episode21 錬金術師への道
門を抜けた瞬間、私は言葉を失った。
手前の広間はそれそれは静謐で神殿に似ているのに、まったく違う。
正面の吹き抜けは、天へ伸びる一本の大樹のようだった。太い円柱が根のように床を支え、上階に続く回廊は枝に似た曲線を描いて広がっている。
その枝先のような小回廊から、巨大な書棚が幾層にも垂直に伸び、まるで森が本でできている風景がそこにあった。
天井へ視線を上げると、そこには人々が描かれていた。鎧を着た英雄が立っているけれど剣は掲げていない。彼の手にあるのは輝く巻物。それを泉のように周囲へ渡していく。受け取る民の表情は、誰もが顔を上げている。
救済ではなく、継承。
神託ではなく、叡智。
祈りではなく、建築された文明。
胸が静かに痺れた。なぜだか少し泣きそうになる。
世界は神のものではなく世界を積み上げたのは人間でもあると、この空間がそう教えてくれてる気がした。
二階部分の回廊には梯子が組み込まれていて、司書以外が勝手に触れないよう細やかな鎖で区切られている。秩序。知識を見せるためではなく、きっちりと守るための造りだった。
床は黒大理石の上に象嵌ぞうがんで星図のような模様が埋め込まれている。歩くたび、わずかな光が石の粒で反射する。
紙の匂い、蝋の匂い、乾いた羊皮紙と布の匂いが静かに混じる。神殿の香りが聖なら、ここは記録の香りがする。祈りを捧げに来る場所ではない。世界を知りに来る場所。
私はひと呼吸おいてやっと気づく。
現代社会を生きていた私はすぐに調べられる、知ることができる環境を当たり前のように享受し、そうなるまでの過程も知らなければ、感謝もしていなかった。
誰かが守り、受け継いだ目の前の景色というものはとても尊いものなのだ。
隣のセオが、私の沈黙を見守ってにこにこしていた。本当にお兄ちゃんみたいな人だ。
私は今、祈りではなく知識の前に立っていた。
「こっちだよ」
セオドールが奥の受付台へ案内してくれる。
神殿の献納所に似ていたが、そこに立つ人物は神官ではない。
顔を上げた司書は淡青の衣をまとい、黒い髪は後ろできっちりと撫でつけられて束ねられている。表情は無機質で、けれど冷たさはなく、役目に徹する無色だった。ラシェルか。
「本の申請をお願いしたい。閲覧二名です」
司書は書板を音もなく差し出す。
「蔵書種別と群番号、若しくは蔵書名など分かるものがあれば」
「錬金術師入門・初等課程。それから錬金術全書の公刊版、あと大神殿沿革を」
「承知しました。写本区から一部ずつ搬送します。閲覧時間は刻三つまで。延長する場合は再申請を」
淡々と答えるその声は、静謐というより制度だった。ルールそのものが言葉を喋っているような意志を感じられないものだ。
セオが横目でこちらを見る。
「はい、ここ入館料が必要だからね」
差し出された受け皿に硬貨をいく枚か落とす。
チャリンとひとつ響いた瞬間、私ははっとした。
神殿に入ってから、払うという行為そのものをしていなかった。
生活は与えられ
寝床も与えられ
食事も与えられる。
けれどその代わり、収入も発生しないのだ。
(そういえばここで学び続けるなら、材料も、道具も、知識も、全部自分で買うことになるのか)
神殿では必要なものは支給される。でもそれは祈るため、働くための道具の分だけ。
(うわー、お金どうしよ)
胸の奥で、ひゅう、と正体の分からない風が吹いた。ただの入館料一枚で、外の世界は神殿と違うという事実が急に立体で迫ってきていた。
私は村でちょっとばかし貯めていたお小遣いの小袋を握りしめ、少しだけ唇が乾くのを覚えた。
「はい、確かに」
司書が淡々と告げる。手続きを終えると、また視線は奥へと戻っていった。
セオはくるりとこちらへ振り返り、
「じゃあ、ようこそ王立図書館へ」
と冗談めかすが、その冗談が不思議と背筋を伸ばした。私は神殿に置かれていた人間から、自分で歩き始めた人間になった。その違いをさめざめと実感したからだ。
「まずは荷物置き場から案内だね」
セオドールに伴われ、壁際の細い棚へ向かう。引き出しになっていて、小さな鍵穴がついている。巾着袋も、外套も、包みもすべて預ける形式らしい。
「本の上に私物を落とすと傷むから。あと、羊皮紙って汗や油で簡単に歪むんだ。だから机に持ち込むのは布手袋だけ」
セオは慣れた手つきで見本を示す。私は外套の紐を解きなながらそれに従った。神殿では人が清められるための規律があって、ここでは本が守られるための規律があるんだ。
荷物を収めると、閲覧席が並ぶ広間へ静かに進む。
机は天井装飾の下に沿って円を描くように配置され、どの席からも天井画が見上げられる。
一本の長机に椅子がいくつも並ぶのではなく、それぞれ独立した机が整然と配置されていた。学ぶことが個に還る場所。
私はセオと並んで一つの席に着く。木目は深くなめらかで、指先に触れると冷たいのに不思議とやわらかな温度がある。
「本は司書が持ってきてくれるから、待つ間にこれ」
セオが差し出したのは薄い布手袋。白ではない、灰青の上品な色。図書館の色なのだと、司書の衣装を思い出した。
軽やかな足音が近づく。司書が本を抱えて現れる。両手で、胸の前で、品位を失わない高さで。祭壇に供物を置くみたいな所作だった。
机の上にそっと置かれた第一冊目は、金彩のない簡素な装丁。けれど表紙の布地は良い手触りで、気安さと、敷居の高さが同時に滲んでいた。
ページをまだ開いていないのにそれを目に入れただけで言いようのない気持ちに胸の奥がきゅうっとなる。
ふと、セオの横顔が笑う。
司書の方が離れると周囲の静けさがいっそう濃くなる。私はゆっくりと指先に力を込め、表紙を持ち上げた。
ぱらり──。
最初の頁に書かれていた文字は、私が思っていたものとは違っていた。




