episode20 王立図書館
神殿の朝はいつも同じ時刻に始まる。
でも今日は列に並ばない。
祈りを終えたあと、清儀院の仕事区画へ向かわずにそのまま門を出た。ただそれだけのことなのに、肩の力がふっと抜けた。
今日は4日仕事を終えた後にある1日の休暇だ。外に出ることはもう申請してあった。
門を越えると、空気が変わる。
香りが多い。乾いた樹脂の香り、焼きたての薄パンの香ばしさ、道端の果実酒みたいな甘い残り香。神殿内でずっと抑え込まれていた色と音が、急に戻ってきたみたいだった。
(なんか街は、世界が動いている実感ができる)
白を基調とした神殿の中とは違い、通りは色とりどり。家々の屋根瓦は赤茶、露店の布は青や草色、干し草の束が金色に陽を払う。荷を積んだ馬車がぎしぎしと通りを進み、行商人の声がこだまする。ざくざくと人影が擦れ合い、風に流れる言葉の数すら増える。
下町はひとつの道の中に暮らしと商いが混ざっている。子供の笑い声のすぐそばを、旅装の商人が地図片手に歩いていく。繕い屋とパン屋が並び、その向こうに香料商がある。神殿とはなんというか真逆の構造だ。
歩くだけで胸がすこし浮く。そんな自分に気付き、苦笑いする。やっぱり気を張り詰めて生活していたみたいだ。村ではお休みの日なんてなく、毎日せっせと仕事をしていたはずなのに、大神殿で行うたった4日ほどの仕事がこんなにも疲れるだなんて。
昨日の夜、厨房裏にいたソラーナに訊ねていた。
『この飴玉、どこで買ったんですか?』
彼女は声を落として、にんまり笑っていた。
『見つからないようにしなよ? 神殿に持ち込む時は特に。多分初めて来た方じゃなくて正門の方から出て通り抜けて、大きい荷車の曲がる角を右。“めぐり樽”の看板が見えたら、そこの商会だ』
秘密の場所という感じはまったくせず、むしろ誰でも行けるけど、選ばなきゃ辿り着かない店みたいな響きだった。
(セオさんのところだったんだ)
自然に足が早まる。神殿では一歩ずつ一定速度でしか進めないのに、今は前へ前への逸る気持ちを抑えきれず引っ張られるように進む。
角を曲がると、それは本当にすぐに見つかった。
三階建ての石造り、正面は樽と葡萄木を模した大きな紋章。庶民の露店がひしめく道沿いで、そこだけ空間の格が一段持ち上がっている。
——めぐり樽商会。
思っていたよりも、はるかに大きいな。
(そういえば、セオさんの商会じゃなくて、セオさんの実家の商会なんだっけ…)
ぼんやりと、年季の入ったセオさんの愛荷馬車を思い浮かべて、もう一度建物を見上げた。
(セオさんはやっぱり地に足がついてる側だな…)
建物の厚みや門構えの意味まで、自然に伝わってきて扉の前で足が一瞬止まる。それでも仕方ないと手を伸ばすと扉は軽く開いた。店内は落ち着いた暗木調で照明は柔らかく、磨かれた陳列台が規則正しく並ぶ。
すぐに店員が出てきて、微笑を作る。
「——いらっしゃいませ。お探しの品はございますか?」
「あ、ええと、その……セオドールさんは、いらっしゃいますか?お約束はしていないのですが、ミュリアと申します」
店員の眉がほんの少しだけ柔らいだ。
わずかな認識の反応。「ああ」という色。
セオさんが私のことを説明しておいてくれたのかな?
「かしこまりました。お待ちくださいませ」
奥へ姿が消え、ほんの数分後、聞き慣れた声が軽い足取りと一緒に戻ってきた。
「お、合言葉は?」
心からの軽口。
神殿では二度と聞けない種類の声の掛け方だった。
ミュリアの頬が、ふっと緩む。
「セオさん、それ、要らないって言ったじゃないですか」
彼は肩をすくめて笑う。
「だって神殿帰りの顔してるからさ。確認したかったんだよ、僕のこと忘れてないかなーって」
それだけで、胸にわずかに残っていた鈍さが揺らいだ。
「それで今日は?買い物ついで?それとも逃亡?」
「買い物です!日用品とそれから、その……飴玉を」
「ああ、なるほど」
セオドールはちょっとだけ表情をやわらげる。
「はいはい、神殿の壁を溶かしてくれるやつね。缶で出そう」
商品棚の奥、木箱に守られるように並んだ瓶や缶の一角。そこには彩り鮮やかなものはなく、控えめな容れ物ばかり並んでいる。金張りの装飾もなければ、カラフルな菓子もない。けれど、その缶だけは少し違う。天面にだけ、陽だまりみたいな文様が彫られていた。
「“灯溜まりの缶”って呼ばれてる。見た目は地味だけど、ひとつあるだけで救われることがあるって評判のやつ」
「それ、すごくわかります」
昨日もらった小さな飴玉が思い浮かんだ。
それは味じゃなくて、やさしさの記憶だった。
セオドールは、わざと軽口の温度を少し落とす。
「ただし大前提。、甘味そのものは今の世じゃ贅沢品扱いだしさ。やっぱり需要と供給のバランスが大事だからあの神殿内で普及なんて絶対まだ無理なんだよね〜」
「……ですよね」
「まあこっそり持ってるやつ結構いると思うけど」
「えっ」
あ、私もか、と思ってふたり同時に笑う。声を出して笑うことそれ自体が懐かしいみたいに感じてしまう。私は石鹸と体や顔を拭く布、下着や肌着、メモ帳やペンをいくつかを選び、飴の缶を大事にひとつ抱えた。大事なものがひとつずつ、増えていっている。それだけでもう、この日が特別な休みに思えた。
会計のあと、扉の方まで送ってくれる途中で私はぽつりと口を開いた。
「セオさん」
「ん?」
「錬金術師になりたいって、私には大変な夢なのでしょうか?」
足が止まる。
通りのざわめきが、少し遠くなる。
セオドールは真面目な目をした。その表情はさっきの飄々とした微笑みを消して、それは淡々としているのに、冷たくはなかった。
「大変だと思うよ。けど決して無理なことではないから僕は君をここに連れてくる手伝いをしたんだよ」
胸の奥が柔らかく揺れる。
私はそのことを、誰より力強く肯定してもらいたかったんだなと理解した。
「でもミュリアちゃんさ」
「はい……?」
「たぶん君、自覚ないけど結構すっ飛ばしてるよ。本来なら貴族の子弟がアカデミーで習う一般常識の層。それが無いと錬金術の理論は土台に乗らないかもね」
「イレリウス様にちゃんと教わってる分野はあるだろうけど、それ、あくまで実務寄りというかちょっと偏ってるよ」
図星だった。
私は世界の形を知らないまま、神殿の中に急に置かれている。
イレリウス神父様も私の選択肢を広げるために敢えて、一つの分野に未知を絞らなかったのだろう。
「じゃあ、夢のためにはどこから始めればいいんでしょうか?」
セオドールは笑う。
「まず世界の地面を知るところからかな〜」
そう言って、ふと思いついたように手を打つ。
「王立図書館。この後時間あるなら案内してあげるよ。あそこなら知りたいことは大体全部揃ってる」
図書館——その言葉だけで、胸が少し跳ねた。
「いいんですか?」
「もちろん。僕ひとりで実家にいても邪魔者扱いされるだけだからね〜」
それは軽い言い草で、私に気を使わせない大人が見てとれた。やっぱりセオさんは地に足が付いている、立派な人だ。
商会前から少し先の停車場の一つにあった馬車へ乗り込んだ。台の木板の香りと車輪の軋みが、神殿とはまるで違うリズムを刻む。
数分揺れるあいだ、セオは話を思い出すように指を鳴らした。
「そうだ、すっかり失念してた件。ミュリアちゃんが神殿入りしてから——灯果の蝋燭、入荷しなくなるってことだよね?」
「あ……!」
「まだ在庫はあるけど、このままだと仕入れ先が空白。本当は相談しようと思ってた」
「原料さえあればいつでも作れますよ?手順は覚えてますし」
「原料がね。そもそも見つからないの。灯果は採取場所も実がなる周期も謎。普通の植物採取みたいにいかないよね」
「どこにあるか、誰も知らないってことですか?」
「ほとんどの人はね。ただ大神殿には薬草園があるだろう?」
「……薬草園!?」
体が前へ持っていかれた。
セオドールが笑う。
「やっぱ知らないか。一般開放はされてないし、ミュリアちゃんの所属してるとこの管轄でもないしね。珍しい薬草とか、南方原産の果実とかも育ててる。そこにあるなら、話は早いんだけど、」
まだ見ぬ果実の姿が、甘い光みたいに胸の奥で弾けた。
「まあ、急がないけどね。今は今のやるべきことがいっぱいあるでしょ?それより今日知る入口の方が先」
私が息を整えたところで、馬車は速度を落とし始める。建物の影が長く伸び、前方に大きな影が現れた。
王立図書館——
それは、神殿と同じくらい荘厳なのに神に捧げるのではなく人のために積み上がったものの威厳だった。
「……すごい……」
風が少しだけ冷える。
真正面に現れるそれは、高い城門のような迫力を湛えていた。
壁は淡灰色のライムストーン(石灰岩)で積み上げられ、朝露を吸った布のように柔らかな艶を帯びている。角張った軍建築ではなく、丸みを残した縁取り、曲線を描く壁面。神殿とはまるで違う、人の手で育てられた石という印象を与える。
中央には巨大なアーチ門。その上部一面に葉脈のような装飾が広がる。石でできた蔦が天に伸び、絡み合いながら十二の華を咲かせている。
(学問の庇護を示し、十二院とも呼応する意匠だ)
重厚な扉は木ではない——黒檀を思わせる深い色の金属板が張られ、蝶番は見えないのに生きている門のように気配だけを放つ。
扉脇に灯りはない。
しかし建物そのものが灰青の光を纏っているかのようで、近づくほど自然と姿勢が正されていく。
神殿と似ている。
けれど、決定的に違うのは神殿が「心を伏せさせる」造りなら、この図書館は「目を上げさせる」造りであること。
見上げると、屋根飾りの端に羽根と本を抱えた女神像が立つ。剣ではなく書物、冠ではなく灯火。それだけで、この場所が「祈りよりも記録を重んじる場所」だと分かった。
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扉に近づくと、今度は細部が迫ってくる。
取っ手ではなく、門全体に入った一本の溝。そこに手を添えると、まるで文の綴じ目のように広がり、揺れもなく開いていく。
石壁は冷たいのに、門の内側だけわずかに温かい—
それは火ではなく、人の温かさを感じた。
外観は聖堂に似せている趣がある。
だが、漂う気配はまるで違う。
似ているようで、似ていない。整えられた空間が作り出す静寂の種類が祈るために作られたそれとはまるで違った。




