64.ネイト・ラトリッジの記憶
どうして、思い当たらなかったのだろうか。
目の前の人物から目を逸らせず、アイラはポツリと呟いた。
「―――ネイト・ラトリッジさま…」
名前を呼ばれたネイトは、くっと喉を鳴らす。
「へえ?覚えてもらえてるんだ、名前。光栄だな」
「………」
光栄だと言いながら、少しも嬉しそうな表情をしていないことは、アイラにも分かった。
あの誕生日パーティーの日から、約四年が過ぎている。
ネイトの整った容姿は何も変わらない。一つ前と違うところがあるとすれば、それは頬の焼けただれたような痕だ。
アイラはあの日、ネイトにしつこく迫られていた。
そこを赤毛の騎士に変装していたエルヴィスに助けてもらったのだ。
そして駆けつけてきたクライドに、内密に対処してほしいと願い出た。
その後ネイトがラトリッジ公爵家の令息だと言うことが分かり、やはり大事にしなくて良かったと、アイラは安堵したのを覚えている。
父親のラザールから、相手からの謝罪を受け入れ、今後アイラに関わらないよう約束を取り付けて解決した、と聞かされていたのだが。
「………」
きっと、そのあとに何かがあったのだ。
アイラの命を執拗に狙うような、何かが。
じっと見つめていると、ネイトが人差し指を上から下へとピッと動かす。
途端に、アイラは見えない力で押さえつけられるように地面にひれ伏した。
「…………っ!?」
「その目、気に入らないな。俺から全てを奪ったくせに、どうして?とでも言いたげだ」
何が起こっているのか、アイラには分からなかった。抵抗しようにも、それができない。
―――何?この力…魔術なの?それにしては、とても禍々しい…!
やがて、呼吸が乱れる。じわじわと体に何かが侵食してくるような、不気味な感覚に襲われた。
「……は、あっ…」
「……ネイトさま。これ以上は呼吸を止めかねないかと」
「そうか?まだ力の加減が掴めないな」
アイラの体にかかっていた圧が、フッと消えた。
一気に空気を吸い込んでしまい、激しく咳き込む。自然と涙が零れ落ちた。
「この力があれば、簡単に息の根を止められるな…つまらない。でも仕方ないか。ことごとく計画が上手くいかないから、俺が直接手を下すしかない」
まるで大きな独り言のように、感情のこもっていない声でネイトが言う。
アイラは胸元を押さえながら顔を上げると、ネイトの手のひらの上で、黒いモヤが炎のように渦巻いているのが見えた。
「……魔術、なのね…。それも、禁術…」
「そうさ。俺の手でお前を葬り去るなら、絶望的な力でねじ伏せたいと思ってね」
禁術に手を出せば、国から追われる対象となる。
ネイトは上手く隠していたのかもしれないが、アイラの命をその力で奪えば、いずれ捕らえられ、処刑は免れないだろう。
―――でも、待って…。魔術具開発局で捕らえた魔術師は、地下牢で血痕だけを残して消えた。それもこの人の仕業なら、私も―――…。
アイラはゾッとした。すぐに逃げなければと思うのに、体が竦んで動かない。
ドレスの中に仕込んでいる短剣では、禁術の前では役に立たないと感じてしまう。
「……ああ、ようやく自分の置かれている状況が分かってきたかな?」
楽しそうにネイトが笑った。知らずに震えているアイラに、舐めるような視線を向ける。
「このまま、無理やり俺のモノにしてもいいんだけどな。君ほど美しい女を見たことはない」
「………っ」
「どちらがいいか、自分で選ぶか?一生を俺の妻として、奴隷のように生きるか、それとも今まで感じたことのない、長い苦しみを味わいながら朽ちていくか」
―――今まで感じたことのない、長い苦しみ…?
体の震えが止まった。アイラの中でゆらりと闘志が燃え上がる。
ネイトを見据え、挑発するように笑ってみせた。
「……ふふ、可笑しいことを仰るのですね」
アイラが嫌でも思い出すのは、あの日の痛みと苦しみだ。
身も心もボロボロで、なすすべもなく命の灯火が消えていくのを感じていた、あの日。
あれ以上の苦しみが、あるというのだろうか。
「私は、貴方の妻にはなりませんし…命を落とすつもりもありません」
アイラの言葉に、ネイトの眉がピクリと動く。それと同時に、背後から髪を掴まれた。
「いっ…、」
「本当に、不愉快極まりない女ですね。ネイトさま、さっさと地獄へ送ってやりましょう」
侍女のベラが丁寧にセットしてくれた髪が、ギリギリと引っ張られ乱れる。
それでも、アイラはネイトから視線を逸らさなかった。
「……やめろ、マーヴィン。彼女に手を下すのは俺だ」
ネイトがそう言えば、マーヴィンと呼ばれた使用人はアイラの髪から手を離した。
「……申し訳ありません、ネイトさま」
「いや。お前には、彼女の仲間たちをくれてやる。……そうだな、彼女の兄が魔術師の卵だろう?目の前でいたぶってやるのも良いかもな。お前の実力の方が上だろうしな、マーヴィン」
微笑むネイトを、アイラはキッと睨んだ。
けれど、ここで反論しても意味がないと分かっている。
ネイトは本気で、アイラとその周囲の人間を狙っているのだ。
アイラがここで全てを終わらせたいと願うように、ネイトもまた、ここで全てを終わらせる気でいる―――アイラの、命を奪って。
「……不躾な質問をしてもいいでしょうか」
「なんだ?」
「どうしてそこまでして、私の命を狙うのですか?」
「貴様っ…!」
マーヴィンが怒りの声を上げ、アイラの腕を引っ張って立たせる。
「どこまでネイトさまを侮辱すれば気が済むんだ…!」
「……侮辱などしていません。私はただ、理由が知りたいだけです」
「………っ!」
ギリ、と歯ぎしりをするマーヴィンを、アイラは目を細めて見返した。
掴まれた腕が痛むが、マーヴィンの行動は全て仕える主であるネイトを想っての行動だ。
だからこそ、ここまで恨まれる理由をアイラは知りたいのだ。
カツン、と靴音が響く。
ネイトはゆっくりと近付いてくると、アイラの前で足を止めた。
「……そこまで知りたいなら、教えてやろうか」
「……はい、ぜひ」
「ただ、口にしたくはないから、記憶を移させてもらう」
記憶を移す。アイラは聞き慣れない言葉に眉を寄せると、そのシワのあたりにネイトが人差し指を置いた。
そこから大きな風が吹くように、ぶわっと魔力と映像が流れ込んでくる。
―――ああ、これが…ネイトさまの昔の記憶なのね…。
アイラは瞼を閉じ、記憶の波に飲み込まれていった。
***
ネイト・ラトリッジは、公爵家の長男だった。
両親からの期待を背負い、幼い頃から厳しい教育を受けており、子どもらしく遊ぶ暇などなかった。
二つ下の弟と一緒に勉強をしてはいたが、弟は集中力が欠けており、しょっちゅう抜け出しては両親に怒られていた。
一方、ネイトは完璧だった。家庭教師はこぞってネイトを褒め称えた。
「ネイトさま、なんて優秀なのかしら」
「まあ、もうここまで覚えられたのですか?」
「素晴らしい。貴族としての立ち居振る舞いは完璧です」
褒められるのは気分が良かったし、ネイトは自分が何でもできると思い込んでいた。
一つだけ苦手なことがあるとすれば、人付き合いだった。特に、同じ年頃の子どもと話すのが苦手だった。
遊ぶ暇もない毎日を過ごしていたせいで、父親に連れられて参加したパーティーでも、他の令息と遊んだりはせず、じっと片隅で本を読んでいた。
大人はそれを「聡明だ」と言っていたが、子どもから見れば「つまらない子」だった。
そんなネイトに友人はできず、いつからか勉強を理由に社交の場は断るようになり、参加してもその場を弟に任せ、自分は人気のないところへ逃げてしまっていた。
そのせいで、“頭の良い優秀な公爵令息のネイト”が、弟に間違われることが良くあった。
「笑っちゃうよね、兄さま。僕と兄さまは全然似ていないのに」
それは、弟の口癖だった。実際似ていないのは性格で、容姿だけはとても似ていた。
灰色の髪と、同じ色の瞳。目立つ色ではないが、顔立ちは良いとネイトは自分でも思っていた。
公爵家の令息という立場もあり、早い内から婚約の打診が届き始めた。
父親はあれも違うこれも違う、と言いながら、公爵家に見合う令嬢を吟味しているようだった。
婚約とは関係なしに、パーティーなどの招待状も多く届いた。
社交的な弟は毎回喜んで参加していたが、ネイトはどうしても気が乗らない。
父親も優秀なネイトには甘く、無理に参加しなくていいと言ってくれたので、その言葉に甘えていた。
そしてある日、そんな父親から一緒に参加してほしいパーティーがある、と話される。
「ネイト、次のタルコット男爵家のパーティーに、一緒に参加してくれるか?」
「……タルコット男爵家、ですか?」
正直、男爵家のパーティーに参加するメリットはないように思えた。それが顔に出てしまったのか、父親が苦笑する。
「ネイト、縁とはどこで繋がるか分からないものだ。それに、タルコット男爵家は優秀な魔術師の家系でな。そこの令嬢の誕生日パーティーなんだ。顔を出しても損はない」
「令嬢…婚約の打診があった方ですか?」
「いや、まだ無いな。十三になるとのことだから、男爵がまだ早いと考えているんだろう。そのうち来るかもしれないぞ」
「そうですか……」
ネイトは答えながら、あまり乗り気にはなれなかった。
女性には興味があるし、恋人もいずれ欲しいと思っている。けれど、今は公爵家の仕事を継ぐための勉強に手一杯だった。
なので、今の自分に恋愛ごとは必要ない。―――そう、思っていた。
例の男爵家のパーティーの日、ネイトは渋々と身支度を整えた。そして、一度弟の部屋を訪れる。
弟はベッドの上に寝転がっていた。
「あーあ、いいなぁ兄さま。僕もパーティーに行きたかった」
「仕方ないな。熱があるんだから」
「ちぇー。タルコット男爵家のご令嬢って、滅多に社交の場に出てこないけど、とても可愛いって噂だよ。ちゃんと見てきてね。あ、この香水貸してあげる。身だしなみの基本だし使ってみて」
弟がそう言って笑った。ネイトは香水をありがたく受け取ってから頷くと、パーティー会場へと出発する。
タルコット男爵邸の庭は、とても賑わっていた。
父親はすぐに他の参加者たちと挨拶を交わし始め、ネイトは気配を消しながらグラスに入った飲み物を少しずつ飲む。
やがて、ざわりと周囲が沸いた。すぐに主役の令嬢がやって来たのだと思い、ネイトは視線を移す。
「―――…」
その瞬間、目を奪われた。
輝く蜂蜜色の髪、長いまつ毛に縁取られた大きな瑠璃色の瞳、陶器のような白い肌。
ネイトが今までに見たどの女性も、あの令嬢には敵わないと思うほど綺麗だった。
他の令息も、ほとんどが頬を赤くして令嬢を見つめている。
ネイトも同じようにぼうっと見つめていると、父親に背中を叩かれた。
「挨拶に行くぞ、ネイト」
「……は、はい」
ネイトは慌てて父親についていく。間近で見る令嬢は、まだ幼さが残っているがとても美しく、ついじろじろと見てしまった。
隣にいるのは兄だろうか。こちらもとても整った容姿をしている。
「この度は、お誕生日おめでとうございます」
父親が丁寧に礼をとると、令嬢が「ありがとうございます」と可愛らしい声で返事をする。
「……アイラ・タルコットです。よろしくお願いいたします」
「はは、とても可愛いお嬢さんだ。こちらこそよろしく。ほら、ネイト」
名前を呼ばれ、ネイトはピシッと固まった。アイラの瞳が、じっとネイトへ注がれる。
「……あ…、ネイト・ラトリッジです…」
なんとも情けない小さな声で、ネイトは名前だけを口にした。心臓がドキドキとうるさく、それ以上の言葉が出てこない。
アイラはにこりと笑うと、「どうぞ楽しんでくださいね」と言って他の参加者の挨拶へと移った。
父親が少し嬉しそうにネイトを見る。
「ほう、お前のそんな顔は見たことが無いな。……おや、あそこにいるのは…ネイト、少し挨拶をしてくる。誰かと話して待っていなさい」
そう言うが否や、父親は足早に離れていった。取り残されたネイトは、未だに高鳴る心臓に戸惑い、胸元を押さえた。
―――もっと、彼女に近づきたい。
それは、ネイトの中に芽生えた感情だった。
そして、その初めての感情は、このあとの人生を狂わすこととなる。
ずっとアイラの姿を目で追っていたネイトは、アイラが一人で離れてどこかへ歩いて行くのを見ていた。
それをチャンスと捉え、少し距離を取って後を追いかける。
アイラは庭園に向かっているようだった。ベンチにぐったりと座っていた騎士のような人物に、声を掛けている。
その優しさに、ネイトはまた心を打たれた。
そして騎士が立ち去り、アイラがベンチに座ったのを見てから、ネイトはゆっくりと近付いていく。
ネイトの存在に気付き、アイラがスッと立ち上がった。
「……ごきげんよう」
「こんにちは、アイラさま。ぜひお近付きになりたいと思っていましたが、こんな所におられるとは」
「……少し、疲れてしまいまして」
にこりと笑顔が返ってくる。心臓がどくんと高鳴った。
彼女に近づきたい。その思いが加速する。
「親睦を深めましょう。アイラさまはどんな男性がお好きですか?」
「………あの…」
「僕はどうでしょう?顔には自信がありますよ」
アイラの気を引きたくて仕方なかったネイトは、周囲から持て囃される自身の顔を引き合いに出す。
じっと見つめてみたが、アイラは曖昧に微笑むだけだった。
「……お兄さまが心配しますので、私は戻りま…」
足早に立ち去ろうとするアイラの腕を、ネイトは咄嗟に掴んだ。
「どうしてです?親睦を深めよう、と僕は言ったじゃないですか」
「あの、放してくださいっ…」
何故か必死で逃げようとするアイラを、逃したくないと手に力を込める。
ネイトは、アイラを繋ぎ止めたい一心で姑息な手段を取った。
「……アイラさまより、僕のほうが力は強いですよ?このまま、どうとでもできます」
「………っ」
「でも僕は優しいから、ただお話するだけにしようと―――、」
ネイトの記憶は、一度ここでプツリと途切れた。
「…………」
目覚めたとき、ネイトは自室のベッドの上にいた。
頭がぼんやりとして、何があったのかを思い出すまでに時間がかかる。
体を起こすと、扉付近で控えていた使用人のマーヴィンが真っ青な顔で駆け寄ってきた。
「ネイトさま…!!」
「……マーヴィン、俺は…」
ネイトは手のひらを額に当てると、急に蘇ってきた記憶にサアッと血の気が引いた。
―――俺は一体、彼女に何をした?
いくらアイラに近づきたいと思っていたからと言って、限度を超えたような気がする。
あのときのネイトは、恐ろしいくらいに自分のことしか考えられていなかった。
顔を上げれば、唇を噛みしめているマーヴィンが目に入った。
以前魔術師だったマーヴィンは、今はネイト専属の使用人となっており、とても信頼できる人物だ。
そんなマーヴィンの表情を、ネイトは読み違えていた。
「……はは、情けないよな。一人の少女に惹かれて、周りが見えなくなるなんて」
てっきり、笑ってくれるものだと思った。けれどマーヴィンは泣き出しそうな顔で口を開く。
「……ネイトさま…旦那さまが、お怒りです」
その言葉と同時に、荒々しく扉が開かれた。
見たことのないほど眉を吊り上げた父親が、ネイトを睨みつける。
「ネイト!!お前はっ…なんてことを!!」
「……と、父さま、俺は…」
「言い訳はいらない!早く…早く荷物をまとめて出て行け!!お前は公爵家の恥さらしだ!!」
ネイトは言葉を失った。まさか、邸宅を出て行けと言われるまでのことをしたとは、思っていなかったのだ。
「な…なにか誤解があるのでは?俺は、アイラさまと話をしようと声を掛けただけで…」
「声を掛けただけ?嫌がるアイラ嬢の腕を掴み、脅したと聞いたぞ!?」
「……そ、その言い方は少し…」
「タルコット男爵は、大事にはしないと言ってくれた!我々公爵家の為にもと、アイラ嬢からそう提言してくれたそうだ!」
父親は顔を真っ赤にし、両腕の拳が震えていた。その後ろに、母親と弟がいたことに、ネイトは今気付く。
「ネイト…いつも完璧な貴方が、女性にそのような行動をするとは思いませんでした」
「……か、母さま…」
「お父さまと話し合って決めました。今日からラトリッジ公爵家の次期当主の権利は、この子へ移します」
母親はそう言って、弟の肩をぐっと抱く。ネイトが呆然としていると、弟は少しだけ口角を上げたように見えた。
「残念だよ…兄さん。僕の兄さんが、女性の名誉を傷つけるような行動をするなんて…」
「……な、にを…」
「でも、安心してね。兄さんの分まで、僕が公爵家の当主になれるよう、しっかり勉強しておくから」
それから、ネイトは僅かな私物を持たされ、家を追い出された。
マーヴィンだけが必死に父親に懇願し、ネイトの使用人としてついてきてくれた。
―――その日、ネイトは公爵家の次期当主の座を失い、辺境に私有していた古い邸宅へと移り住むこととなる。
貴族界では、ラトリッジ公爵家の長男は不治の病にかかり、遠く離れた地で療養しているという噂が流れた。
そして、元々社交の場へあまり顔を出していなかったネイトは、すぐに人々の記憶から忘れ去られることとなるのだった。
「―――アイラ・タルコット…」
暗闇に包まれた部屋の片隅で、ネイトの心の中に、恋情ではない別の炎が燃え上がっていた。




