episode19 飴玉の激励
朝の祈祷が終わると、自然と列がほどける。
私は回廊の途中でクラリサを見つけておはようございますと会釈した。
彼女は今日もやわらかく笑って「今日は広場の清めに入って」と短く告げる。
神前の広場は白い石の目地がまるで薄い川筋のように走り、祈りの行き交いでほんの微細な曇りが溜まる場所だ。
箒、塵取り、清浄布。
道具置き場の札の位置を確認して、私は石の継ぎ目から順に拭き始める。何をするにしても余計な音が立たないように気を張り詰める。
「——ちょっと」
背後から、張りのある声。
振り向けば、腕を組んだ同い年くらいの女の子が立っていた。くるくるの金のカールが光をほどいて、蜂蜜というより砂糖菓子の色にきらめく。ぱっちりとこちらを見つめる碧眼は真っ直ぐで、少し冷たい。
「フィオンレンティア・エルン。理術院神殿生です」
名乗り。姿勢は凛として、礼はきちんとされた。彼女は私の法衣を一瞥し、刺繍の点を見てから、淡々と続けた。
「あなたのことはラシェル様から伺っています。辺境の村から来た、イレリウス様のご縁で入った薬師の娘、だそうですね」
お、と思った。差別の刺し方ではないけれど、容赦はない言葉選びだ。
「忠告です。あまり調子に乗らないこと。錬金術師は高尚なお仕事です。魔力もまともに扱えない者がなりたいと思ってすぐになれる類の職ではありません」
声は丁寧、表情は厳格。
理に則った正しさだけが、ぴしりと私に向けられてくる。
私は法衣の裾を整え、頭を下げた。
手の内側が少し汗ばむ。けれど、言葉は乱さない。
「その節は、お騒がせして大変申し訳ありませんでした。……もう少し勉学に励みます。機会があれば、お力添えをお願いできれば幸いです」
言っていて、胸のどこかが沈む。
でも、嘘ではなかった。そう思っているのも本当だった。——はあ。
私がとぼとぼと掃き目を進めると、フィオンレンティアがぽかんと口をわずかに開けた。
すぐさま表情を戻し、ほんの少し、鼻を鳴らす。
「……分かればいいのです」
ぷい、と肩を返し、踵を返す。
残ったのは、規律の匂いと、胸の奥に小さく沈む鉛だけ。
(そりゃそうだよね……私はまだ、二日目で。何ひとつ出来てないし)
箒を置き、清浄布で最後の継ぎ目を拭っていく。落ち込み、乱れる気持ちを深呼吸してなんとか整えた。
⸻
食堂では昼一回の食事支度でもう一段の静けさが広がっていた。私は今日も配膳列へ回り、器を支える。音を立てない。渡さない、支える。
私がそこに入ってからすぐ、見覚えのある背の高い影がにゅっと伸びてきた。
「お、今日も頑張ってるな! ソラーナ、参上〜!」
おはよ、ミュリアと南方の陽みたいな笑顔。昨日と同じように、彼女は近くの同僚に声をかけ、配膳を交代してもらう。
「んじゃ、後ろの仕込み行こうか。……はい、今日の修行は——どん!」
台の上へ、じゃが芋の山。それから使い込まれた小さなペティナイフを一本、私の手に。
神殿の厨房は巨大な釜の息遣いがゆっくり脈打ち、湯気が低く漂っている。この空気は、なぜだろう——落ち着く。胸の奥の端っこが温かくなる。
「最初は上手くいかないかも、って言おうと思ってたけど——」
ソラーナは私の手元を覗き込み、すぐににんまり笑う。
「……うん、昨日の時点で分かってたわ。やっぱり器用だなあ」
くるくると皮を落としながら言うソラーナの声は軽い調子で、でも目はちゃんと褒めてくれる。
昨日の冷たい刃と違う、ひなたの温度。会話も自然にほどけていく。
「で、どうした?今日はなんか、肩が落ちてる」
私は手を止めずに、声だけ落とした。
「……錬金術師になりたい、って思って。ここまで、いろんな人の助けを借りて来たんですけど……軽はずみだったのかなって。無神経なことを言って、怒られてしまって……」
「へえ! なりたいんだ? すごいじゃん」
ほんの一拍も置かず、明るい返事。
ソラーナはニカっと笑い、刃を走らせながら続けた。
「うちは勉強からっきし。だからさ、意欲があって羨ましいし、偉いよ。それに上の人たちも、そんなに気にしてないと思うけどな」
「え、そうかな……」
「うん。意欲があって、夢があってさ、貪欲に頑張りたいって子を嫌いな人、いないよ。やり方は学ぶとしても、気持ちが折れてたら台無し。まずはそこからじゃん?」
ソラーナの声は、日向で干したての布団みたいにあたたかい。しかしその目は、可哀想ではなく同じ働き手を見る目だ。私はほっとして、肩の力が抜けた。
「……そっか」
「そっ」
そこで、彼女がふっと「あ」と顔を上げた。
タブリエのポケットを探り、薄紙に包まれた小さな小包を取り出す。
「これは——内緒だぞ?」
目線は周囲へすばやく。
清儀院でも理術院でも、間食は慎むべき贅沢。人目のある場所で見つかれば、厳しく取り締まられることはないが、非難の目が負けられる。だから彼女は、台の陰でそっと私の掌に落とした。
薄紙の中には、小さな、小さな飴玉。
透き通る乳白色、ころん、と丸い。
指の腹にふわりと甘い香りが移る。
「え、えっ……」
言葉が喉に引っかかって、私は思わずソラーナを見上げた。彼女はいたずらっぽく笑って、眉を片側だけ上げる。
「元気、出たか?こんなちっちゃいのにミュリアは頑張り屋さんだなあ」
胸がじん、と熱くなる。幼い頃、母の手元で見ていた白い湯気の記憶が、淡く重なって見えた。泣きそうだった。
「そろそろご飯の時間だ。今日もありがとな!続きは任せてくれ」
ソラーナはあっけらかんと笑い、私を厨房の外へ手でやさしく送り出してくれる。
私は薄紙ごと飴をそっと握り、法衣の小さなポケットへ押し込んだ。誰にも見られないように。
けれど、胸の内側にははっきりと、光がひとつ点った。
(……よし。がんばろ)
足取りが軽くなるのを、自分でも感じた。
回廊の曲がり角で、青縁の掲示板を確認する。
祈祷導線優先で通路は時間ごとに切り替わる。
最短は進めない時もある。
(…あ、そっか、最短では進めない、よね)
書簡ひとつ運ぶだけでも、今日の道筋を見てからが基本中の基本。ひとつずつ、遠回りしてでも、進めばいいのか。
私は自然とその手順をなぞり、歩みを進めた。
理術院の空気は相変わらず紙の乾いた匂いと蝋の落ち着いた光で満ちている。昨日より少しだけ背が伸びたみたいに、立ち番の人へ「こんにちは」と声が出た。向こうも軽く顎を引く。それだけのやりとりが、やけに嬉しかった。
机の列に戻ると、ラシェルが視線だけこちらに寄越す。私は一礼し、仕事の束を受け取った。封蝋、仕分け、札、紐、角揃え。慎重に、でも手は速く。
求められた以上に。
その言葉を胸の奥で転がしながら、私は一枚一枚、今日の自分を積み直していく。
ポケットの薄紙が、かすかに衣の布へ触れた。誰にも見えない、小さな秘密。でも、それだけで——世界は少し、甘い方へ傾いて見えた。
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