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34.


 あと少しで完璧な思い出になるはずだったのに。このふたりが、この先もずっと心の支えに出来るようなそれに。

 それでなくとも無理に押し切った企画だ。どんな方向から、どんなケチをつけられるかわからない。イレギュラーな新しい挑戦を、失敗させたくてうずうずしている輩は役所の中にも山といる。

 そうなれば、晴臣の立場もますます悪くなる――


 落ち着け、と椿は自分に言い聞かせた。

 落ち着け。心を凪に保つのは、ついこの間まで得意技だっただろ――

 城高の受験のときだってこんなに集中しなかった、と思うほど、一瞬でぎゅっと頭を絞る。


 どうする? 


 一番まっとうで妥当なのは、連絡して別の舟を迎えによこしてもらうことだろう。

 でも今日は別ルートで炬燵舟も稼働していて、舟はみんな出払っているはずだ。それが戻ってくるまでここに立ち往生か?

 辺りはどんどん冷え込んでくる。こんなところに晴れの日のふたりを往生させて、やっとやって来た舟に乗せる? 婚礼用にしつらえたわけでもない舟に? 


 だめだ。


 答えを先にひねり出したのは、頭より心だった。

 唇の動きだけで龍介に伝える。


 う た え 。


 意味を図りかねたのか、龍介は胡乱げな顔をしていた。


 俺が、なんとかするから、気をそらして。


 あらためてゆっくりと身振り手振りも交えて伝えると、龍介は釈然としない様子ながらも頷いた。すう、と息を吸う。

 歌い出したのは、いつもの観光舟でも唄っている地元の民謡だ。

さすが一年時は問答無用でスタンドで声出し要員の甲子園常連校出身だけのことはあり、王と李は椿の思惑通りその朗々と響く声に気を取られている。


 いいぞ。


 椿はモーニングの上着とベストを脱ぐと、そっと水の中に身を浸した。


「――つ、」

 冬は水の中のほうが温かいなんて言うけど、嘘だな。

 王と李は自分たちを祝福するかのような景色、そして突然の歌声に感極まった様子で手を取り合い、身を寄せ合っている。


 そんなふたりからそっと距離をとった晴臣がこちらに気がついて、大きく目を見開いた。

「――」

 なにか言いさすのを視線で遮って、水面を指さす。唇の形だけで「エンジン」と告げると、察しのいい晴臣はそれですぐに押し黙り、深く頷いた。

「……俺が押すから、早坂さんはなにごともなかったふ」


 小声で告げ切る前に、あろうことか晴臣は、自身も上着を脱ぐと水の中に入ってくる。


「ば……っ」

 今度は椿が声を上げそうになる番だった。


  晴臣は椿の唇の前に人差し指を差し出して、それを封じた。

「椿さんひとりじゃどうにもなんないでしょ。そんな細腕で」

「細腕って!……と」

 張り上げそうになった声を慌てて押しとどめる。ふたりに気づかれたら、元も子もない。

 押しますよ、と眼差しで告げられて頷く。

堀はさほど深さはないとはいうが、どちらかと言えば長身の部類に入る自分や晴臣でも足はつくかつかないかだ。一旦体が沈むに任せてからぎりぎり触れるつま先で水底を蹴る。その力で舟を押す。

「――ッ」

 鼻から水が入ってつんと痛むが、ぐっとこらえると、やがてその痛みも消えた。

なくなったわけではなく、全身を襲う冷たさでなんだかわからなくなったのだ。


 どうかしてる。

 もっと安全で確実な方法も考えればあったかもしれない。

 それでも懸命に水底を蹴る。


 隣では、晴臣が同じように舟を押していた。

 正装に合わせてなでつけていた髪はもちろん水に濡れ、額に落ちかかる。時折それを鬱陶しげに頭を振って払いながら、それでも黙々と舟を押す。


 舟首では唄い続けたまま龍介が竿を巧に使い、舟はどうにかカフェへと向かう脇の細い水路へと進んだ。


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