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薬草村から世界へ:お母さん、私、錬金術師になります!  作者: 鹿ノ内


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episode25 灯果の事件簿


 朝の祈祷はもう儀式というより呼吸に近くなってきた。

 最初の頃は身体が強張って、終わったあと膝が少し震えていたのに──今は深く頭を垂れて息を合わせると、胸の奥のざわつきが静かに溶けていく。

 言葉を並べているのではなく、整えているという感覚に近い。



 ……でもまあ、前世でも仕事に出かける前の扉を開ける瞬間は毎回こんなふうだった。

 嫌ではないけれど、どうしても一歩目に重さが乗るあの感じ。

 業務内容自体に嫌な気持ちは一つもなく、人間関係も良好。なのになんだか仕事に行くと言う感覚が気だるいこの感じ。

 背中を押すものが必要になる。

 今日も、その一歩を祈祷が作ってくれる。


 祈りを終えて立ち上がると、見慣れた顔ぶれがそこにある。

 控えの回廊へ抜けるとき、立ち番の神官と目が合い、軽く顎を引いて挨拶をくれる。

 こちらも深く礼を返すと、わずかに柔らかい空気が交差した。

 

 クラリサへ向けて礼をすれば、目だけで微笑まれる。その一瞬で胸がふわりと軽くなる。


 朝の業務に取り掛かるため、理術院の方に出向けば、ラシェルの姿があった。ただし今日は、珍しくどこか忙しなく、誰かと低声で言葉を交わしていた。指先には開封した指示書が三枚重ねてあり、卓上の刻印灯がつきっぱなしだ。


 (……忙しそう)


 話しかけるのはやめ、指示を待つ位置で静かに立つ。

 しばらくして、ラシェルはこちらを一瞥しただけで短く言った。


「今日は配達先が多いですが、いつも通り、順を追ってこなしてください」


 声色は普段どおり淡々と。けれど、そのひと言は昨日よりわずかに硬い。


「はい。行ってまいります」


 書簡を受け取りながら、ミュリアは気付く。彼は余白がない。つまり、この階層にまで影響が降りてきている程度に、上で何かが動いているということ。


 ただ、それ以上は考えない。自分の役割を果たすことが今できる最善だからだ。




 午前の仕事は滞りなく進んだ。


 清儀院廊下での連絡伝達、清具の回収、梱包瓶の運び出し、立ち番経路の更新確認。


 ……少し前まで全部初めてだったはずなのに、今は足取りが迷わない。


 (大丈夫、ちゃんと慣れてる。うん)


 けれど、その同じ時間。

 理術院の奥では別の配達がすれ違っていた。


 ――灯果


 扱い難易度はきわめて高い。

 揺らぎひとつ、衝撃ひとつで光が死んでしまう。素材というより命に近い。

 そして、それを最初に受け取ったのがフィオンレンティアだった。


 灯果は果実ではあるが、扱いはほぼ妖精に等しい。籠に入れるにも落とすにも迎えるのであって、摘むわけではない。


 その理屈を、フィオレンティアは知識としてはもちろん理解していた。


 だが――知識と実践の距離は、思っているより遠い。



 **


「届け物、理術院宛――急件だそうです」


 侍従の声に、いち早く反応したのはフィオレンティアだった。

 ミュリアはまだ外回りの途中。

 今日は彼女より先にここに居合わせている。


(――好機)


 胸の奥が鳴った。


(私だってできる。やれば出来る。評価されるのは当然……!)


 誰に頼まれた訳でもないのに、

 先に取るという行動そのものがもう彼女の焦りを証明している。

 慎重さより先に手柄が立ってしまった。


 そして薬液庫でその箱の封を解いた瞬間、ふわりと――室温がひとつ息をするように変わった。


 透き通る淡光。

 薄く、静かに瞬く鼓動。

 上質な布の上に並んだそれは、まだ生きている。


(……本物)


 喉がひとりでに鳴った。


 手に取ってはいけない。

 まずは温度、呼吸、媒介の確認――

 そんな基本手順、頭では全部わかっている。


 ……けれど。


 「できる」と証明したいという執着は、待つことを許さなかった。


「よ、よし……っ」


 呼吸が浅い。

 胸が波打つ。

 焦りは魔圧の揺れとなって掌ににじみ出る。


 ひとつ、灯果が、怯えたように明滅した。


(え……?)


 嫌な予感が背筋を撫でる。


 次の瞬間。


 ――ぱちん、と乾いたほどの微光が弾けて、灯りが落ちた。


「っ……!」


 守り損ねた、ではない。奪ってしまった感覚だった。その自覚が、指先を氷のように固める。


 呼吸が詰まる。叱責の声が飛んでくる――あの家の食卓と同じ、冷たい裁定が――


 脳裏に走ったその記憶に、身体は条件反射で震えた。


「……っ……やだ……」


 声にならないまま、一歩、後ずさる。


 彼女はまだ知らない。

 誰も、彼女を殴りつけたりはしないことを。

 しかしトラウマは、理屈より速く心を支配する。


 ――逃げたい。


 失敗そのものよりも先に降りかかるのは、「居場所を失う恐怖」だった。



 そのとき、奥の扉が開く。


「ラシェル様、こちら──」


 ミュリアが戻ってきた。


 運命のすれ違いは、ここでやっと交差する


 ミュリアが報告を終えて、指示を受けその後薬液庫の扉をくぐった時には、まだ事故は完結していなかった。


 壊れた灯果は一つ。

 だが籠にはまだ残りがある。

 それを守れる余地は残っていた。


 ミュリアの眼は、瞬時にそこを捉えた。


「……灯果とうか


 状況の把握は早い。

 誰が失敗したかではなく、まず光の救出が先に来る。


 真っ直ぐ歩き、籠のそばへ。

 伸ばした手のひらは触れない。

 ただ――静かな呼吸だけを近づける。


 ふるふると震えていた光が、波打つ布のように落ち着きを取り戻す。

 逃げ場を失って蒼白になっていた灯りが、ようやく在るべき場所を思い出す。


(……よかった)


 ミュリアの胸にだけ、その安堵の声が揺れた。


 そしてやっと、彼女は周囲を見る。


 少し離れたところで、フィオレンティアが肩を震わせていた。

 落とした灯果を見つめる視線は後悔でも反省でもない。もっと根深い――自己否定への硬直。


 声をかけるか、一瞬迷った。


 なぜならミュリアはまだ知らない。

 失敗が「叱られる」ではなく「存在を否定される」世界で育った子がいることを。


 だが、彼女は知ろうとしてしまう。


「……大丈夫ですか?」


 言葉に責めも追及もない。

 ただ確認だけ。

 その優しさが、逆にフィオレンティアの防御を刺激した。


「っ……近寄らないで」


 拒絶ではなく、自己防衛の反射。


 叱責に怯える子どもの声だ。


 ミュリアは、やっと理解する。


 ――ああ、この子は、怒られるのが怖いんだ。

   仕事を失ったのが怖いんじゃない。

   存在ごと切り捨てられる未来が怖いんだ。


 灯果よりも先に、フィオレンティア自身がいま崩れている。



 ミュリアはまず、失われた灯を見下ろした。

 壊れた粒はもう戻らない。

 けれど、まだ助けられるものが残っている。


「……ごめんね。ちょっと待ってて」


 声に出すのは灯果ではなく空気へ。

 刺激でなく安心を知らせるための柔らかな響き。


 ミュリアはすぐに部屋の隅――

 低い木棚の一段目に据えられた清水釜の蓋へ手を伸ばした。


 この小釜は祈祷水盤とは違う。

 薬草や魔果を落ち着かせるための理術院側の道具だ。


 蓋を開けると、静謐な冷水が鏡のように佇んでいた。

 それは聖性というより休息だ。

 祈りではなく保護――光が息を整える場所。


 籠へ戻り、灯果に触れず、ただ掌を添えて向きを合わせる。

 すると淡い光は、幼子が眠るように釜へ落ちていく。

 一粒、二粒――落ちるのではなく帰っていく。


 水面に沈まない。

 ゆらゆらと、光だけが漂い、ふしぎな呼吸を刻む。


 救えた。


 ミュリアは胸の奥で息をつく。


 そしてようやく、背後に視線を戻した。


 フィオレンティアはまだ硬直していた。

 肩は揺れているのに、目は震えたまま一点に縫い付けられている。

 怒られたわけでもないのに、すでに裁きを受けたあとの顔。


 彼女は過去をここに再現してしまっている。


「……大丈夫。落ち着いたら、一緒にラシェル様へ報告に行きましょう」


 その提案は責任分担ではない。

 ひとりでは向かわせないという意思表示。


 しかし、フィオレンティアの耳には別の意味で響いた。


 ――庇われた


 自分より低いと思っていた相手に。


 それが羞恥と自己嫌悪を同時に弾けさせた。


「…………いや……いやっ」


 消え入りそうな声のあと、

 フィオレンティアは視線を伏せ、駆け出した。


 呼び止めても届かない。

 追いつこうとしても触れてはいけない。


 ミュリアは息を飲み、逃げていった背を、揺れる黄金色のカールを、見送った。


 フィオレンティアは、理術院から駆け出した。叱責ではなく羞恥に追われるように。


 ミュリアははっとして、追う。だが、肩を掴むでも声を発するでもなく、距離を測りながら、ただ見失わない速度で。


 たどり着いたのは、参拝回廊と庭園の狭間にある静かな中庭だった。風除けの高垣に囲まれ、淡い光だけが優しく落ちる場所。


 フィオレンティアは腰を下ろし、腕で顔を隠すように膝を抱える。泣き声もしない。ただ、震えだけがある。


 ミュリアは少し離れた場所に立ち、すぐには声をかけなかった。


 誰かに追い詰められているのではなく――

 自分自身に狭められている時、人には待つ余白が要るだろう。

 しばらくして、膝の奥からかすれた声が落ちる。


「……失敗したら、全部終わりなのよ……」


 それは過去の記憶の残響。

 今この神殿で起きた出来事ではなく、

 かつて生きた家の罰の記憶。


 ミュリアは初めて理解する。


 ――彼女は灯果を失ったことに怯えているのではない。壊した自分が要らない人間になることを恐れているのだ。


 それはミュリアの世界にも

 (名前の違う形で)あった痛みだった。


 だから、責め言葉ではなく

 説得でも慰めでもなく――

 提案として差し出す。


「……灯果、採りに行きましょう。薬草園から来た物でしたので、今からでも取り戻せるかもしれません」


 フィオレンティアの肩がびくりと揺れる。失敗ではなく回収可能な問題として扱われた瞬間だった。


「……無理よ……私は……」


「大丈夫です。……私も一緒に行きます」



 フィオレンティアは顔を上げないまま、指先をぎゅっと握る。


 すぐに肯定はできない。それでも――逃げた足が、もう次を探し始めている。


 だからミュリアは、そっと続ける。


「謝るためじゃなくて……守り直すために、です」


 その一言が、初めてフィオレンティアの防壁を揺らした。やがて、彼女はほんの少しだけ頷いた。


 ――こうして、二人は薬草園へ向かう。

 薬草園への回廊は、清儀院や理術院とはまるで空気が違う。


 踏みしめる床石は冷ややかな大理石ではなく、淡い苔色の敷砂と、根の張りを守るための浅い踏板。壁は積み石のままなのに、蔦が自然に縁どりを描き、陽が射すとそれだけで一面が生きた紋様になる。


 天井近くには色硝子――祈祷堂のような荘厳なステンドグラスではなく、光を壊さず、丸く撫でるための硝子だ。

 差し込む陽が砕けず、ひかりそのものが春色を帯びて流れている。


 ミュリアは思わず立ち止まる。


(あたたかい……外とは違う)


 空気が作られているのではなく、育てられている。


 ――育生院。

 ここは清める場所とも、戦う場所とも違う。ただ芽が伸びやすくなる環境を整える場所だ。


 そんな空気を象徴するかのように、棚越しにこちらへ振り向いた青年がいた。


 光を抱え込む金茶の短髪。

 若葉を思わせるみずみずしい瞳。

 姿勢も声も柔らかく、先に安心が届くような人。


 ミュリアは両手を揃え、一礼する。


「お忙しいところ失礼いたします。理術院見習いのミュリアと申します。先ほど薬液庫に届いた灯果の件で、担当の方はいらっしゃいますか?」


 青年は目を細め、春風のように笑った。


「うん、僕だよ。ようこそ育生院へ」


 名乗るより先に歓迎が来る――そんな人だった。


 その柔らかさにミュリアが言葉を継ごうとしたその時、背後で小さな気配が前へ出た。


 逃げていたはずのフィオレンティアが、そっと肩をポンと撫で――表情を整え、前に進み出る。


「……大変申し訳ございませんでした」


 その所作は完璧だった。過剰さも怒りも涙もない、磨き上げられた謝罪。


「私の不手際により、せっかくの霊果を一つ無駄にしてしまいました。勉学不足、弁解の余地はございません」


 ミュリアは息を飲む。怯えて逃げた子がもういない。彼女は今、自分の価値を守るのではなく結果を抱いて立っている。


 青年――エルモアは、その姿を否定ではなく受け止めた。


「うん。灯果の扱いは難しい。それは周知の事実だから、失われた一つを責める必要はないよ。報告と謝罪は確かに受け取りました」


 裁定ではなく受容の完了。それだけでフィオの肩から力が抜ける。


 そして次に、エルモアは自然に視線をミュリアへ向けた。


「それより――理術院に新しく来た子が、イレリウス様の縁で灯果の扱いに長けているって聞いていてね。本来の依頼書も指名扱いだったはずなんだけど……伝わってなかったのかな?」


「……ラシェル様、今朝からとてもお忙しそうで」


「ああ――なるほど。地脈の揺れが出ていたね。それなら、滞りは仕方ない」


 ミュリアは一瞬だけ目を瞬かせる。言葉の意味は分からないが、ただならぬ何かが上層で動いていることだけは感じ取れた。



「私がイレリウス様のところから参りました。灯果の採取・定着も可能です。お手伝いさせていただけますか?」


 エルモアは声も笑みもさらに柔らかく――芽吹きを歓迎する人の顔になった。


「それは助かるよ。……じゃあ、ついておいで」


エルモアのあとに続き、薬草園の奥へと歩く。


 奥へ進むほど光はやわらぎ、まるで空気が羽毛布団に変わっていくようだった。

 土の匂いが深まり、庭はただの植栽ではなく――呼吸する森と呼ぶ方が近い。


 低い霊樹が並ぶ列を抜けると、薄紅色の葉を揺らす樹が現れた。花のようでも果実のようでもない透明の房が、枝から静かに吊り下がっている。


 灯果。


 ミュリアの足元が、ふっと止まる。


(……同じ。村のと)


 胸の奥の記憶がふわりと緩む。母の手、夜明けの森、あの柔らかな呼吸の時間。


 フィオレンティアはその横顔を見た。感嘆でも感動でもなく、ただ慈愛に満ちた顔だった。


 エルモアは枝へ手を伸ばさない。ただ、そっと問いの形で促す。


「……やれるかい?」


 ミュリアは一つ頷いた。


 灯果へ歩み寄る。

 指先は触れない。

 ただ、掌をそっと迎えの向きへ整える。


 呼吸を合わせる。


 ――ちいさな光が揺れた。


 枝を離れたのではなく、安心の重心を移したかのように、灯果はふわりと浮き、ミュリアの掌の影へ降りる。


 フィオレンティアは息を呑んだ。


 それはうまさではない。やさしさの運用だった。彼女には初めて見る概念だった。


 続けて二つ、三つ――灯果は一つも乱れず籠に迎え入れられていく。


 すべてが終わった時、エルモアは大きく息を吐き、深く笑った。


「……本当に助かったよ。理術院で話に聞いていたより、ずっとやさしい手つきだ」


 ミュリアは籠を両手で抱え、ぺこりと頭を下げる。


「いえ……習い覚えただけです」


「習い覚えただけでできるなら、その森はとうの昔に枯れてるよ」


 あたたかい冗談。それは否定ではなく、肯定の証。そしてエルモアは、ほんの少し声を落とす。


「また今度、ちゃんと話そう。

 ――あの灯果がどこから誰に預けられたのかもね」


 ミュリアは思わず瞬きをした。けれど、追及の形ではなく約束として残されたのでただ頷くだけにした。


「ありがとう。二人ともおつかれさま」


 出口まで送り出す歩みはゆっくりで、振り返った時、春の庭はまた静かな呼吸を戻していた。



 薬草園を出て廊を歩く二人は、しばらく言葉を交わせなかった。それでも――逃げる背ではなく、並んで歩く足になっている。


 理術院の薬液庫の前まで戻ると、ようやくフィオレンティアが立ち止まる。数拍の沈黙。そして、深く息を整えてから口を開いた。


「……あの時のこと、謝らせてください」


 視線は落ちているが、声は澄んでいた。


「錬金術師になる資格は誰にでもあるのに、わたしはそれを、まるで身分の線引きで測ってしまった。あなたを貶めたつもりはなかった――なんて、言い訳にすらなりません。ひどい態度でした。本当に、ごめんなさい」


 謝罪の形式は貴族式、けれど内容は逃避ではなく自覚と責任だ。ミュリアはまっすぐその言葉を受け止めた。


「……ううん。私も、錬金術師になるって言いながら、本当はまだ何になりたいかを理解できてなかったの。あなたに言われて、考え直したの」


 フィオレンティアがわずかに顔を上げる。


「それでも私は錬金術師になりたい。ちゃんと意味を知って、それでもなりたいの。その気持ちは間違いじゃない」


 一度言葉を切り、ミュリアは少し笑った。


「……もしよかったら、二人で頑張るのはどう?

 どっちが先に錬金術師になっても恨みっこなし。でも、支え合える関係になれたらって、思う」


 その提案は、友情より手前。

 赦しより奥。

 対等さへの招き。


 フィオレンティアはきゅっと唇を結び――ほんの一瞬、感情の揺れを喉元で噛みしめてから、小さく頷いた。


「……うん」


 それは短い言葉だったが、後ろ姿ではなく横並びになった最初の瞬間だった。




 灯果の籠を一度棚に戻し、

 ミュリアはフィオレンティアへ手本を見せる。


「灯果は見ているんだよ。摘まれるんじゃなくて、受け入れられるかを測ってる。だから、手を伸ばす前に――こっちの気配を落ち着かせなきゃいけないの」


「気配を……落ち着かせる……?」


「うん。教科書には魔圧反応の同調って言ってあったけど……私が教わったのは怖がらせないで迎えるってことだった」


 フィオレンティアは驚いた顔をした。知識ではなく関係として素材を見るという考え方はこの神殿教育にはまだ存在しない。


 理解ではなく、実感で頷く。


「……教えてくれて、ありがとう」

「ううん。こちらこそ」


 視線が初めて平行になる。

 この瞬間、二人は同じ目線になった。



 そこへ――ラシェルが戻ってきた。


 扉の前に立った瞬間、二人は即座に姿勢を正す。


「勝手な判断をしました。申し訳ございません」


 二人そろって一礼。


 ラシェルはしばし沈黙し、額に軽く手を当てて溜息を落とした。


「……自分の仕事にかまけて、二人を見落とした監督責任は私にあります。しかし、それと報連相を怠った件は別です」


 静かな叱責。結果ではなく段取りを問う、理術院らしい裁き。


「次からは必ず報告を。以上です」


 ぴしゃりと終わる。

 それだけで、二人は胸を張りつつも同時にしゅんとした。


 だがその直後、ラシェルはほんのわずか目線を二人へ戻す。


「お咎めはありませんよ。仕事に戻ってください」


 それは肯定でも慰めでもない――成長を許可されたという判定だった。

 並んで頭を下げる二人の姿に、ミュリア自身も気づく。


 ――ここからが始まりなんだ。



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