83.エルヴィス・ヴァロアの物語⑨
最初、エルヴィスは何が起きたのか分からなかった。
焼け付くような熱さも感じず、目の前で命を落としかけていたアイラの姿もない。
見慣れた団長室のベッドの上で、勢いよく体を起こす。
「…………な、にが…?」
両手のひらを前に出し、ぐっと拳を握っては開いてを繰り返す。
ベッドから降り鏡の前に立てば、寝汗で黒髪が額に張り付いているエルヴィス自身の姿があった。
―――夢…?そんなバカな。
あんなに鮮明な夢があってたまるか、とエルヴィスは思った。……となれば、考えられる可能性はひとつ。
いつものように手早く身支度をして、団長室の扉を開けて廊下に出れば、危うく誰かとぶつかりそうになった。
「………っと、危ねぇな。そんなに急いでどうした?」
「……………シリル?」
何かの報告に来たのか、シリルは落ちてしまった書類を拾うと、「ん?」とエルヴィスを見る。
元副団長のシリルは、完成した砦に異動したはずだった。それが今、この城にいる。
エルヴィスは心を落ち着かせながら問いかけた。
「……砦の完成は?」
「は?……何だ、まだ寝ぼけてるのか?もう完成しただろ。そんでもって、もうすぐ俺たちは異動する。いろいろ引き継ぎに関して報告が…って、どうした?」
額に手を当てて俯くエルヴィスに、シリルが不思議そうな声を出す。
砦は完成している。副団長も引き継ぎしている。もうすぐシリルたちの異動。
頭の中で考えを組み立てたエルヴィスは、この現実を受け入れるしかなかった。
―――約三年前に、時が遡っている。凄すぎる魔術具を開発したな……トリシア。
トリシアの魔術具は、どうやら正常に作用したようだ。
遡った期間も、トリシアが魔術学校の入学試験を受ける前…つまり、アイラも試験を受ける前だ。
これが現実なら、アイラをあの炎の中から救い出せたということになる。ただ、完全に安心できるわけではない。
―――アイラは、自分で直接魔術具に魔力を込めたわけじゃない。俺の魔力を介したんだ。
だから、俺も一緒に時を遡ることになった。……いや、そもそもアイラも遡っているのかは分からない。
トリシアの魔術具が、一度で二人に効果をかけることができたのか、それは分からなかった。
もし時を遡れるのが一人だけなら、エルヴィスにしか効かなかったことになる。
けれど、確実に“今の世界”にも、アイラはいるのだ。
「おーい、エルヴィス?」
「……悪いシリル、急用だ。しばらく部屋に籠もる」
「へ?あ、おい…」
エルヴィスはそう言うなり、シリルの静止を無視して部屋に戻った。
そのまま窓を大きく開けると、ロイの姿を探す。
木の上にいたのだろうか。エルヴィスに気付いたロイは、素早く枝を伝って窓から部屋に滑り込んだ。
「どうしたぁ?朝からお呼び立てとは珍しいな」
「至急、調べて欲しいことがある」
「……あいあいさー」
エルヴィスの異様な雰囲気を感じ取ったのか、ロイは茶化すことなく指示を聞いていた。
すぐに窓から出ていく姿を見送ると、エルヴィスは魔術具を掴む。
―――トリシア。お前が護りたかった友人は…アイラは、俺が責任を持って護り抜く。
それが、時を遡った自分に新たに与えられた使命なのだと、エルヴィスは思った。
これから先、三年後までに起きることを知っている。それだけで、エルヴィスはだいぶ有利に動くことができた。
トリシアが魔術学校の試験に合格し、入学するところまでは変わらない。
けれど、入学前にトリシアの技術を魔術具開発局に売り込み、在学中にも見習いとして働けることが決まった。
この先に待ち受ける未来を知らないトリシアは、エルヴィスの行動をとても不思議に思っていた。
けれど、それだけでは不十分だった。
結局、アイラとトリシアを陥れた犯人は、誰だか分からない。ただ、この先にアイラを襲うことになる男子生徒は分かる。
前回の事件の後、ロイに素性を調べ上げてもらっていたのだ。
そして今回もロイに暗躍してもらった。その男子生徒は入学前にもそこそこの悪事を働いており、その現場を捕らえてもらうことにした。
見事に捕らえられた男子生徒は、魔術学校に入学せずに終わる。
この男子生徒を捕らえたところで、また別の男子生徒が充てがわれる可能性はあった。けれど、エルヴィスは少しでも可能性を減らしておきたかった。
あとは、トリシアがアイラと友人になったあと、なるべく早く紹介してもらおうと思っていた。
騎士団長という立場を利用して、正面から護ろうとしたのだ。
けれど、トリシアは一向にアイラの話をしてこなかった。
それもそのはずだ。アイラは、魔術学校に入学していなかったのだから。
「……なぁ、いい加減お前の変な行動の理由を、聞かせてもらえませんかねぇ?」
定位置のソファに座り、腕を組みながらロイにそう問い掛けられる。
つい先ほど、魔術学校の生徒名簿をロイに盗み見てきてもらったばかりだった。
「あー…、どうやら俺は、時を巻き戻ってやり直しの人生を歩んでいるらしい」
「…………………は??」
たっぷりの間を空けてから、ロイが間の抜けた声を漏らした。
「時を?なんだって?やり直し?」
「言っておくが、冗談でも頭がおかしくなったわけでもないからな」
エルヴィスはそう言って、この先三年の間に体験したことをロイに話して聞かせた。
話している間ずっと、ロイの顔は「嘘だろ?」と言っていた。その気持ちは良く分かる。
そして話し終えると、ロイはソファの背に大きくもたれかかって呻いた。
「あーーー…、お前、人生ぎゅっと凝縮しすぎだろ。運命に振り回されすぎてもう何がなにやら」
「はは、それに関しては反論しようがないな。でもいいんだ…この先彼女を助けられるなら、それで」
「おやおや、ずいぶんと惚れ込んでいることで」
呆れたように言いながら、ロイは背もたれから体を離す。
「……んで?そのお嬢さんを助けるにはどうするんだ?会いに行くのか?」
「いや……会いには行かない。彼女が本当に時を遡っているのか、それに当時の記憶があるのか…分からないうちは、無闇に接触できない」
「ふーん?魔術学校に入学してないってことは、その道を選ばなかったってことだろ?記憶が残ってる可能性はじゅうぶんあるんじゃねぇの?」
ロイの言っていることは最もだ。だが…それならなおさら、エルヴィスはアイラに会いに行けないと思った。
魔術師になる夢を諦めて、別の道を選んだアイラの邪魔をしたくはないし、そもそも騎士団長としてのエルヴィスとは接点が何も無いのだ。
―――突然アイラの前に現れ、事実を説明して何になる?アイラを救うために魔術具を開発したトリシアはもう、アイラの存在を覚えていない―――…。
それならば、気付けば人生をやり直していたと、その程度の認識でいいのだ。
新しい道を、幸せに歩んでくれるなら、それで。
急に黙り込んだエルヴィスを、ロイは仕方ないなという顔で見ていた。
「まぁ、俺はお前のために動くよ。指示してくれればな」
「……ありがとな」
「いえいえ。給料三割増でよろしく」
「却下」
「えええぇ!じゃあ二割!欲しいもんがあるんだよぉぉぉ!」
エルヴィスはロイとのやり取りに笑いながら、あの火事を思い出す。
―――火事が起きるまで、あと三年。アイラが魔術学校に入学しなかったからといって、火事が起こらない保証はない。
それならば、俺は―――まず、その火事を阻止する。
そう考え、来たるべき日に向けて行動しながら、エルヴィスはより剣術を磨いていった。同時に、騎士団長としての立場を確立していく。
騎士団員たちと積極的に関わるようにし、信頼に繋げた。エルヴィスを非難する者は、今の騎士団にはもういなくなっていた。
そしてあっという間に時は過ぎ、入団試験の日がやって来た。
この試験が終わり、新人騎士たちの入団式の当日に、あの火事が起きた。
入団式は毎年同じ日に行われているため、変更がなければ約三か月後になる。
着々と迫ってきている二度目の運命の日に、エルヴィスは意識を持っていかれていた。
「……で、今から紹介するのが我が騎士団の団長です。おーい、エルヴィス団長ー」
騎士を目指す受験者の後方で控えていたエルヴィスは、壇上に立つフィンに呼ばれ、いつものように颯爽と歩き出した。
そして壇上に上がり、口を開く。
「団長の、エルヴィス・ヴァロアだ」
今回は受験者が多いため、時を遡る前も行った方法をまたやることにした。
「これより、入団試験を開始する。……その前に、少し適性を見させてもらうかな」
エルヴィスはそう言うと、腰に下がっていた長剣を抜き前に構えた。
受験者は皆、何が始まるのかと困惑の表情を浮かべている。
そこでふと、エルヴィスは前回より強めの殺気を放てばどうなるかと思った。
合格者は変わるのか、それとも同じなのか。小さな好奇心から、一気に強めの殺気を放ってみた。
ドサッと鈍い音が連続して聞こえる。
このエルヴィスの適性検査の篩にかけられ、合格する者は基準が決まっている。
地面に尻もちを着いている者、呆然と立っている者や、冷や汗を流し震える者は不合格だ。
合格者は殺気に立ち向かおうと、攻撃の姿勢をとる者である。
前回と同じように、隣でフィンが額に手を当てて肩を落としている。
「あーーー…、今から適性検査の結果を言います」
それからフィンが一人ずつ合格、不合格を言い渡す。前回と同じ受験者が、納得がいかないと抗議を始めた。
やはり流れは変わらないのかと思いながら、エルヴィスはまた同じ答えを返す。
受験者の合否の様子を目で追いながら、現段階で前回と合格者は変わらないか…と思いかけたときだった。
視界に飛び込んできた蜂蜜色の髪に、エルヴィスは目を見開いて動けなくなった。
心臓がドクンドクンとうるさく騒ぎ出す。
―――そんな、まさか。
視線を逸らせずにいると、フィンが「合格」と言う声が聞こえる。
蜂蜜色の髪を持つ少女が、ほっと胸を撫で下ろすと、フィンに軽く頭を下げた。
そして大きな瑠璃色の瞳が、エルヴィスへ向けられた。
「―――…」
見間違いでも、他人の空似でもなかった。
綺麗な蜂蜜色の髪はバッサリと肩の辺りまで切りそろえられ、雰囲気が変わっているが、意志の強い瑠璃色の瞳は変わらない。
どうして、ここに。どうして、騎士に。
魔術師になるのが夢だったはずのアイラが、どうして今目の前で入団試験を受けているのか。
頭の中の混乱を落ち着けようと、エルヴィスは一度瞼を閉じた。深呼吸をしてから、再びアイラの姿を捉える。
―――良かった。生きている。この場にいる彼女が、時を遡っているかは分からないが…それでも、生きてここに居てくれている。
それを自分の目で確認できただけで、エルヴィスはじゅうぶんだった。
同時に、この先に起こり得るあの不運な火事を、絶対に止めてみせると強く思う。
そして何よりも、アイラが騎士団に入ってくれたことが、自分の近くにいてくれることが―――純粋に、嬉しかったのだった。
このあと、アイラはS判定で試験を合格し、騎士となることが決まる。
その判定が出た試合を間近で見ていたエルヴィスは、魔術師を目指していたとは思えないほどの動きに驚いた。
そしてすぐに、フィンがアイラに剣術を教えていたのだと知る。
そもそも、フィンが弟子を取ったこと自体が前回と違う流れだったことに気付いてはいたが、まさかアイラが関係しているとは思ってもいなかった。
けれど、こうなった以上は覚悟を決めなければならない。エルヴィスはただ、今後の身の振り方を、延々と考え続けていた。
***
入団式当日、ロイはエルヴィスの指示を受け、タルコット男爵邸へと早朝から向かって行った。
アイラが騎士となっていることに驚いていたロイだったが、ひとまず目先のことに集中することにしたらしい。不届き者を捕らえてくる、と意気込んで出て行った。
その間、エルヴィスは入団式を進行する。
入団式の前に迷子になったアイラに会ったときは、驚きと喜びでうまく会話にならなかった。
このあと起こる火事を予測して、入団式の日取りは例年通り変えずにいた。
入団式があればアイラは必ず参加するので、邸宅にいることはないと考えたからだ。
入団式が終われば、それぞれ分かれて談話室へ移動となる。そして、そのまま宿舎で一日を終えるのだ。
なのでエルヴィスは、目の届くところにアイラが居てくれることに安心し、入団式を終えることができた。
その夜、雑務に追われていたエルヴィスの元へ、ロイが戻って来た。
結果的に、やはりタルコット男爵邸は狙われていた。
実行犯は一人の男。その男の雇い主は貴族の年配の男で、元魔術師だった。
タルコット男爵の実力の陰に隠れ、功績が残せなかったことを恨み、闇の仕事を請け負う男を雇っていた。
その男が魔術を唱えていたところにロイが突然現れ、ひどく驚いていたという。理由を聞き出したあとは、城の地下牢のさらに奥の牢に幽閉している。
雇い主の貴族の男も、翌日には捕らえて同じ牢に入れいた。
この牢は、表向きは存在しないことになっているのだ。最初は都合の良い牢だなと思ったが、存分に利用させてもらうことにする。
そして、一つの山場を越えたことで、エルヴィスは大いに安心していた。
巻き戻る起点となった日を過ぎ、これから先は、まだ見ぬ道を歩んでいくこととなる。
それでも、前回の人生と違うのは、アイラが騎士となり、騎士団にいること。
今度こそは近くで護ることができると、そう思うだけでエルヴィスは力が漲るのだった。
エルヴィスが運命の歯車の流れに乗って、新たな道を歩き出したと同時に、アイラの歯車は歪な形で動き出していた。
魔犬との遭遇、ランツ村での盗賊との戦い、ウェルバー侯爵家の夜会騒動、武術大会、魔術具開発局…そして、記憶に新しいラトリッジ兄弟との戦い。
常にロイにアイラを見守ってもらい、アイラが危険なときはなるべくエルヴィス自身が駆け付けるように努めた。
アイラを“護らなければ”。
その使命のような想いは、いずれ“護りたい”という欲求へと変わっていった。
知れば知るほど、アイラ・タルコットという一人の少女に惹かれていく。
その小さな体の内に闘志を燃やし、訪れる困難に真正面から立ち向かう姿から、エルヴィスは目が離せなかった。
アイラの幸せが、自分の幸せだと思っていた。けれどもう、それだけでは満足できない。
アイラの隣で、共に笑い合いたい。辛いときには必ずそばにいて、その笑顔を護りたい。
―――『……おいエルヴィス、それは恋だぞ』
エルヴィスは、いつの日かのロイの言葉を思い出す。そう、これは間違いなく恋だ。
自分の全てを、人生を、懸けてもいいと思えるほどの。
「……改めて、言わせてくれ」
涙を流しながら、ずっと静かに話を聞いてくれていたアイラは、綺麗な瑠璃色の瞳をエルヴィスへ向ける。
将来を見据えて、恋人ではなく、婚約者になってほしいと思った。
けれど、一番大切なことを言葉にしていない事実に、エルヴィスは今さら気が付いた。
「アイラ。俺は―――君が、好きだ」
ようやく打ち明けられた想いに、エルヴィスは晴れ晴れとした笑顔を浮かべた。




