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77.エルヴィス・ヴァロアの物語③


 ロドリックが姿を現すことのないまま時が過ぎ、エルヴィスは十二になった。



 あの最後に別れた日から、エルヴィスは一日も欠かさず毎晩孤児院を抜け出しては、森の中で鍛錬をしていた。

 寂しいと思っていたのは、最初だけだった。数ヶ月も過ぎれば、エルヴィスの頭の中には諦めに似た感情が浮かぶ。



 ―――ああ、また捨てられたんだ。



 捨てられるも何も、エルヴィスとロドリックの関係は最初から歪なものだった。

 存在を隠したがるロドリックに、無理やり戦うすべを教わっていた。ただそれだけの、一方的な関係。


 それでもエルヴィスは、知らない内にロドリックに気を許していた。

 だからこそ、自分は見捨てられたのだと強く感じてしまう。


 けれど、ほんの僅かな期待から、毎晩森へ抜け出すことはやめられなかった。



「……兄ちゃん!おはよ!」


「おはよう、トリシア」



 五歳になったトリシアは、お転婆に育っていた。相変わらずエルヴィスに懐いており、どこに行くにも必ずついてくる。



「お前にベッタベタだな、トリシア。そのうち兄ちゃんと結婚する!とか言い出しそう」


「結婚はいずれできるだろうけど、俺は年下には興味ない」


「いや…まだトリシアは五歳だからな?年下とかいう以前の問題だからな?」



 アーロが「冗談通じないな〜、これだから貴族は」と呆れたように言う。

 貴族といえば、トリシアも生まれはどこかの令嬢だったようだ。前に院長夫妻がこっそりと話していたのを、エルヴィスはたまたま聞いていた。



「エルヴィス、少しいいかな?」


「ブレット院長」



 ブレットに手招きされ、エルヴィスは院長室へ入る。後ろをついてきたトリシアは、アーロに止められて騒いでいた。



「はなして、アーロ!アーロのヘンタイッ」


「おま、どこでそんな言葉覚えた!?」



 扉を閉めれば、二人の騒ぎ声はほとんど聞こえなくなった。ため息を吐いたエルヴィスを見て、ブレットが笑う。



「ははっ、ずいぶん表情豊かになったね、エルヴィス」


「……振り回されてるだけだと思う」


「良いことだよ。……あと少しでここを出て行くのが、寂しいくらいだ」



 その言葉で、エルヴィスにはブレットの話したいことがすぐに分かった。

 孤児院の子どもたちは、十三になるまでに仕事を見つけ、ここを出て行く。エルヴィスは今まさに、その歳なのだ。



「どんな仕事をしたいか、決まったかい?アーロは騎士になると言っていたけど」



 書類の束を取り出し、ブレットがペラペラと捲る。その様子を眺めながら、エルヴィスは口を開いた。



「……アーロは、騎士に向いてると思う。責任感があるし、口は悪いけど面倒見がいいし」


「そうだね、口調のせいでアーロは誤解されやすいからねー…」


「それで俺は、ここで働こうと思ってるんだけど」


「…………んっ?」



 ピタリと手を止めたブレットが、ゆっくりと視線をエルヴィスへ向ける。

 その顔には、聞き間違いかな?と分かりやすく書いてあるように思えた。

 なので、エルヴィスはもう一度同じ言葉を繰り返す。



「それで俺は、ここで働こうと思ってるんだけど」


「……えっと…待って。どうして?」



 ブレットは片手を額に当て、もう片手をエルヴィスに向かって突き出した。



「エルヴィス。君はアーロと一緒に、自由時間には手作りの木剣で鍛錬してるよね?だから私はてっきり、君も騎士を目指しているのかと…」


「鍛錬はしてるけど、別に騎士になりたいわけじゃない」



 それは、本当のことだった。いずれ役に立つだろうと鍛錬をしたり、ロドリックに戦い方を教わっていただけで、エルヴィスは騎士になろうと思っていたわけではなかった。


 エルヴィスが孤児院で働こうと思ったのは、ここ最近のことだ。

 目の前にいるのは、孤児院の院長であり、親のように慕っている人。ブレットが徐々にやつれていくことに、気付かないわけがなかった。


 それはブレットの妻のリーネにも言えることで、孤児院の財政難が続いてることは分かっていた。

 それでも、いつもリーネは子どもたちには栄養たっぷりの料理を作ってくれている。リーネ自身は満足に食べられてもいないのに。



 そもそも、他に人を雇う余裕がないことがいけないのだ。

 この孤児院を建てた顔も見たことのない貴族に、エルヴィスは腹が立って仕方がなかった。



「若い働き手がいれば、院長もリーネさんも少しは楽になるだろ。俺は別に、給料とかいらないし…」


「それは出来ないよ、エルヴィス」



 ハッキリとした否定の言葉を口にしたブレットが、眉を下げてエルヴィスを見た。



「私とリーネは、ここの子どもたちにはちゃんとした職場で働いて、夢を見つけて頑張って欲しいと思っているんだ。この場に留まって欲しいわけじゃない」


「………」



 ブレットが言いたいことも、エルヴィスにはちゃんと分かる。

 ただ、今の二人を置いて孤児院を出て行くなど、考えられなかった。



「……分かった。じゃあこの孤児院の所有者を教えて、院長」


「ええと、全然分かってないことが分かった」


「ちょっとブレット!食材が高騰してて、もう遣り繰りが限界―――…」



 バァン!と勢い良く扉を開けて入って来たリーネが、エルヴィスを見て固まった。



「……っていう、夢を見たのよ」


「さすがに誤魔化せないよ、リーネ」



 ブレットが苦笑しながら頭を抱え、どうしたものかとため息を吐いた。



「……エルヴィスが私たちや孤児院のことを考えてくれているのは、とても嬉しい。でも、この問題は私たち大人に任せて欲しいんだ」


「……院長」


「だから、違う道を考えなさい。分かったね?」



 懇願するようにそう言われれば、エルヴィスは頷くほかなかった。

 どうしようかと考えながら部屋を出たエルヴィスは、ブレットとリーネが顔を見合わせていたことに気付かなかった。






***


 運命を分ける残酷な時間は、何の前触れもなくやってきた。



 いや、きっと予兆はあったのだ。

 ブレットやリーネが上手く隠そうと立ち回り、エルヴィスが気付いたときにはもう、危険は背後に迫っていた。



「いやあああぁぁぁ…!!」



 リーネが泣き叫ぶ声が響く。

 床にはブレットが倒れていた。腹部を剣で一突きに刺され、真っ赤な血がだらだらと流れている。



「ブレット…!いや、目を開けてっ…!」


「あーあ。暗殺って依頼だったのに…誰だよ物音立てたやつ」


「わり、オモチャが転がってたんだよ。どうせ全員殺るんだし、結果的に暗殺になりゃいいんじゃね?」



 ブレットを刺した男の他に、もう二人男がいる。暗闇で目立たないようにするためか、黒い服に身を包んでいた。

 エルヴィスは、どこか遠くからこの光景を見ているような気分だった。目の前で起こった出来事が、とても信じられなかった。



 夕飯を皆で楽しく食べている途中だった。

 物音が聞こえ、様子を見ようと扉を開けたブレットが突然刃に貫かれた。

 リーネは泣き叫び、ズカズカと男たちが部屋に入ってくる。子どもたちは何が起こったのか分からず呆然としている。


 最初に声を上げたのは、最近孤児院に入って来た少年だった。



「……う、わああぁ!院長!院長っ!!」



 エルヴィスが止める間もなく、ブレットの元に駆け寄る。そこへ辿り着く前に、彼の体は血に染まりながら倒れていった。

 あまりに呆気なく命を奪われる光景は、夢か幻のようだった。



「きゃああああ!!」

「わああぁぁっ!!」



 ようやく事実を飲み込んだ子どもたちは、叫びながら逃げようと走り出す。

 部屋の扉は二箇所あった。けれど、あっという間に扉が男たちに塞がれる。



「追いかけるの面倒だから、大人しくしててね〜」



 恐ろしい笑みを浮かべ、男が素早く剣を振るう。また一人斬られ、倒れた。

 未だに椅子から動けないエルヴィスの腕に、震えるトリシアがぎゅうっと抱きついてきた。

 その隣で、アーロが顔を真っ青にしている。



「……や、やべぇよエルヴィス…逃げないと…!」


「………」


「なあ、エルヴィス…!」



 体中が震えているのが分かった。恐怖よりも、怒りがエルヴィスを支配していた。

 また一人男に捕まり、斬りつけられる。エルヴィスはガタッと音を立てて椅子から立ち上がった。



「やめろ!!」



 テーブルの上のナイフを掴み、近くの男に飛びかかった。無意識に男の首元を狙ったナイフは避けられたが、代わりに頬に傷を作った。



「いっ……てぇ〜。このガキ!」



 エルヴィスは首元を掴まれ、体を持ち上げられる。手足を動かして抵抗するが、男の腕はびくともしなかった。



「……………っ、」


「そんなに早く死にたいか?なら……っ!?」



 男が突然倒れ、エルヴィスも床に打ち付けられた。咳き込みながら体を起こすと、リーネが男に体当たりをしていたことが分かった。

 涙に濡れた瞳がエルヴィスを捉える。



「逃げなさい!!早くっ!!」


「……この女っ…!」



 男がリーネの髪を乱暴に掴んだ。それでも、リーネは真っ直ぐにエルヴィスを見ている。



「―――動きなさい、エルヴィス!!」



 エルヴィスは弾けるように立ち上がった。見れば、アーロがトリシアを抱えて窓を開けている。


 脱走を止めようとアーロに向かっていく男を目掛け、エルヴィスは近くの花瓶を掴んで投げた。花瓶が直撃し、男がうずくまる。

 その隙に、アーロとトリシアが窓から外へ出た。



 エルヴィスも床を蹴り、一気に窓へ向かって跳躍する。ガシャンと窓ガラスが割れ、破片がキラキラと飛び散った。

 一瞬だけ振り返れば、リーネが崩れ落ちる姿が目に映る。

 唇を強く噛みしめながら、エルヴィスは地面に着地するとすぐに走り出した。



「……アーロ!トリシア!」



 トリシアを抱えて走るアーロに、エルヴィスはすぐに追いついた。アーロの顔は涙でぐしゃぐしゃだった。



「……何なんだよ…、何なんだよアイツらっ…!」


「……っ、ひとまず森を抜けて逃げよう。森の中なら俺たちの方が知り尽くしてる」


「……ははっ、さすがエルヴィス、こんなときにも冷静で……」



 皮肉めいた笑いを漏らしながら、アーロがエルヴィスを見た。けれど、すぐに言葉を止める。



「………そんなわけないよな、悪い」


「………」



 冷静でいなければ。逃げなければ。生き残らなければ。

 皆の無念な想いを抱えて、走り続けなければ。

 そう思いながら、エルヴィスは涙が頬を伝っていくのを止められなかった。



「―――…!まずい、追ってきてる」



 背後から迫る気配に、エルヴィスは舌打ちをした。

 アーロの顔に緊張が走り、トリシアを強く抱く。トリシアはアーロの胸に顔を埋めていた。


 男たちは、“暗殺”という単語を出していた。つまり、その道を専門としている可能性が高い。そして何より、子どもの足で大人から逃げ切れるわけがないのだ。



「……アーロ、このままトリシアを連れて先に行け」


「はあ!?」



 エルヴィスは立ち止まると、常に身につけていた短剣を手に構えた。ロドリックがくれた短剣だ。



 ―――正直、ロドリックも暗殺者の類だと思っていた。けど、この場にいないということは違うのか…?



 あのニヤリと笑う顔を思い出し、ぐっと短剣を握る手に力を込める。



「やめろエルヴィス!戦う気か!?」


「いいから、早く逃げろ」


「お前を置いていけるわけないだろ!」



 アーロの正義感が、エルヴィスを置いていくことを許さないようだった。

 仕方なくまた一緒に逃げようと踵を返せば、暗闇の中で月の光に反射したナイフが見える。



 ―――しまった!森の中にも仲間がいたのか…!



「アーロ!!」



 叫びながら、エルヴィスは手を伸ばす。

 その声に反応したアーロは、背後から現れた男に気付くと、抱いていたトリシアを素早くエルヴィスに向かって投げた。



「―――生きろ、エルヴィス」



 そう言って、アーロが笑う。

 トリシアを受け止めると同時に、無情にもナイフが振り下ろされた。


 鮮血が舞う。エルヴィスはその場に足を縫い付けられたかのように、全く動けなかった。



「……いたぞ!」


「一人仕留めたみたいだ、よくやった!」



 続々と男たちが現れ、エルヴィスとトリシアは囲まれた。腕の中で、トリシアは気を失っている。

 なんとかトリシアだけは護りたい。そう思っても、エルヴィスは体が震えて動かなかった。



 ―――動け、動け!生きろと言われただろ!!



 トリシアを抱く腕に力を込めたそのとき、男の一人が呻き声を上げた。



「ぐあっ…」


「どうし……がはっ」



 立て続けに、別の男が喉元を押さえて倒れる。

 エルヴィスが目を見張っていると、目の前に誰かが庇うようにして現れた。

 フードを被っているが、その背中で誰だか分かった。名前を呼びたくても、まだ唇が震えて動かない。



「立てよ、エルヴィス」



 後ろ手に投げられたのは、とても綺麗な長剣だった。それを見た瞬間、エルヴィスは最後に交わした言葉を思い出す。



 ―――『……そのうち、長剣を使ってみたい』


 ―――『へいへい。次来るとき調達してきてやる』



 振り返ったロドリックは、ニヤリと変わらない笑みを浮かべた。



「約束は守ったぞ。ほら、戦え!」



 ぐっと踏み込んだロドリックが、また別の男に短剣を振るった。それを避け、男が苦々しげに声を荒げる。



「お前っ…!この裏切り者!」


「はん!いたいけな青年を閉じ込めて暴力を振るうヤツらに従うほど、俺は簡単じゃないんでね!」



 エルヴィスはそっとトリシアを地面に下ろすと、長剣に手を伸ばした。

 ロドリックと戦っている男と、もう一人…アーロの命を奪った男が残っている。


 ドクンドクンと、心臓が大きく脈打つ。

 エルヴィスは人を斬ったことはない。それでも、今ここを生き延びるために、トリシアを護るために、剣を振るわなければならない。



『―――生きろ、エルヴィス』



 最期のアーロの言葉が蘇る。

 エルヴィスは剣を強く握りしめ、地面を蹴った。

 相手は、子どもだからと油断していたのだろう。瞬時に懐へ近付いてきたことに驚いたのか、僅かに反応が遅れていた。



「あああああぁぁっ!!」



 感情の全てをぶつけるように、エルヴィスは大声で叫びながら、ありったけの力で剣を振るった。

 斬られた男は、声もなくその場に崩れ落ち、倒れていく。


 初めて人を斬った感覚に震えが走り、エルヴィスは膝をつく。

 倒れて動かないアーロの虚ろな目が、じっとエルヴィスを見つめているようだった。



 ―――『いつも言ってるだろ、アーロ。俺の親はブレット院長とリーネさん。それで、俺の兄弟はアーロたちみんな』



 エルヴィスの瞳から、静かに涙が零れ落ちていった。


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