episode29 ラシェルの悩み
その日、理術院の廊下はなんとなく朝から慌ただしいような気がしていた。
報告書の束を抱えた祭侍たちが行き交い、書簡の印章がいくつも運ばれていく。結界綻び騒動が落ち着いたがその後の後処理でバタついているようだ。
ミュリアもいつも通り指示に従いながら、さっさと済ませてしまおうと薬液庫へ道具を取りに向かった――そのときだった。
薬液庫の扉を押し開けた瞬間、空気がわずかに淀んでいるのをミュリアは感じた。
薬草と薬液の匂いに混ざって、鉄と汗の匂いがする。
棚の向こう、机の脇に膝をついていたのはーーーーラシェルだった。
制服の上着がわずかに乱れ、肩で浅く呼吸している。いつもきっちり整っている髪が頬にかかり、血の気が引いた顔が青白い。
「ラシェル様……!?」
呼びかけると、彼は反射的に顔を上げた。だが、その視線は焦点を結ばず、ほんの僅かに揺れている。 目があっていない。
「……大丈夫です、問題ないので、」
言葉とは裏腹に、声がかすれていた。机で支えていた身体を持ち直そうとして失敗したのか、ガクンと身体が揺れた。
ミュリアは慌てて近づく。
「顔色が……っ、失礼します!」
支えようと腕を伸ばすと、ラシェルが咄嗟にそれを掴んだ。手の甲がひどく冷たく、細かく震えていた。
「……触らないで、ミュリア。これは……」
言葉が途切れ、彼は眉間に深く皺を刻んだ。ミュリアは悟る。――これは、低血糖だ。
ずっと働き詰めだったのを何度も見ていた。食事を抜き、報告書を片付けていた朝の姿が頭をよぎる。
「動かないでください」
そう言いながら、ミュリアはポケットを探った。
指先に、小さな包みの感触。
琥珀色の飴玉――ソラーナの顔が思い浮かぶ。元気になるお守りだ。
「これを。」
包みを解き、口の前まで差し出すと、ラシェルの表情がわずかに強張った。
「……なぜ、そんなものを……」
低く押し殺した声。
「ここは神殿だ。仕事中に……甘味など……」
ミュリアは思わず息を詰めた。
その声は怒っているというより、苦しいのを隠そうとしているようだった。
自分を律するあまり、身体の限界さえ認められない――そんな頑なさが見える。
「……贅沢じゃありません。必要なものです」
ラシェルが何か言い返すより先に、ミュリアは飴を握らせた。
そのまま、彼の指を自分の手で包み込む。
手の平の冷たさが伝わってくる。
「血糖が下がってます。理屈より今は食べてください」
「……君は、」
唇がわずかに動く。それでも、彼は手のひらの間の包みを見つめたまま動かない。
しばしの沈黙。ミュリアは少し眉を寄せて、ほんの一歩踏み出した。
「お願いです」
静かな声。
押しつけでも強制でもない。
でも、揺るがない。
その真っ直ぐな声音に、ラシェルは観念したように震える手をゆっくり持ち上げてそれを口の中に押し込んだ。
舌の上で飴が転がる。甘い香りがほのかに広がる。
それと同時に、呼吸が少しだけ深くなった。
数拍ののち、彼は小さく息を吐いた。
ミュリアはその身体を支えるようにして近くの丸椅子に座らせる。
「………まったく。君という人は」
「はい?」
「人の理性を、いとも簡単に崩していく」
淡い皮肉の裏に、熱の抜けた優しさが滲んでいた。
顔を上げたラシェルの瞳にわずかな色が戻っている。
「……施しをありがとう、ございます」
それは、溶けかけた飴のように気が抜けた声だった。
ミュリアは安堵の息をこぼし、ほっと笑う。
「これからはちゃんと食べてくださいね。ラシェル様が倒れたら困る人がたくさんいます」
「…その中に、君も含まれるのですか?」
普段は言ってこないような言葉を珍しく掛けてきたラシェルに
「もちろんです」と言い切ると、一瞬だけ目を丸くした。
それから視線を逸らし、頬に引っ付いた髪を払うようにかき上げる。
「……そんなこと、言われ慣れないですね」
「慣れてください」
「簡単に言うようなことではありません」
冷静な声のまま、しかし頬の端がわずかに赤い。
その照れくささが、薬液庫の静寂の中でほんのりと光っていた。
◆
夜の鐘が鳴り終わるころ、厨房の灯がひとつ、またひとつ落ちていく。湯気の名残と焼き立てのパンの香りが、まだ空気の奥に残っていた。
ミュリアは片づけを手伝い終えると、ソラーナと並んで裏口へ向かった。
裏口の先には、外へとつながる搬入口の階段がある。
昼は食料の荷車が通る場所だが、夜になるとひっそりと静まり返り、冷たい石段が月光を返していた。
「ここ、風が通って気持ちいいんだよ」
ソラーナが湯呑を二つ掲げる。片方を受け取ると、温かい香草茶の香りがふんわりと立ちのぼった。
「ありがとう。お疲れ様です。もう終わりですか?」
「うん、やっと一息つけた。ミュリも座りなよ」
ふたりで腰を下ろすと、背中に石のひんやりした感触が伝わる。頭上には、まるで水面のように澄んだ夜空。星々の光が淡く滲んで、神殿の白壁を照らしていた。
「ねえ、ソラーナさん」
「ん?」
「お菓子って下町でも、あんまり食べられないものなんですか?」
その問いに、ソラーナは口元をゆるめて、肩をすくめた。
「お、出たな“ですます”ミュリ。もっと気楽に喋っていいって言ったろ?」
「あ、う……つい」
「いいのいいの。で、そうだなあ。そもそも砂糖自体が高級品だからな。そうそう自分の金で買えるもんじゃないよ」
彼女は湯呑を両手で包み込みながら、ぽつりと続けた。
「あたしもここで給金もらうようになるまで食べたことなかったし」
ミュリアは目を丸くした。
「そうなんだ……」
「でも貴族のお嬢様方はきっと別だろーな。茶会用のお菓子ってのがあるらしくてな。厨房の上の人たちはそれ用の仕込みを偶にしてるんだ。ここは朝晩の食事のあとも動いてるんだよ」
「そうなんですね。知らなかった……」
「ま、あたしらの仕事とは別ルートだけどな。食材搬入の記録見てると、そういう高級用の発注はやっぱ別枠なんだ」
淡々と語る口調に、ミュリアはなんとも言えない感情を覚えた。食べるということにも階層がある。
同じ甘いの一口でも、届く場所が違う。
「就業規則には別に禁止って書いてないんだろ?」
「うん。だから駄目ってわけじゃないとは思ってたんだけど」
ソラーナは湯呑の中を覗き込みながら言葉を選んだ。
「神様に仕えてる人たちほど、自分からそういうのを控える傾向があるよな。贅沢を戒めるっていうか、慎ましくありたい、って感じかなのかな」
その言葉を聞きながら、ミュリアは小さく頷いた。
わかる気がする。でも、それってどこか切ない。
甘いものは、ただの嗜好品じゃない。
脳を癒やし、気持ちを穏やかにしてくれる。
前世で、幾度となくその小さな幸福に救われたことを思い出す。
仕事が上手くいかなかった夜、孤独で泣きたくなった朝、
ショートケーキの一口、焼きたてのタルト、
あの柔らかい甘味と、香ばしいバニラの匂い。
色とりどりの飾りが光を返す瞬間――それが、私の世界を明るくしていた。
ミュリアは空を仰ぐ。神殿の塔の向こう、月の輪郭が光の縁取りを作っていた。
「……幸福って、きっと、素敵な香りと味があるんだよね」
ぽつりと呟いた言葉に、ソラーナが片眉を上げる。
「なにそれ、詩人みたいじゃん」
「えええ、そう?」
「でもわかる気がする。あの飴の匂い嗅ぐだけでちょっと幸せになるもんな」
ふたりで笑い合う。
湯呑の底に残った茶が、月明かりを受けてゆらゆら揺れる。
「最近はさ、西の方の魔物騒ぎのせいで、物の流れも止まってるんだよな。砂糖も干果も入ってこないし」
「魔物の影響、そんなにあるんだ」
「うん。供物用の蜂蜜とかは優先的に回してるけど、民間への流通はどうしても後回しになる。厨房もね、欠品出ると本当に焦るんだよ。発注ミスったかと思ってさ」
そう言って、ソラーナは両手で頭を抱えた。
「食材管理ってほんと神経使う。油断すると全部台無しになるしさあ」
その愚痴めいた声が妙に懐かしくて、ミュリアは笑ってしまった。
厨房のざわめき、材料を数える音、焦げた甘い匂い。すべてが遠い記憶を呼び覚ます。
あの頃、確かに同じように悩んでいた――失敗を恐れて、完璧を求めて、それでも笑っていた。
「……ねえ、ソラーナさん」
「ん?」
「今度、お菓子を作ったら食べてくれますか?」
唐突な問いに、ソラーナが目を瞬かせる。
「へ? なに、いきなり?」
「その、作ってみたくて、」
ミュリアは両手で湯呑を包み込み、少し照れくさそうに微笑んだ。
ソラーナは少し目を細めて、ふっと笑う。
「いいじゃん。材料の相談とかあたしにできることがあったらなんでも言って」
「ほんと?」
「ほんと。あたしも味見くらい手伝ってやれるし」
「ふふ、心強いです」
風がひとすじ、階段をなでて通り抜けた。カップの縁に反射した月光が、ふたりの影をやわらかく包む。
見上げた空には、ひときわ明るい星が瞬いていた。
その光は、どこか灯果の明滅に似ていて、ミュリアの胸の奥で静かに揺れた。




