84.言葉に乗せて
「アイラ。俺は―――君が、好きだ」
とても嬉しそうに、エルヴィスがそう言って笑う。
アイラはその言葉を、想いを、涙でぐしゃぐしゃになった顔で受け止める。とてもじゃないが、笑顔を返す余裕はなかった。
悪意ある言動に傷つき、部屋に引きこもり、消えていく命の灯火を受け入れるしかなかったアイラを、救いに駆けつけてくれた人。
それがエルヴィス・ヴァロアという騎士団長であり、アイラが騎士を目指すきっかけとなった大切な人だ。
そして、アイラに恋を教えてくれた。
けれど、それだけではない。
今の話を聞いて、アイラがエルヴィスに抱いた感情は、とても言葉で言い表せるものではないのだ。
「………エルヴィス団長が…」
震える唇を動かし、アイラはそれでも言葉を選ぶ。
目の前にいる大切な人に、きちんと向き合いたいと、そう思いながら。
「……あなたが、ずっと私を護っていてくれたのですね…」
十三歳の誕生日パーティーで、初めて会ったときから、ずっと。
アイラの知らないところでも、エルヴィスは護り続けていてくれたのだ。
言葉と共に、目に溜まっていた涙がポロリと零れ落ちた。
エルヴィスはその涙を親指で拭いながら、困ったように微笑む。
「護りきれていないのが、悔しいところだけどな」
「……っ、そんなこと…」
「あるさ。どちらかといえば、俺よりもトリシアが君のことを護ってくれたな」
そう言いながら、エルヴィスの手が優しくアイラの髪に触れた。
「……ずいぶんと、髪をバッサリと切ったんだな?」
「あ…はい。騎士となると決めて、家族を説得させるために…」
「それは…クライドが驚く顔が目に浮かぶ」
楽しそうに笑うエルヴィスに、アイラの胸はきゅうっと締め付けられる。
気付けばそっと手を伸ばし、エルヴィスの目元に触れていた。
「……アイラ?」
真っ赤に燃えるような、紅蓮の瞳。
この瞳が死神のようだと例えられていたようだが、アイラにとっては真逆で、命を救ってくれた色だ。
あの日、薄れゆく意識の中、ぼんやりとしか見えなかった視界でも、やけに鮮明に映った赤。
今あらためてじっと見つめてみても、思い浮かぶ感想は一つだけだ。
「………綺麗、です」
アイラはようやく、ふわりと優しく微笑むことができた。
切なげに揺れる瞳は、あの日のことを思い出しているのだろうか。その眼差しごと全て、抱きしめたいと思ってしまう。
―――“愛おしい”って…こういう気持ちのことをいうのかしら…。
胸の中にじわりと温かい感情が湧く。
今この場には、アイラとエルヴィスの二人だけ。ならば、この感情に素直に従ってもいいかと、アイラはそう思った。
「…………!」
エルヴィスの胸の中に飛び込むと、広い背中に手を回す。
途端に居心地の良さに包まれ、アイラはくすりと笑った。エルヴィスの体が強張っているのが分かり、さらにぎゅうっと抱きしめる。
「……これは、何かの拷問か?」
「拷問?……あっ、嫌でしたか?すみませ…」
「違う。どうしてそうなる」
慌てて離れようとしたアイラを、エルヴィスが一層力強く抱きしめた。
もう離さない、といわんばかりの力強さに、アイラは負けじとぎゅうぎゅうと力を入れる。
やがて、どちらともなく笑い声を上げた。
「……ははっ、これは一体なんの力比べだ?」
「……ふふっ、本当ですね。想いの強さですかね?」
笑みとともに零れ落ちたアイラの言葉に、エルヴィスがピタリと動きを止める。
アイラは少し離れてその顔を見る。すると、なんとも言えない表情を浮かべていた。
「想い、とは…尊敬とか、そういう類いの意味か?」
「いいえ。もちろん、尊敬もしていますけれど」
「じゃあ、一体……」
眉を下げるエルヴィスを、アイラはじっと見つめた。
全ての話の聞き、受け止めたアイラは、ようやく抱えていた想いを打ち明けることができる。
「―――私も、好きです。エルヴィス団長」
言葉にすることで、想いは増すのだとアイラは実感した。
ずっとずっと、アイラを護っていてくれた優しい人。好きだとか愛しいとか、そういった幸せな感情がぶわっとアイラの中で溢れ出す。
心からの笑顔で、アイラはまたエルヴィスに抱きついた。
「好きです。大好きです。……伝えるのが遅くなって、ごめんなさい」
「…………これは、夢か?」
頭上から、困惑したような声が降ってくる。それが可笑しくて、アイラは笑った。
「もう人生をやり直すのは、私は嫌ですよ?今が一番、幸せなのですから」
「……夢じゃないなら…俺も、もうやり直したくはないな」
もう一度、エルヴィスが力いっぱいアイラを抱きしめてくれる。そして、そっと頭を撫でられた。
「俺の…婚約者に、なってくれるのか?」
「はい、もちろんです。……でも、本当に私でいいのですか?」
少しだけ体を離し、ちらっとエルヴィスを見上げたアイラは、言葉を続ける。
「自慢じゃありませんが、私の評判はあまり良くありませんし…」
「それを正すための、女神作戦だろう。それに、俺だって貴族からの評判は悪いぞ」
「エルヴィス団長を悪く言う人は、私の敵です」
「奇遇だな。俺にとってもアイラを悪く言うヤツは、俺の敵だ。それに…周りにどう思われようと、君がいればそれでいい。それ以上は何も望まない」
エルヴィスの温かい手のひらが、するりとアイラの頬を撫でた。
アイラがここにいることを、確かめているような触り方だった。
「……私も、です。エルヴィス団長がそばにいてくれるだけで、私は何でもできる気がします」
「……俺も、同じだ」
エルヴィスがフッと笑い、アイラの唇にそっとキスを落とした。とても優しく、想いの伝わるキスだった。
唇が離れ、アイラとエルヴィスは見つめ合う。
言葉にしなくても、想いが伝わってくる。そんな相手に出逢えたことが、アイラは奇跡だと思った。
再びエルヴィスの顔が近付いて来たそのとき、アイラは「あっ」と短く声を上げた。
エルヴィスの動きがピタリと止まる。
「………どうした?」
「そういえば私、デレクとリアムには、人生をやり直していることを話しているんです。……問題ないですか?」
「ああ…大切な友人だろう。別に構わない。俺もロイにだけ話しているしな」
「ロイさま…もう一度お会いできますかね?」
アイラの問いに、エルヴィスは一瞬考えるような素振りを見せてから、渋々と頷いた。
「……そのうち、時間を作ろう」
「ありがとうございます!改めてお礼を言いたかったのです…あと、クローネはどうしていますか?ネイトさまとサイラスさま、マーヴィンさまも……んっ」
アイラの唇を、エルヴィスが塞ぐ。
あくまで優しいキスだったが、そこに不満の感情が乗っているのが分かった。
「……怒っていますか?」
「そうだな。せっかくの二人の時間に、他の男の話をしたくはない」
ムスッとしているエルヴィスを見て、アイラは笑った。可愛いな、と思ってしまったのだ。
ところが、笑ってしまったのがいけなかったらしく、エルヴィスの瞳が鋭く光る。
「……余裕だな?アイラ」
「えっ?」
次の瞬間には、再度唇を塞がれる。
先ほどとは打って変わって、まるで貪るかのようなキスに、アイラの頭は一気に沸騰した。
「ん、んむぅ〜!」
なんとも色気のない声を上げながら、エルヴィスの胸元をドンドンと叩く。
それでも解放してはもらえず、後頭部を支えられながら、アイラは床へと倒れていく。
「………はぁっ…」
ようやく解放されたアイラは、ぎゅっと瞑っていた瞼を持ち上げ、大きく息を吸い込んだ。
綺麗に澄み渡る空と、嬉しそうに微笑むエルヴィスが目に入る。
「……俺はまだまだ足りないんだが、どうする?」
「…………む…むりです…」
アイラはなんとか声を絞り出してそう言った。恥ずかしすぎて、顔から火が出そうだった。
「そうか。残念」
くすりと笑いながら、エルヴィスはアイラの額に短くキスをする。
その悪戯で妖艶な表情に、アイラは目眩がした。
―――し、心臓がもたないわ…!
新たな命の危機を感じながらも、アイラの心は今までで一番満たされていくのだった。
◇◇◇
階段を下りながら、アイラは顔を真っ赤にしていた。
「あの…エルヴィス団長…」
「ん?」
「……その、手を……」
もごもごと口を動かしながら、アイラは繋がれた手を見る。
想いを伝え合い、キスを交わし、婚約の約束もした。
これほど幸せなことはないし、繋がれた手から伝わる熱も心地良い。……けれど。
「団長、見せつけるのやめてもらえません?」
「そうですね。見てるこっちが恥ずかしいです」
「……………んぐぅ」
けれど、今は二人きりではない。
フィンがじとりと睨みつけてくるし、リアムは呆れ顔を向けてくるし、デレクは不思議な声を発している。
対してエルヴィスは、それはそれは嬉しそうな顔をしていた。
「無理だな、離せない。気になるなら見なければいいだろ?」
「視界に入るんですよ!団長のニヤけきった顔と一緒に!」
フィンは声を荒げながら、「全くもう!」とため息をつく。
「とにかく、この先はアイラと離れてくださいね?遊びに行くんじゃないんですから」
「………」
「無視ですか!?……アイラ、こんな団長どう思う!?」
話を振られ、アイラは顔を赤くしたまま苦笑した。危うく「可愛いと思います」なんて言ってしまいそうだった。
今向かっているのは地下牢で、フィンの言う通り、気を緩めていい場所ではない。
エルヴィスもちゃんと分かっているはずだ。
アイラたちはこれから、地下牢にいるネイトとサイラス、マーヴィン…そして、クローネに会いに行く。
地下牢の入口にいた衛兵が、エルヴィスの姿を見るとピシッと姿勢を正した。
……が、アイラと繋いだ手が目に入ったのか、目を見開いて口がポカンと開く。
「……お、お疲れさまです…?」
挨拶も疑問形になってしまっている。フィンが「あーあ、団長の威厳が今失われましたよ」とボソッと呟いた。
その言葉を聞いて、アイラは慌てて手を離す。エルヴィスが傷付いた顔をした。
「……嫌だったか?」
「い、嫌じゃありませんっ!……でも、エルヴィス団長の威厳が失われるのは嫌ですっ…」
自分のせいで、エルヴィスが今まで築き上げてきた、騎士団長という地位が揺らぐのだけは嫌だった。
アイラの必死の訴えに、エルヴィスは一瞬考える素振りを見せたあと、フッと笑う。
「そうか…。なら、二人のときは覚悟しておいてくれ」
「…………えっ」
「さあ、早く行くぞ」
思わず固まったアイラを置いて、エルヴィスがスタスタと歩き出す。
フィンとリアムが同情の視線を向けてきた。デレクはずっと唇を結んでいる。
「団長とアイラが二人きりのときは、誰も近づかないようにしておかないとかな」
「そうですね。うっかり近づこうものなら、斬り捨てられるかもしれませんね」
「………………んぐぅ」
一体、エルヴィスの言う覚悟とは。アイラは思考を一旦放棄して、静かに足を進め始めた。
地下牢の入口の扉をくぐると、何やら騒がしい声が聞こえてくる。一番奥の牢からだ。
牢の前に立つ衛兵は、とてもうんざりした顔で眉を寄せていた。
「……ああ〜、毎日毎日よく飽きないなぁ」
フィンがため息と共にそう言い、ちらりとアイラを見た。
「アイラ。君がクローネを心配してたとき、俺が何て言ったか覚えてる?」
「……はい。困ったことになっていると…」
そう答えながらも、アイラたちは奥へと進んで行く。クローネは自ら牢に入ると言って聞かなかったらしいが、困ったこととは何なのだろう。
牢に近付くに連れ、フィンの言う“困ったこと”とは何なのかが、すぐに分かった。
「……はあ?もう一度言ってみなさいよ、このくたばり損ない!」
「……くたばり損ないぃ〜??だから、こんな口の悪い令嬢なんて貰い手がないって言ったんだよ!」
「「……………」」
一番奥の広い牢の中で、クローネとサイラスが互いに罵り合っている。
そして、そんな二人を牢の隅で黙って見ているネイトとマーヴィンがいた。心なしか、その顔はげっそりとやつれたように見える。
アイラたちに最初に気付いたのは、ネイトだった。
「……………っ、」
慌ててその場に立ち上がったネイトが、アイラに向かって深々と頭を下げた。
その様子を見て、クローネ、サイラス、マーヴィンもアイラたちに気付く。
真っ先に鉄格子まで駆け寄ってきたのは、瞳を潤ませたクローネだった。
「アイラさま……!!よ、良かっ…、ううぅ〜…」
クローネがボロボロと涙を流し、鉄格子を掴んだまま、ずるずると崩れ落ちた。
アイラはクローネに近付き、その手にそっと触れる。
「……クローネ、ひとりでよく耐えたわね。……ご家族は、もう平気なの?」
「……っ、は、はい…!みんな、回復に向かっています…!」
クローネの両親や邸宅の使用人たちは、サイラスに命を握られていた。
サイラスを捕らえ、意識が回復したあと、無事に薬を回収することができたと聞いていたが、どうやらもう命の心配はないようだ。
「そう……良かったわ」
「ハッ、吐き気がするほど偽善的だね君は。なんなの?女神にでもなったつもり?」
ホッと息を吐いたアイラに向かって、毒づいてきたのはサイラスだった。
アイラの周りの温度が一気に下がる。みんなが睨むようにサイラスを見ていた。
特にクローネの変わりようがすごい。“氷の女騎士”と呼ばれているのがようやく分かった。
口元に手を添えながら、アイラは「ええと、」と考えながら口を開く。
「……そうね。女神にはこれからなる予定よ」
その言葉に、皆が毒気を抜かれたように目を丸くした。
すぐにフィンが笑いだし、つられたようにデレクとリアムも笑みを零す。エルヴィスも優しく微笑んでアイラを見た。
アイラはこの先に実行される予定の“女神作戦”のことを思い出し、そう答えたのだが、その作戦自体を知らない牢の中の人物たちはポカンとしている。
サイラスの口元がヒクヒクと動いた。
「……こ、これから女神に…?頭おかしくなったんじゃない?この子…あたっ」
「おい、さっきから失礼だろう」
ネイトがサイラスの頭を叩き、ちらっと遠慮がちにアイラへ視線を向けてきた。
「すまない。その…俺もサイラスも、謝るだけでは許されないことをしたとは分かっている。それでも、何度でも謝らせてほしい。それから…ありがとう」
「……ネイトさま…」
弱々しく微笑んだネイトは、まだ本調子ではないのだろう。サイラスも威勢はいいようだが、顔色は悪い。
ネイト、サイラス、マーヴィンは、許されないことをした。
罪のない人たちを巻き込んで騒ぎを起こし、傷付けた。さらにネイトとサイラスは、禁術に手を出してしまった。
クローネはネイトに成りすましていたサイラスに脅されていたため、誘拐に加担した罪は軽くなるかもしれない。
けれど、彼らの罪を軽くすることは、アイラにはきっとできない。
世間に公表はしないということで落ち着いたが、人知れず裁かれることになるのだろう。
―――ラトリッジ公爵の名を、二人が継ぐことはないわ。公爵は先が長くないようだし、没落してしまうことになる。
大きな騒ぎになりそうだけれど、どういう経緯を世間に発表するのかしら…。
そこまで考えたアイラは、ふとある作戦を思いついて「あっ」と声を上げた。
周囲の視線を一斉に浴びつつ、アイラはネイトとサイラスを交互に見ると、にこりと笑みを浮かべる。
「ネイトさま、サイラスさま」
「……何だ?」
「……待って兄さん、嫌な笑顔だよこれは…」
何かを感じ取ったのか、サイラスが眉を寄せた。アイラはふふっと笑う。
「―――お二人とも、悪役になってくれませんか?」
女神になるためには、引き立ててくれる悪役が必要だ。
アイラはそこで、初めて周囲が悪女だと思うような笑顔を見せたのだった。




