誰?
いつひは不機嫌だった。
いつもなら流す母親のオカルトじみた言葉を今日は何だか無性に受け付けなくて嫌味を返してしまい、久しぶりに鞭でしばき倒されてしまった。もう腕力では勝てるはずだけれど、下手に抵抗すると本当に刺し殺されることが明らかなこともあって、いつひは母親に力で歯向かったりはしない。言葉が通じない人なので説得も無理である。もはや攻略不可能のバグモンスターである。早く勝手に死なないかな、といつひは常々思っている。たまに優しかったり、数年に一度くらいの頻度で奇跡的に会話らしい会話が成り立つこともあって、自ら終わらせようとは思えなかったりもする。
ひりひりと痛む背中を擦りながら、いつひは自室ベッドの上でスマホの画面とにらめっこをしている。画面に表示されているのは重光とのトークルーム。昨日、商店街で重光を置いてけぼりにしてからというものの、何を送っても電話を掛けても一切の反応がない。重光の周囲の人間にも探りを入れてみるも、誰も何も知らないようだ。
「武藤くんのくせにボクを無視するとはいい度胸じゃん!」
いつひはぶつぶつとぼやきながら重光に新たなメッセージを送りつける。やはり反応はなし──、と思ったそのときである。画面一杯を占めていたいつひのメッセージ全てに一斉に「既読」マークが付いた。とならば、といつひは画面上部にある音声通話マークをタップする。呼び出し音が鳴り終えた途端、いつひは大声を出した。
「武藤くん!?」
反応はない。微かなノイズだけが受話口から聞こえる。もう一度呼びかけようと口を開いたところで、「びっくりした……。賀川って声でかいよね」と忌々しい大助の声が聞こえてくるではないか。いつひは怒りで言葉を失った。
「どこにいるの!?」
「いちいち大声出さないでよ。ちゃんと質問に答えるつもりしてるんだから。武藤のいる場所のヒントをあげる。あ、きちんと聞いておいたほうがいいよ。チャンスは一回だからね」
大助の言葉にいつひは口元まで出かかっていた猛反論をぐっと飲み込む。一瞬の静寂のあと、引き戸を動かす音がして、それから聞こえてきたのは特徴的なモーター音と機械の稼働音。そして、自動車と列車の走行音。
再び、サッシの上の引き戸を滑らせる音。
「はい。それじゃあ、頑張って」
大助の朗らかな声が張り付いたままのいつひの鼓膜に、無機質な通話終了音が響く。少しの間、腑抜けたようにスマホを耳に当てた状態で固まっていたが、手からスマホが滑り落ちたことで正気に戻る。
「……あいつ、どこまで知って……」
低い声で溢したいつひは唇を噛む。大助はいつひに探偵ごっこをさせたい訳ではないだろう。いつひに異能を使え、と言っているのだ。
いつひは星憑きのような見た目をしているが、能力を持っていないことにしている。幼少期の異能力一斉スクリーニングで能力の発現、未発現、また要観察児等の情報は総能研によってデータベース化されている。中学入学前にも同様の検査があり、そこで能力未発現から発現済みとされた児童もいる。検査の内容は、本人や周囲の人間からの問診、そして脳波検査。
その大きな二つの検査をくぐり抜け、いつひは「無能力者」として過ごしてきたのだ。星憑きの特徴である目立つ髪色と瞳の色のこともあって、厳格に検査されたが(数日間電極の付いたヘッドギアを被って過ごしたこともあった)判定は「能力なし」。
脳の働きを見てもなお、能力の使用が認められなかったのはいつひの能力があまりにも特殊だからだろう。そもそもいつひは能力を二つ持っている。現在常時発動している能力と、能動的に使おうとして使う能力のふたつだ。
いつひが今、少し困っているのはその二つの能力は同時に使用できないからである。能動的に使う能力「感覚ハック」は予め設定しておいた生き物の感覚器官を借りるものだ。定期的に設定生物の数や配置を改めないと使い物にならない能力だが、裏を返せばメンテナンスさえサボらなければ今のような非常事態に大変役に立つ能力でもある。現時点で能力の対象にできそうな人間は佐波沼市内に数十人ほど。
いつひは静かに息を吐き、目を閉じて集中する。何人かまとめて聴覚を借りた。頭がどうにかなりそうな情報量に耐え、先程聞いた音を探す。三度目で似たような音を聞いている人間を見つけた。その人物に標的を絞り、視覚、嗅覚も一方的に共有する。視界が切り替わったので早速周囲を観察する。とは言ってもあくまで感覚を共有するだけなので、いつひが見たい場所に視線を向けることは出来ない。幸いこの人物はきちんと前を見て歩く人間だったため、すぐに場所特定に必要な資格情報を手に入れることが出来た。──佐波沼にしては年季の入った看板、水路、線路と交差するように作られた道、そして雑居ビルの群れ。なるほど、この辺りは人を拉致監禁するにはお誂え向きの場所だ。
「あー……、つかれた」
いつひはスマホに重光が囚われているであろう場所のメモを手短に残すと、ほとんど気絶するようにベッドの上に倒れ込んだ。
◆◆
酷くだるい身体と恐ろしく重い瞼。
それでも重光が目を開けたのは、自身の周囲で忙しなく動く影の気配のせいだ。
薄く開けた瞼の隙間に映るのは、ぶつぶつと何か呟きながら歩き回る人影。手には小型のタブレット端末があり、どうやらその画面を見ているらしい。
そして自分が固い椅子に座らされていることに漸く気がつく。両手は背もたれの後ろに回されて手首を縛られ、足首は椅子の脚に紐状のもので固定されていた。立ち上がろうとするも、金属製の椅子はしっかりと床に固定されていて、今の重光では動かせそうもなかった。
重光と同じ空間にいる人影は歩き回るのをやめてこちらを向いたようだ。いかんせん、視界も不鮮明だ。重光の目が僅かに開いているのを確認し、人影はどこか弾んだ足取りで近寄ってくる。
「起きたんだ。いやあ、薬が効いてよかった。羽澄光汰にも試す価値があるな」
楽しげに話す声。重光は「……ウニメガネ」と低い声を零した。
「それ、おれのこと?」
大助は何が面白いのかケラケラと笑っている。それから目を細め「少し話をしておこうかな」と切り出した。
「武藤っていつから賀川の下僕なの?」
「……下僕じゃねえよ」
「下僕でしょ。皆あんたの鉄拳制裁を恐れて言わないだけ。えーっと、あんたと賀川は小学二年生の頃に初めて出会ってるんだっけ。その頃から?」
「……だから、俺は──、っぐ」
「ちょっと待ってて」
大助の身体から伸びた黒い触手に口を塞がれる。抵抗する力すら出てこない。重光の体質なのかその手の襲撃を喰らいすぎて耐性が出来ているのか詳細は不明だが、大抵の薬物なら多少気分は悪くなるものの大した問題にはならないというのに。纏まらない思考の中で、誰かと通話をしているらしい大助の声は音の羅列として重光の鼓膜を震わせていた。
「──……。賀川って声でかいよね」
やはり靄がかかったような重光の頭の中はしかし「賀川」という音を認識した途端、冴え渡った。口の中にまで入ってこようとする触手を噛み千切った重光は息をたっぷり吸い込むと、それを一気に吐きながら立ち上がる。椅子を床から引き剥がすことは出来たものの、縛られた手首と足首、腹部は椅子に繋がれたままだ。重光は鬱陶しそうに舌打ちをする。かなり滑稽な見た目になっていることが容易に想像できるからだ。
明瞭になった意識と本調子を取り戻しそうな身体で重光は大助を探す。部屋にはその姿は見当たらない。
とりあえずこの部屋──教室くらいの広さがあるが、調度品らしきものは大助が使っていた事務机と椅子くらいだ。他には部屋の壁際にいくつか中身の入った黒いビニール袋が乱雑においてある。窓は締め切られ、目張りまでしてある。出入り口は一つだった。当然迷うことなく重光はそちらへと向かう。そのとき、丸いドアノブががちゃがちゃと音を立て、出入り口である扉が開いた。
「わ、元気になってる」
目をぱちぱちと瞬かせて弾んだ声を上げた大助は、扉を開いた途端襲ってきた飛び蹴りを間一髪避ける。
それから一転、重光に憐れむような視線を向けて眉を下げると「もうすぐかな」と呟いた。無論、何の話か理解できない重光は顔を顰め──、次の瞬間その顔は困惑一色へと塗り替わる。
自分の中から、『何か』を抜かれたような心地。そこには快も不快も存在せず、ただ、『何か』が失くなったという事実だけがあった。
何度か経験した気もするが、その詳細は思い出せない。思い出そうとすると途端に頭に靄でもかかったように何も考えられなくなる。
しばらく呆けていた重光だったが、ふと我に返ったように辺りをきょろきょろと見渡す。まるで「今睡眠から覚醒した」かのような反応だ。
「つか、なんだコレ……椅子……?」
現在の自分の状態も理解できていないようだ。この調子だとおれのことも分からなかったりするのかな、と観察するように眺めていた大助に向けて、重光が唐突に視線を寄越した。真顔だ。大助が困ったように首を傾げた次の瞬間、眩い閃光が迸り空間を蹂躙する。能力に付随する機能『自動防御』が作用し、黒い触手が大助の前に広がり壁を作ったため、光刺激、そして続く爆発のような衝撃の直撃は免れた。しかし、眩んだ視界が元に戻る前に重光の拳が大助のみぞおちを捉える。内臓がひっくり返ったのかと紛う。大助の身体がくの字に折れ曲がり、その背中に間髪入れず肘が落とされる。『自動防御』は全く追いつけていない。声にもならないくぐもった音を漏らした大助を重光は容赦なく蹴り飛ばした。大きく吹き飛んだ大助だったが、黒い影を大きく広げてクッションにし衝撃を抑える。
先ほどの閃光と衝撃は重光の能力、雷によるものだろう。いくつかの火傷と引き換えに、椅子の拘束からも自由になっている。猪のごとく突っ込んでくる重光を前に、大助は愉快そうに口元を緩める。重光の足元に忍び寄った大助の黒い影は、その足を絡め取らんと巻き付いた。
しかし、重光の進軍は止まらない。巻き付いた触手状の影を微塵も意に介さず、力強く足を踏み出す。想定内の挙動だ、と大助は黒い影の形状を鋭い刃へと変化させた。ぷっと皮膚が裂け、中身が弾け出る音。筋肉まで到達した傷は、流石に重光の動きを鈍らせた。更に、大助は呟く。
「羽澄光汰。あいつを殺したくないか?」
「あ?」
まさかその名前が出てくるとは思っていなかったのだろう。素っ頓狂な声を上げた重光がふるった拳は、身を捩った大助に軽く避けられる。直後、自身の動きで頭が揺れたようでよろめいていた。
「龍行の生徒会長、羽澄光汰。あいつのことを殺さないか、って誘ってるんだけれど」
「……やーだね」
重光はどくどくと血を流し続けている足で数歩バックステップを踏んだ。
「へえ、意外。あんた、羽澄光汰にだけは殺意を持ってると思ったから」
飄々と話す大助。重光が距離を取ったことを会話の意思と取ったらしい。リラックスした様子で自身の異能の上に座り込んだ。
「持ってねーよ。そんな簡単に人を殺すとか言ったら駄目だろ。命は大事」
調子に乗った小学生の放言を諌めるように重光。大きく見開いた目でまばたきを繰り返した大助は半笑いを浮かべ、ついには吹き出した。たいへん気分を害された重光は「人が真面目なお話してんのに、何笑ってんだよ」と大助に近づいた。
「わ、ごめんって。真面目に話してたの!?」
仰け反った大助は一度は謝罪するも、再び、しかも先程より盛大に吹き出すではないか。
「あー、ホント兄弟揃っておれのツボだな」
「……お前」
殴る構えをしていた重光は大助の呟いた言葉に反応し、その拳を下ろした。大助は嬉しそうに目を細める。
「今日は察しが良いね。もしかして、その辺りの思考も賀川の能力で阻害されているのかな。いやでも──」
ぶつぶつと呟きながら大助が立ち上がる。考えをまとめる際に独り言が出てしまう癖があるらしい。早急に直した方が良い、俺が不快だから、と重光はこめかみを痙攣させた。
そんな重光に大助は突然ふわりと笑いかける。怪訝な顔を返す重光。
「今なら話せそうだし、話しておくか。武藤光登だよな。アンタのお兄さん。いまの名前は羽澄光汰」
「何で知ってる」
間髪入れずに重光は問う。怪訝な表情に変わりはない。大助は僅かに考える素振りを見せたあと、苦笑気味に答えた。
「アンタの親と一緒で、おれの親も黒寄りのグレーだからだよ。アンタの親におれの父親の名前聞かせてみたら、嫌な顔するんじゃないかな」
「は? お前んとこと一緒にすんな。馬ー鹿」
噛みつく重光に大助は肩を竦める。「アンタは愛されてる方だもんな」
「そーだよ」
重光は得意げに顔を綻ばせる。大助は苦笑いを濃くした。
「おれは生憎そっちじゃなかったから。羽澄光汰が記憶を失くしているのも、家で嫌われていたせい?」
「順番が逆だっての。あいつが全部忘れたから……」
重光は舌打ちをして言葉を打ち切る。それを大助が「記憶が戻る兆しがなさそうだから、捨てられたってこと?」と無遠慮に尋ねる。
「お前に話すことじゃねーし、泣いて土下座して頼まれてもお前には話したくない。つーか、知ってんのにあいつのこと殺す提案してくんの頭おかしいだろ。狂ってんのか」
「そこまで言われる? だって武藤は羽澄光汰が実の兄だってことを知っているのに、本人に伝えようともしなかったし、それどころか酷く嫌ってたじゃん。はじめにも言ったけど、おれからは『殺意』にすら見えたよ」
そう言うと試すように目を細め、重光を見据える。
「お前の言う殺意、綿飴より軽いよな」
お話にならないと言わんばかりに肩を竦めた重光は「お前といるだけで疲れる」と大助に背を向けた。それはこっちのセリフだよ、と小さな声で呟いた大助は今度は呼びかけるように「賀川のところに行くの?」と尋ねた。
重光はぴたりと足を止める。それからしばしの沈黙の後、「誰だよ、それ」と困惑した表情で振り向いた。ぴちゃり。重光の足から流れ続けている血液の音が響いた。




