episode00 夢の記憶
うちは他の子ども、いや他の家庭とは全然全くと言っていいほど様子が違った。
いつも何か、どこかが欠けていた気がする。
それが「お金」なのか「愛情」なのか
子どもの私には分からなかったけれど、家の空気はじんわりと身体にまとわりつくようにいつも湿っていた。
古い団地の壁紙はところどころ剥がれて、冬になるとカビの匂いがした。
母は働きづめで、父は週の半分は帰ってこない。帰ってきたとしても、ろくに言葉も交わさずに喧嘩を始める。
「あなたが悪いのよ」
「俺のせいにするな」
夜中の口論が壁越しに聞こえるたびに、私は毛布の中で息を殺した。
なんだかいつの間にか「私がいるから喧嘩してるのかもしれない」と思うようになっていた。
学校では、きちんとした家の子が羨ましかったし妬ましいとも思っていた。
お弁当の袋から甘い卵焼きの匂いがする子。
新しい筆箱を持ってくる子。
アイロンの掛かった洋服を着ている子。
ゲームをこっそり持ってきて怒られている子。
私は誰よりも早く家を出て、誰よりも遅く帰った。
家に帰っても、温かなご飯も明かりもない。
テーブルには200円だけが置いてあった。
母が遅く帰る日は、夜遅くまでやっているスーパーで買った値引きされたお弁当を冷たいまま一緒に食べていた。母は私を見て何をいうでもなく、ただよく泣いていた。
それが当たり前だと思い込むことで、なんとか惨めな自分を誤魔化していた。
中学の終わり頃には、私は普通の子でありたいと望むのも羨むのもやめた。
テストの点もどうでもいい、と言ってはなんだけど、みんなが塾に行けても私は行けなくて、みんなが参考書を買えても私は買えない。
その現実から必死に目を逸らしていた。
それでも学校は家より幾分か居心地が良かったので、
制服を少し崩して、誰かの陰に隠れてなんとか紛れて笑っていた。
そうして友達と一緒にいるときだけ自分も普通な気がしていた。でもみんなは当たり前に夜になると帰る家がある。
私は公園のブランコに座って、補導されないぎりぎりまでいつも外にいた。
いつまでこんな毎日を過ごして、惨めな自分を慰めて生きていかなくてはならないのか。
強く握りしめたまま、空を見上げた。
「こんな家、早く出ていってやる」
あの頃はそう何度も何度も呟いていたのを覚えている。
高校を卒業してすぐに一人暮らしを始めた。
製菓の専門学校に通いながら、朝はパン屋、夜は居酒屋。たまにコンビニ。
休みの日なんてものはなく、ただひたすら働いていた。寝る時間を削ってでもがむしゃらに働いていた。
お金を貯めたかった。
手に職をつければ、もう誰にも縋らなくて済む。自分の足で生きていける。そう信じていた。
まだ成人も迎えてない自分にため息をつく。
製菓の専門学校を選んだのは、本当にたまたまだった。羨ましかったのかもしれない。私はこの歳になるまで甘いものなんて食べた記憶はなかったから。
夢を見たかったのだ。甘くとろけるような夢を。
オーブンからふわっと立ちのぼる甘い匂いを嗅いでいる間は私はこの世界で生きてもいいかもしれないと思うことができた。
生地を混ぜ、焼き色を確かめ、形を整える。
誰にも邪魔されない小さな小さな私の世界がそこにあった。
それでいて、頬が引き攣るような愛想笑いも、相手を責め立てる怒鳴り声も、もう私を惨めにさせるものなんてない。
やがて、技術はみるみる上達した。
頭は悪くても、手元や思考は早かった。怒られないように振る舞うのも得意だし、怒られても決して泣かなかった。つらいと思うことも今思えばなかった気がする。頑固な性格も良い方に出た。
「お前は根性があるな」と言われると、少しだけ誇らしかった。
コンクールに出してみろ、とシェフに言われて、出した作品がこんなにも簡単に賞を取った。新聞に名前が載った。私は満足していた。
成功すれば、いつか父も母も認めてくれると思っていた。
その後、私はパリに渡った。
ワーキングホリデーで、シェフの知人の店で働かせてもらえることになったのだ。
パリは慣れない土地でも不思議と居心地が良かった。
朝は市場、昼は厨房、夜は語学の勉強。
仕事のためなら苦手な勉強も苦にならなくて、気づけばフランス語も英語も話せるようになっていた。
見窄らしいあの家の子だった何もできない自分とは、もう違う。
そう思いたかった。
でも、どんなに頑張っても心の奥に冷たい穴が残った。
夜、店を出たあと、エッフェル塔の灯りを見上げながら、なぜか涙がこぼれることがあった。
「誰かに見てほしい」
そう思っても、その誰かの顔がなんだかもうぼんやりとしか浮かばなかった。
いつからか、母に電話をしなくなった。
連絡は仕送りだけ。
それで十分だと思った。
「お金を送ってる、それで親孝行は果たした」と。
ほんとうは、自分の方が逃げていたのに。
そんなある日、スマホが震えた。
いつぶりだろうか、画面に表示された名前を見て、心臓が強く跳ねた。
——お母さん。
そのとき、私は電話に出なかった。いや、出れなかった。仕込みの最中で手が離せなかった、し、そもそもいまさらそんな勇気はなかった。強くなったと思った自分はそこにはどこにもいない。
まだ、ひとりぼっちで惨めな私のまま。
後でかけ直せばいい。
そう思ったまま、その日は簡単に過ぎていた。
留守電が入っていると気づいたのはその日の深夜だった。部屋の隅で正座をして意を決して再生した私は、数秒後、息を止めた。
『◯◯病院の看護師の○○と申します。◯◯様のお電話番号でお間違えないでしょうか?』
そこから先の言葉を、私は覚えていない。
ただ、その声の向こうに母の終わりがあることだけは分かった。
日本に戻る飛行機の中で、私は泣けなかった。
泣く資格なんてないと思っていた。
病院のベッドにいた母は、驚くほど小さくなっていた。
頬はこけ、目の焦点は宙を彷徨っていた。
「お母さん」
声をかけても、反応はなかった。
それでも私を見ていた。
虚ろな瞳に、私が映っていた。
あの頃、反抗して叫んだ「うるさい!今さらもう私に構わないで!」の声。
「勝手にしなさい!」という母の震えた背中。
全部が、今になって胸を締めつけた。
もっと話せたはずだ。
もっと早く帰れたはずだ。
仕送りだけで満足していた自分が、急に恥ずかしくなった。
私は何もわかっていなかった。
母がどんな思いで、私を育ててくれたのか。
母がどんなに必死になって働いていたのか。
なんでそこまでして、
私はあなたが生きててくれるだけでよかったのに。
私のことは気にせず、幸せに暮らしてくれれば
それで。
ーーーーーーピー ピー ピー
モニターが電子音を刻む。
看護師が静かに何かを告げる。
白い光が眩しい。
涙が出ない。
嗚咽の代わりに、喉の奥からかすれた声だけが漏れた。
「ごめん、ごめんね……」
その言葉が、母に届いたかどうかも分からない。
気づけば夜になっていて、私は病院の外にいた。
どこに行けばいいか分からず、足が勝手に実家があった方へ向かっていた。惨めな気持ちの残る湿気たあの家へ。
気付けば雨が降っていた。
冷たい雨だった。
傘を持っていないのに、立ち止まる気にもなれなかった。
街灯の光が水たまりに滲んで、世界がゆっくりと溶けていく。
歩きながら、ずっと母の声が頭の中に響いていた。
——ちゃんと食べてるの?
——うまくやれているの?
——風邪をひかないでね。
それを鬱陶しいと、今さら干渉してこないでと、思っていた昔の自分を思い出して、馬鹿馬鹿しくて笑った。
笑って、すぐに泣きたくなった。
「……ねえ、お母さん、」
声に出した瞬間、視界が白く弾けた。
タイヤが滑る音。
世界が回転する。
何かが砕けて、静寂だけが残った。
あっけなかった。
私の人生も、母の人生も。
こんなものなのか。
争いたかったものは。
欲しかった未来は。
——こんなもので、よかったのか?
白い光が遠ざかっていく。
胸の奥の痛みも、すべてが薄れていく。
最後に見えたのは、雨に滲む街灯と、
母の笑った顔の幻。
私は静かに瞳を閉じた。
音も、痛みも、すべてが消えていく。
——そして、誰かの声が聞こえた。
「……ミュリア、そろそろ起きる時間よ?」
やさしくて、あたたかい声。
それが、次の世界で私が最初に聞いた音だった。




