おにんぎょうあそび
暗闇に地平線のような光が差す。それはゆっくりと明滅し、次第に縦に広がっていく。その光が自室の壁を映し出したとき、いつひは自分が覚醒したことに気が付いた。
「ヷッ」
素っ頓狂な悲鳴を上げたいつひは跳ね起きるも、勢い余ってベッドから飛び出してしまい、後頭部から床に落ちた。しばらく床でもんどり打ったあと、涙目で起き上がったいつひは「今何時!」と叫ぶとスマホを求めてベッドへ這い上がる。ロック画面の大きな数字が示すのは「18:43」。大助との通話を終えてからおおよそ三時間くらい経っていた。
陽が落ち始めた街をいつひは走る。重光が居るはずの場所は佐波沼の端、隕石の被害が最小限だった地域だ。
帰宅ラッシュの客でごった返す駅のコンコースを通り抜け、改札にスマホを叩きつけて通る。ちらりと見えた残高は二円。移動中にチャージしなきゃ、などと思いながらちょうどホームに滑り込んできた電車へ乗り込んだ。
視覚ハックで見た場所へ到着した頃には、辺りはすっかり夕闇の中だった。
「確か、この辺りの……」
呟くいつひの声を頭上を通過する大型車や電車の走行音がかき消していく。ここなら大声や悲鳴を上げたとしても気づかれにくいだろう。いつひがこの辺りを「人を拉致監禁するのにおあつらえ向きだ」と思った大きな理由だ。
日中はもう少し人の往来があるが、日が暮れるとそれはほぼ絶えてしまう。どこかへの裏道というわけでもなし、わざわざ通るような場所ではないからだ。
雑居ビルを探してうろうろしているいつひは傍から見れば、狼の潜む森にうっかり迷い込んでしまった兎のようなものだった。実際半袖パーカーは兎耳がついていたし、提げて来たポシェットには丸いファーチャームが付いていたので見た目にも兎であった。
「お、そこそこ可愛い」
「ぺらぺらじゃん」
「とくしゅせーへきだろ、お前」
前方から下卑た声と、品定めするような視線が複数。こういった手合いは完全無視で怒らせたところで重光を召喚するのが普段の流れだが、今はそうはいかない。肝心の重光がいないのだから。
いつひは輩共に笑顔を見せながら、こっそりとスマホを持った手を後ろに回した。いつでも緊急通報出来るようにしておく。逆上されるリスクがあるから、最後の手段である。相手が星憑きだった場合が面倒だが、いつひ一人で相手するより数十倍マシだ。
「えへへ、お兄さんたち、この辺詳しい?」
媚びた猫なで声。反吐が出そうな本音を隠して振る舞うことなど、いつひには朝飯前だ。
「うんうん。めっちゃ詳しーよ。すぐ休める場所も知ってるよ」
「あー、ボク用事があって、人……建物、探してるんだけど……」
「知ってる知ってる、連れてってあげる」
いつひの言葉を遮って男は軽薄な口調で言い、その手を伸ばすといつひの肩を抱いて引き寄せる。喉元まで出かかった嫌悪の悲鳴を飲み込んだいつひはやはり甘えた声で「ボク、怖い人と待ち合わせしてて……」と続ける。男は「大丈夫大丈夫」とまたも適当千万な相槌を返すと、いつひの肩に回していた手を更に下へと伸ばした。あ、もう耐えられん、と表情を失くしたいつひは男の顔を覗き込むように見上げる。弄った先の感触に「おまっ、おと──」と顔を引き攣らせた男は突然脱力し、地面に転がった。
一瞬の静寂。仲間の一人が「流石にまな板すぎて横転?」といつひの足元に転がった男に話しかける。ところが反応がない。冗談にしてはしつこい、と仲間の男はいつひに疑いの視線を向け──、男と同じように地面に転がった。
「……面倒な方の星憑きか」
残った二人は顔を見合わせると、踵を返して逃げ出した。彼らも何らかの能力を持った星憑きだろうが、もともと乗り気ではなさそうだったし、目を合わせただけで意識を奪う能力を持った星憑きと敵対したくはないだろう。いつひは能力を無理に使ったせいか痛む頭を片手で押さえる。拍動のリズムでいつひの脳を苛む痛みは嘔気までをも誘う。
「うわー、だめかも……、たおれそ……」
もう片方の手で口元を押さえたいつひはゆっくりとしゃがみ込んだ。倒れている男二人には「しばらく気絶して」と命じたが、いつひの能力は一人にしか継続して使用できない。つまり今、いつひの能力の影響下にいるのは後に能力に晒されたほうだけである。能力の効果に則れば、今にも意識を取り戻してもおかしくないのだ。
霞み始めた視界に、いつひは人影を見た。
「あ、おまえ……」
無骨なゴム長靴、マリンサロペット、ゴム手袋。まるで釣りにでも行くような格好をした大助がいつひを見下ろしていた。実際に水場で作業をしていたのか、濡れた後が残っている。
「やっぱりとんでもない能力を持ってるなあ。危ない危ない」
話の内容とは裏腹に、大助の声色はいかにも愉快そうに弾んでいる。その背後には黒い触手の大群が蠢いていて、いよいよいつひは吐気に耐えきれず吐瀉物を撒き散らした。大助は特に動じる様子もなく、ただ、少しだけ目を細めて「ああ、大丈夫?」と尋ねる。爪先に付いた飛沫を地面になすりつけた大助は「賀川が遅いから、たくさん武藤を弄れたよ。ありがとう」と後ろに聳える触手の一部分を動かすと、いつひの目の前に重光を落とした。どさり、とまるで物のように落ちてきた重光は、硬い地面に転がされてもなお無反応で──、重光は本当に物に成り果ててしまったのかと思ったいつひから「うそ」と譫言のような言葉が零れる。
身につけている衣服はそれほど損傷はないのに、重光の身体には大小種類様々な傷が付けられている。抵抗できない状態で、大助の言葉通り「弄ばれた」のだろう。こんな状態の重光を前にするのはいつひにとって初めてで、これは重光によく似た別人ではないだろうか、とまで思う。
「こんなボロ雑巾みたいな武藤、初めてでしょ。腕切り落としても殴って来る武藤の貴重な気絶シーン」
いつひの頭の中を覗いたようなタイミングで大助がふざけきった調子で話しかける。何も言わず、ただ愕然とした表情でこちらを見上げてきたいつひに、大助は「そんな顔しないでよ」と眉を下げた。
「賀川の影響を受けていない武藤は、まあデカくてちょっと力が強いぐらいの凡人だったよ。回復力は桜庭に劣るし、怪力も羽澄光汰に及ばない」
大助は重光を雑に蹴り飛ばしながら言う。いつひは重光の閉じられた瞼をじっと見つめながら、大助に問いかけた。
「あんた、ボクのことどこまで知ってるの」
「能力のことは結構知ってるつもり。興味深いから調べさせてもらった。何せ、保有しているのは二種類の能力、そのうち一つは術者の意識が失われても継続する能力。その上、本人は能力のことを周囲に隠している。これで調べないほうがおかしいでしょ」
いつひは黙った。聞きたいのはどこでいつひが能力持ちだと分かったかとか、能力の詳細を知っている理由なのだが、今は頭も回らないし、下手に会話を続けると余計なことを話してしまいそうだ。
「……武藤くん」
重光の目元に手をやり、まっすぐ見つめる。大助がそれをしげしげと覗き込んできた。
「まさか、相手が術者を認識出来なくても能力の対象に出来るの? それはさすがにめちゃくちゃじゃない?」
その後もいつひの能力のおかしさについて滔々と文句を垂れていたが(相馬くんの能力だっておかしいでしょ、といつひはぼんやりと思っていた)やはりその声はどこか楽しそうに弾んでいる。心底楽しいのだろう。
「……相馬くん、普段からそんなふうに笑えばいいのに」
「楽しかったら笑ってるよ。おれは嘘はつかないからね」
重光の反応がないので瞼をこじ開ける。僅かに開いた隙間から、重光の瞳──躑躅色が覗いた。絵面はとてもシュールだろう。けれど、今のいつひにはこうするしか無い。それを見下ろす大助は薄っすらと笑みを浮かべている。そこに憐憫などは含まれておらず、単なる好奇心からの笑いのようだった。
「武藤くん……」
「手伝ってあげようか?」
ずるり、と大助の従える黒い影が動く。触腕の先端を人間の手のひらのように変化させ、重光の方に向ける。いつひが「やめて!」と大声を上げて大助を睨む。目に光が戻り始めている。大助は一瞬厭そうに視線を避けてから「元気になってきたね」と呟いた。
ぴくり、と重光の指先が僅かにだが動く。弾かれたようにいつひがその手を掴んだ。
「起きて!」
いつひが叫ぶ。嘆願に近いそれを聞いた大助は途端に彼らに対する興味をも無くしたように白けた表情を浮かべると「もういいよ」と大鎚形の黒い影を重光の腹部へと落とした。あまりの躊躇の無さと目の前を遮る黒に呆然とするいつひだったが、その黒が下から押し上げられていることに気が付き、息を呑む。
武藤くん、といつひが名前を呼ぶよりも早く、大助の能力である黒い影が弾き飛ばされる。その衝撃に大助が数歩後ろにたたらを踏んだ。寝転んだ状態──足腰にほとんど力の入れられない姿勢──で大助の能力を殴り飛ばした重光は一息に起き上がると大助に向かって突貫する。
姿勢を低くし、大助の身体よりも大きな黒い影を自身の周囲に複数個展開する。その姿は九尾の狐かはたまた八岐大蛇か。そうやって重光の突撃を受け止めんとした大助だったが、フルパワーの重光の前には紙切れも同然だった。
おおよそ人間と人間がぶつかったときに生じるものとは思えない大きな衝撃音。吹き飛んだ大助は、地面を数回バウンドした後、突然現れた人影に攫われて消える。ほんの僅か、重光による追撃の拳は届かなかった。大きな舌打ちが静寂に包まれた高架下に響く。
「逃げた。クソ」
心底イライラした様子の重光は近くにあった看板を蹴りつけた。大きな音を立ててひしゃげた看板を忌々しげに見てから、重光はいつひに「おい、いつまで寝てんだよ」と呼びかけた。
「さっきまでスヤスヤだった人に偉そうに言われたくないんだけど……」
地面に倒れ込んでいるいつひが頬を膨らませる。よかった、いつもの武藤くんだ。怪我も治っているし、傲岸不遜な表情もそのままだ。胸を撫で下ろした後、いつひは「あ」と短い声を上げてから立ち上がる。
「……相馬くんに、何か言われたりした?」
「あ? あのクソの話なんざ聞くかよ」
大助の話をするな、とばかりに重光はいつひを鋭く睨みつけた。
「そっか。なら、うん」
性根の腐った大助のことだから、妙なことを重光に吹き込んでいても可笑しくないと思ったが、重光がそう答えるならその通りなのだろう。
「よかった。武藤くんはずっとボクの武藤くんでいてね」
いつひは重光に駆け寄り、腰に手を回して抱きついた。重光は表情を寸分も変えることなく「イッヒーそれたまに言うよな」とやはり平坦な口調で返した。
「俺はどこにも行くつもりはねーのに」
どこか拗ねたような口調に、いつひは満足そうに頬を緩めたのだった。




