父と母の喧嘩が多くなる前は、湯気の立つ台所で母の背中を追いかけていた。
夜更けに読みかけの本を枕元に置いて眠れた日々。
そこは当たり前のように雨風を防ぐ屋根があって、ぬくもりのある布団がある。
知っていた。母の顔を見ない日も、起きたら畳まれて用意された洗濯物が置いてあったことを。
私を生かすために、自分を殺していた母のことを。
知っていたのだ。
自分の中では決して裕福だとは到底思えない、満ち足りた生活はそこにはなかったが、それは享受して当たり前のものだと過信していたからだ。幼い子どもはひどく残酷だ。
そんな受けるべきと思っていた幸福も
私が幸福だとも思っていなかった日常も、
いま目の前にいる子どもたちには一つも与えられていない。
――自分は、
ーーー自分は、果たしてどれほど恵まれていたのだろうか。
喉の奥が熱くなった。
言葉を探しても、出てこない。
「この子たちが、」
やっとの思いで口を開くと、フィオレンティアが静かに答えた。
「親を亡くした子どもたち――というのが、表向きの説明ですわ」
その声には迷いがあった。
彼女は一瞬、視線を落とし、唇を噛む。
「実際には、望まれずに生まれ、捨てられた子も多いのです。罪でも罰でもないのに、この世に居場所がなくなってしまった子たち」
フィオレンティアの言葉が途切れる。
沈黙が落ちる。
その沈黙の中で、子どもたちの筆の音だけがかすかに響いた。
シリルがその場の空気をやわらげるように、肩をすくめた。
「でもね」
彼の声は驚くほど優しかった。
「大神殿に保護された子たちは、ちゃんと食べて、働いて、ここで生きてる。それだけでも奇跡なんだ。王都より外にいれば飢えか病かで冬を越せなかったかもしれない」
そう言いながら、彼は窓の外を見た。
中庭の片隅では、年長の子が小さな鍋をかき混ぜていた。
火に当てられた薬草の香りが、淡く漂ってくる。
「ここでは、生きることそれが祈りそのものなんだよね」
その言葉を聞きながら、ミュリアは静かに頷いた。
胸の奥で、知らない感情が膨らんでいく。
哀れみでも、同情でもない。
ただ――何かを変えたいという衝動。
この子たちに、温かさを。
安心して笑える日を。
いつか、自分がそのための手を動かせるように。
扉を閉じたあとも、胸の鼓動はしばらく収まらなかった。背後で鐘の音が鳴り、森の中の小さな庇舎が淡い光に包まれる。
それはまるで、痛みごと神の掌に乗せられているようだった。




