episode24 大神殿の秘密
足音が近づき、司書が二冊目を運んできた。
先ほどの入門書よりも一回り大きく、革の色も深い。角には金の補強――まるで鍵付きの扉のよう。
机に置かれた瞬間、空気の重さが変わる。
それは威圧ではなく、歴史の重みを表していた。表紙を撫でると、手袋越しに伝わる。使い込まれたものではない。けれど新品でもない。継いできた手がある本の体温。
私はそっと開いた。
最初の見開きに、罫線で縁取られた《六つの柱》が並んでいた。
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《錬金術全書》
<錬金術師に求められる基礎六科>
一、錬金法令学
無認可錬成の罰則、精製物の管理、認証手順
――「術」より先に「責任」を知る
二、素材学
魔草・鉱物・界素・動体素材
――“触れる前に、その正体を見抜ける者”であること
三、理論基礎(錬成理層)
抽出・浄化・転写・結界との整合
――仕組みを説明できない錬成は、ただの偶然に過ぎない
四、初等実技
研磨・粉砕・蒸留・練合
――器具の扱いと段取りが、そのまま失敗率になる
五、図式・幾何(設計術)
陣式・符幾何・比率設計
――暗記ではなく「配列する力」
六、魔圧制御
大きさではなく“誤差の少なさ”
――魔力とは力ではなく、精度である
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(……才能の量じゃないんだ、誤差なんだ)
私は思わず息を呑んだ。
魔力は天与――持って生まれた総量が価値なのだと思っていた。でもここでは違う。どれだけ狙った通りの力を出せるか扱いの繊細さこそが技の前提。
ページの下部に、さらに注釈があった。
《六科を修めて初めて、“見習い”として認可される》
それは私の行く末がとても長い旅路になるのだと記しているかのようだった。しかし不思議とその事実は痛くなかった。むしろほっとする。
ちゃんと道筋があって、その道を歩く人が錬金術師なんだ。
錬金術の学ぶべき科目をパラパラとめくり、概要をおおよそ把握したところで丁度よく司書の方が三冊目を運んできた。
今度の装丁は深い藍色。
金具は最小限で、かわりに背表紙の文様が丁寧に織り込まれている。
表紙には文字はなく、ただ一輪の紋章だけ。
“神を記す”本は、名前さえ蓋だとでも言うように。
(……これが、大神殿の歴史)
静かに開くと、最初の頁にこうあった。
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我らは祈りを以て世界の均衡を守る。
祈祷とは聖務ではなく、維持である。
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(均衡……維持……)
祈りはイコールお願い ではない。支え、繋ぎ止めるもの。ページをめくる。
大神殿は“最初の祈祷”を遺した場所ではなく
「祈祷を技として保存した唯一の地」である。
つまり、“信じた人の心”ではなく、世界の不安定さに対する術式の継承。
私の胸にすとんと落ちた。
神殿は“奇跡を起こすところ”じゃない——
“均衡を絶やさないところ”。
だから祈りは神事であると同時に、維持作業でもあるのだ。世界が傾かないように支える腕のようだ。
ページの下方、欄外の記述が目に留まった。
祈りは“保つ”ため
学びは“渡す”ため
祈り=維持
学び=継承
ああ、と分かった。
――ここは、神の天井の続きをひとが描き続けている場所なんだ。
私はしばらく、ただその一文を見つめていた。
するとセオドールがそっと囁いた。
「どっちが偉いとかじゃなくてね、両方あって文明になるんだね」
《大神殿沿革録 第二部:十二院篇 抜粋》
かつて、理は散在し、
人はそれを掬い得ずにいた。
神々は十二の理を顕し、
それぞれを象徴する院を大殿の内に置いた。
それが今に伝わる「十二院」である。
理術院は創造の位に連なり、
世界を形づくる根理を探求する。
幽祀庫は冥界の理を司り、
魂の還りと死者の祀りを記録する。
秘跡局は深淵の門を守り、
封印と秘儀を継ぐ。
文祀院は文明の証を担い、
記録を以て時代を繋ぐ。
鋳堂局と武務庁は火と戦の理に属し、
器と剣、力と誓いを司る。
慈癒院は月の恩寵を受け、
癒しと庇護を行う。
巡導寮は風を従え、
旅路を導き、道を繋ぐ。
星読院は天象を記し、
星々の運行を暦とする。
清儀院は水の浄をもって祈祷を行い、
穢れを祓い、儀を整える。
育生院は豊穣を祀り、
供物と霊草を育む。
そしてこれら十二院の総を束ね、
神々の意志と理の均衡を保つ場こそ、
大神殿の真なる姿である。
奉仕先は部署ではなく、世界を動かす十二の原理を模して建てられた十二の領域だった。
自分がいるのは理術院ではなく、創造そのものの根の区画(創世格)——ミュリアは初めて、自分の「立ち位置の格」を理解する。
史書をめくっていくと、見慣れた言葉が出てきた。
――十二院。
けれど、それは私が思っていた意味とはまるで違う形で記されていた。
「十二院とは神々を祀る組織ではなく
世界を構成する“十二の原理”の投影である」
院は“場所”ではなく世界の法則そのものを模した“領域”。さらに文章が続く。
天・地・冥・深/火・武・星・風/水・養・癒・文
大神殿はこの十二の法則を方位へ写し
大陸の均衡を保つ型として建造された。
祀るためではなく、守るためでもなく、維持するために在る、と。
聖水を扱う清儀院が中心寄り配置なのも、薬草や供物を司る育生院が水と隣になるのも、方位として意味のある必然。
私は知らないうちに指を止めていた。
「理術院は創世格。奥殿と隣接し、
唯一“起点”と“根”を扱う。」
――創世格
――起点
――根
(……私がいるところって結構重要なとこだったの、?)
言葉が喉で止まって、胸の内で響くだけになる。
本を閉じると、天井画の英雄が視界に入る。神ではなく人の手で世界を次に繋いだ者。
(祈りの外側に、一歩、出た)
それを初めて自分の場所として理解できた。
閉館の鐘が、柔らかく響いた。神殿の鐘よりも少し低く、重さがあって、落ち着いている。
「そろそろ戻ろうか」
気付いたら大分読み耽っていたらしい。セオドールに促されて立ち上がる。司書へ軽く一礼し、私は手袋を外した。
空気が手の甲に触れる――それすら違う世界の温度に思えた。
外に出ると、日は傾き、石畳は赤みを帯びている。
行きと同じ道なのに帰り道は静かだった。神殿の塔が見えた時、不意に気づく。
(あそこは祈る場所で、ここは読む場所)
祈りは保つ。
学びは繋ぐ。
――役割が違う。
なら私はどちら側にも立てる存在であることが出来るのだろうか。その言葉が、胸の奥で不安と希望と入り混じってぐるぐるする。
錬金術師になりたいという漠然とした思いは錬金術師になるために学びたい”に変わっていた。
そこには揺るぎない私の意思があった。
大神殿の白壁が近づくにつれて、気づけば歩みは少しだけ早くなっていた。
(勉強しないと。ただ羨望の眼差しで見ているだけでは、過去ばかり振り返っているだけじゃ、前になんて進めないだ)
材料、基礎、理論、本。お金、手段、道筋。順番も、土台も、全部ここから。
神の前に膝をついていた私は、過去に囚われ蹲っていた私は
今日――ちゃんと自分の足で門の外へ出た。
神殿に戻る門が見える。
さっきまで知らなかった世界が、まだ目の奥で灯のように揺れている。
次に図書館へ来る時、私はもうただの案内されて連れてきただけの子ではいられない。学びに来る者として、扉をくぐりたい。




