炎と氷と理想郷
『脳梁くん』。いつひが少し前からハマっているキャラクターである。中枢神経系をゆるくデフォルメしたキャラが「グロかわ」だと一部でカルト的な人気があるとかないとか。ちなみにいつひはスマホケースを『脳梁くん』のものに新調したと重光に自慢したところ半笑いを送られた。
そんな『脳梁くん』、ひと月ほど前にファン待望のぬいが数量限定で発売された。そしていつひは買いそびれた。フリマサイトに出品しているユーザーを適当に呪いつつ通報しまくった一日を思い返しながら、いつひは恐らく最後であろう再販チャンスに縋ろうと急ぎ足でぬいを再販しているという店に向かう最中である。
「転売ヤーに負けてたまるか……! てかそもそも公式も手を打つべきでは?」
ものの百メートルほど小走りを続けたところで早くも息が切れだしてしまったいつひは徒歩に戻る。「あと、転売ヤーから買うやつ。加担すんな」
怨嗟をぶつぶつとぼやきながらしかし足を進め、個人店とチェーン店のテナントが立ち並ぶモールの中にあるお目当ての雑貨屋に辿り着く。なるほど『脳梁くん』目当てと思しき人間がちらほら開店を待っているのが見えた。しかし人数は知れている。これなら売り切れの心配をする必要はなさそうだ。
「ふわふわのいのちだ〜!」
手に入れた『脳梁くん』に頬ずりをし、いつひは声を上げた。『脳梁くん』は名前の通り『脳梁』の形をしている。有り体に言えばコード束だ。薄いピンククリーム色で模したたんぱく質と脂がところどころに付着しているのがいつひ的には高ポイントである。
南北に長いモールの北端、ベンチに腰掛けたいつひは自身の頭に『脳梁くん』を乗せると、その様子をスマホカメラで撮った。
「ん、転売ヤー駆逐。心安らかなり。日本の夏」
スムーズに目的のものを手に入れられたこともあり、上機嫌ないつひはえびす顔である。少し斜に構えた態勢で天を仰ぎ、自身の写真を撮った。
「ついでに『みごかわ』釣ってこ〜」
ひょいと身軽に立ち上がったいつひは近くのゲームセンターに入った。次の目当ては『みごかわ』。名状しがたきものをモチーフにした畏れ多き創作物のタイトルだ。いつひが特に推しているのは「よぐたん」である。ちょっと嫉妬深いところが可愛い。
重光が一緒だと「うるさい」といつも以上に眉間の皺を深く刻んでいることを思い出しながら賑やかな空間を行く。
「鋭角に気をつけて〜」
機嫌良く鼻歌を口ずさみながら、いつひはゲームセンターを闊歩する。
「あ、てめぇは」
そこに水を差す声が掛かる。「げ」といつひは一気に顔を歪めて声の主に視線を向けた。お互いの不快そうな視線がぶつかる。気だるげな声色、無駄な身長。フローズン・フェスティバルで遭遇した因縁の相手、寒川笑琉がそこにいた。見れば彼の手にも『脳梁くん』がある。
「それ……」
頼まれて購入したとかであって欲しい、といつひは寒川の『脳梁くん』を指差した。こいつと趣味が同じだなんてやっていられない。寒川は一瞬訝しげな表情をしたあと、「てめぇはどうせ転売目的だろーが、俺は純粋に好きで手に入れてんだ」と得意そうに目を細めた。
「ボクだって『脳梁くん』大好きだし……! きみと趣味が一緒なのは滅茶苦茶嫌だけど!!」
ぎゅっと『脳梁くん』を抱きしめたいつひは寒川を見上げる。身長は重光とそう変わらないくらいだが、敵視されている状態で対峙する約二メートルの男はかなりのプレッシャーを放つもんなんだな、といつひは改めて認識する。バイト中にも平気で人を運んで投げる人間だ。重光の居ない今、挑発的な言動は控えたほうが得策かもしれない。非常に面白くないが。
じ、といつひに見つめられた寒川は痒そうに顔を歪めたかと思うと「お前のせいで俺、イベントスタッフのバイト馘首になったんだぞ」と睨んで返すではないか。
こちらに刺激したつもりは毛頭ないが、勝手に不穏な展開となりつつある。つい反射的に重光の姿を期待してしまうものの、重光を置いてきたのは他ならぬいつひ自身である。どうしようもないタイミングの悪さを呪うしかなかった。
「あー……、ご愁傷さまです〜」
残当、という言葉は頭に浮かばせるだけにしておいた。だというのに寒川はこの殊勝な態度ですら気に入らなかったようで、ますます表情を硬化させる。彼の纏う雰囲気がフローズン・フェスティバルでいつひを抱え上げる直前のそれに酷似していて、いつひは直感する。──まずいやつだ。いつひはじわじわと後ずさった。ついでに重光に連絡しようとスマホを取り出そうとすると「おい」と手首を掴まれる。かしゃん、と乾いた音を立ててスマホが床に落ちた。『脳梁くん』デザインのカバーが装着されたそれを一瞥した寒川は「脳梁ファンなのはガチなのか」と目を僅かに見開いて意外そうに呟いたが、今気にすべきなのは絶対にそこではない。下唇を軽く噛んだいつひは寒川を見上げながらそう思った。
「なんだ〜? その目は〜〜?」
「うわ出た。特定人種の常套句」
敵視され逃げられる確率が低いなら、この際言いたいことを言ってやる。いつひは寒川に白い目を向け、嘲笑う。すると予想通り──というよりほとんど確定事項と言うか――、寒川はいつひに冷たい睥睨を向けるや否や、いつひの前髪を鷲掴みにした。
「……痛ッ!」
涙が滲む。そのまま上に引っ張られた。「ハゲるじゃん……!」
「全部毟ってやろーか」
寒川の大きな手で顎を挟むように頬を潰される。手を掴まれたときにも思ったが、この男、異常とも思えるほどに手が冷たい。フローズン・フェスティバルのときには全く気にならなかったが、空調の効いた屋内では触れられていると凍えそうなほどだ。それとも、もしかしたら今は能力を発動させているのかもしれない。いつひは潤んだ瞳でしかし寒川を見据えた。
「やっぱムカつくな。小せーのに生意気だ」
「そんなにめちゃくちゃチビって訳でもないよ、ボク」
頬を潰されているのでもごもごと不明瞭な発音をしつつ、いつひは答えた。こうしている間にも数人が通りかかったが全員遠巻きにしていくだけである。せめて店の人に伝えてくれていれば、とは思うが、重光には及ばないものの結構な無法者で傍若無人ぶりを見せてくる寒川のことである。星憑きでもない、ただの人間からの注意など素直に聞き入れるとは到底思えない。身体のデカい男にまともな人間はいないのか。小学生や幼稚園生の頃だって、図体のデカい男子は十中八九いつひをからかった。それこそ、重光を除いて。
こんな厄介なことになるなら、ゲームセンターなんぞに寄り道せず素直に重光の観戦に向かうべきだった。寒川の冷たい手に震えながら、いつひは心の底から後悔した。
「何してんだよ、お前は」
不意にいつひの耳朶を叩くのは聞き馴染みのある声。ハッとして声のしたほうに目を向けると、思った通り不機嫌そうな顔をした坊主頭がそこにいた。
「桜庭くんだ!」
手に下げているのは景品袋。ぬいぐるみが詰め込まれている。いつひの視線に気づいた湊叶はそっと袋を身体の後ろにやってから「お前のことだからどうせまた煽ったんだろ」と寒川といつひの二人へ交互に視線を向けた。
「煽ってない煽ってない! 今回はマジでとばっちり!」
いつひが喚くも、相変わらず頬を掴まれているためモゴモゴと大変聞き取りづらい。「あーうん」といつひに生返事を返した湊叶は「まー、多分、悪いやつじゃないんで、あんま乱暴なことすんのやめてやってくれねっすか」と寒川に近付いた。寒川はいつひを解放すると湊叶に向き直り、品定めをするような目で彼を眇め見る。いつひが「多分じゃなくて全然悪いやつじゃないです〜」とぼやくのを余所に、湊叶と寒川はほとんどガンを付け合う様相に変化していた。ここに至るまで僅か数秒。やはり彼らに必要なのは瞬発的な沸騰力なのだ。
たまたまではあるが、湊叶がやって来てくれて幸運だった。いつひはこっそりこの場を離れようとゆっくり彼らに背を向ける。
「何薄目になってんだよ」
湊叶に横目で見られ、「これ持ってろ」と景品袋を渡される。「え」反射的に手を出して袋を受け取ってしまったいつひは「や、これ……」と返そうとするが、既に湊叶はいつひの方を見ていない。
「〜〜っ、貰っていっちゃうもんね!」
ぷんっ、と鼻を鳴らしたいつひは袋をぎゅっと抱きかかえるように持つと駆け足で離れ──、クレーンゲームの筐体の影に隠れてから頭だけをひょこりと出して事態の展開を窺った。野次馬はする。もちろんする。
「あ? クソチビぃ、正義のヒーローごっこか? また俺が悪いってんのか? クソっ! 全員死ね!」
寒川は湊叶を睨む。その動きは貧乏ゆすりから床が揺れるような地団駄へと変化した。何がトリガーになったのか全く以て不明だが、敵意が全方位に向いたことだけが確かだ。それにしても酷く不安定な情緒である。
「わざわざ自分より小さいやつに喧嘩売るやつにまともな奴はいねぇって持論あんだけど、結構的中すんだよな」
口の端を歪めて笑えば、寒川も同じ表情で返す。
「そりゃ随分自分本位な持論だなぁ? お前喧嘩売り放題じゃねぇか」
「『持論』つーからには自分本意なもんだろッ」
語末の促音とともに湊叶は弾けるように寒川に向かって飛び出した。その勢いにいつひが小さく「おお」と感嘆の声を漏らす。でも別に湊叶が小さいからって喧嘩売り放題になるという解釈は飛躍しすぎでしょ、やっぱ危険人物すぎる、といつひは寒川に薄ら寒い感情を抱いた。親父ギャグではない。
湊叶の特攻に寒川は微塵もたじろぐ様子も見せない。うさぎが飛びかかって来ているようなイメージなのかも、といつひは思う。湊叶は犬っぽいと思っているいつひ的にしっくりくるのは豆柴だ。唐草模様の風呂敷が似合うような。
勝手に脳内で擬獣化されているとは知らない湊叶は見事寒川の顎に拳を入れる。寒川は僅かにうめき声を漏らし、しかし湊叶は追撃を行わずそれどころか焦ったように距離を取った。
寒川に触れた拳から伝わる凍てつくような冷気。氷──違う。あれ自体は冷たくない。単純に、熱を奪われている。まだ体温が戻りきらず僅かに痺れまでしている拳と寒川を見比べ、湊叶は微かに震えた。
「気持ち悪ぃな……」
「俺もそう思う〜。少し前まではさぁ、俺だって単なるひんやり系氷の能力者だったのに、五月女のせいでよぉ──」
また出た。五月女。湊叶の表情が峻厳なものになる。春日井の話にも出てきた「リーダー」。その五月女とかいう奴に無理矢理能力を改変させられたのだろうか。湊叶の脳裏に過るは安土唯誓──、異能を強化する薬を配っていた人間。唯誓は総能研に身柄を押さえられているようだが、薬の出処が卸先を変えたとすればこれほど分かりやすいこともない。
「──物騒な能力になっちまって……。やっぱ全員死ね」
空気が一気に冷却されたことによる、瞬間的な減圧。耳鳴りが湊叶を襲う。顔を顰め、耳に手を当てたところに寒川の純粋な暴力が飛んでくる。体格を活かして長い腕を大雑把に振り回すだけだが、能力が乗っているだけ十二分に脅威だ。
というか、触れるだけで熱を奪われるというのは、直接攻撃を主とする自分には些か分が悪い。
湊叶が口元に浮かべた苦笑いを寒川は挑発と受け取った。びゅ、と湊叶の顔の横を物凄い勢いで拳が通り過ぎ、次は横に薙いでくる。後方に宙返りしてそれを回避した。両足揃った着地音。いつひが「おお」と小さな歓声を上げたのが聞こえた。見ればすぐ後ろにいつひの顔がある。
「さて、どーすっかな」
「桜庭くんって無策で挑むこと多いよね」
誰のせいで、と喉まで出て来た言葉を飲み込む。頼まれていないのに首を突っ込んでしまうのは湊叶が自覚している悪い癖の一つだ。苦虫を噛み潰したような表情を一瞬浮かべたあと、湊叶は炎を両腕に灯した。いつひがふと天井を見上げる。視線の先には火災報知器があった。
「お〜〜、お前炎系能力者かよ〜。氷対炎っていいよな、王道だなッ」
言葉とは裏腹に、寒川はやはり苛立った様子のまま湊叶に向けて腕を振り回す。あの大雑把な攻撃、少しでも掠れば体温を奪われるのだろう。
だが、奪った熱エネルギーは何処へ行くというのか。既存の物理法則など無視していそうな星憑きの能力だが、ある程度は人間の常識に従っている。湊叶はそう感じていた。処理できないほどの熱エネルギーをぶつけてやれば、寒川を過負荷状態に持ち込めるかもしれない。
寒川に躍り掛る前に、床に落ちていたスマホ──いつひのものと思われる──を足で蹴り、いつひの元に滑らせておく。直後、スマホに向けて喚くいつひの声を湊叶は耳朶で拾った。
能力の使用時間はなるべく短く。一気呵成に畳み掛ける。能力を頻繁に使うようになってから、自身の能力の癖が分かってきた。能力の小出しは出来ない。ガスレンジだって火力を調節できると言うのに。自分を皮肉りたくもなるが、自分らしいと言えばその通りなのかもしれないとも思う。
そうして両者は激突。衝突の瞬間、湊叶は頭が捻じ曲げられるような奇妙な感覚に顔を顰めた。直後、その感覚の正体を何となく理解する。異能で生成した熱を奪われているということは、能力を展開するために使っている集中力やら体力やらを奪われているのと同義なのだ。
寒川の表情を窺い見ると、僅かに唇を噛み締めている。隠しているようだが、無理をしているのは容易に見て取れた。
ならば、と湊叶は能力の出力を一気に上げた。瞬間的な火力には自信がある。耐えきれなくなった寒川にダメージが入れば、たぶんきっと勝機が見えるはずだ。
湊叶の読み通り、寒川は苦しそうに顔を歪めた。対象的に湊叶は口の端を上げる。能力と能力の出力勝負。行き場を失ったエネルギーが光に変換されたのか、フレアのようにゆらゆら煌めく。いつひが「すご。なんか、アニメとかゲームみたい」となんとも陳腐な感想を呟いた。
「そ。これが俺が思う理想の世界」
呟いた言葉の語末が空気に溶けるよりも早く、応じる声があった。聞き覚えのあるその声――しかし此処に居るはずのない人物の声――に顔を上げたいつひの両目は五月女の姿を捉える。暗い橙の髪を下の方で縛り、カラーサングラスに柄シャツ。視線だけを寄越してきた五月女に「あれ? 何でここにいるの?」と怪訝な顔でいつひは尋ねる。五月女は涼しい顔で答えた。
「武藤を倒してきたから」
「や、さっきボク通話したし。虚言癖あるんだ、了解っと」
たん、と床を鳴らす音が二人の前方で聞こえた。湊叶と寒川が一旦互いに距離を取ったようだ。いつひの主観だが、湊叶のほうが余裕があるように見える。
「この騒ぎ、総能研来るでしょ」
いつひはちらりと後ろに目をやった。五月女は不敵な笑みを湛え「俺がいるのに?」と鼻を鳴らした。メンタルはそれなりに強いらしい。厨二ごっこも上手だし、そりゃそっか、といつひは勝手な納得をした。
「五月女くんがいると総能研来ないわけ?」
いつひも五月女の態度に対抗するように挑発気味の口調で皮肉っぽく笑う。すると五月女は急に顔から笑みを消した。「ああ」そして、頷く。
「総能研に身内がいるとか? そういう?」
「まっさか。そもそも俺に身内なんかいねぇし。そういう子ども集めて良いように使ってんのが総能研」
「おお、これが内部告発、公益通報。潰されないように注意してね」
いつひが愉しげに手を叩く。呆れた五月女がため息交じりに「告発するつもりはさらさら無いよ」と目を細めた。「そもそも星憑き自体が良いように使われてたんだから今更どうでもいい。今度はこっちが使ってやる番だ」
「はえ〜〜。崇高なご信念」
一転気のない拍手を送るいつひ。何となくつまらない匂いがぷんぷんしてきた。
「具体的には? 厨二臭でむせ返りそうなアイコン使って武藤くんに謎接近してきたり、カコイイ組織作ってみたり?」
刺々しい言葉を半ば吐き捨てるように言い放ついつひに五月女は「手厳しいな」と笑う。再び笑みを纏った五月女は「俺だって革命は初めて起こすんだ。試行錯誤だよ」と続けた。
「革命の練習出来るの、佐波沼の治安が良い証拠だね」
「来週。予定を空けておくといい」
「やだよ」
ちら、といつひは湊叶たちに目を遣った。拳の応酬が行われているが、どうやら湊叶に分があるように見える。ただ、寒川も必死に抵抗しているからか、なかなか決着とは行かないようだ。いつひは微かなため息を吐くと視線をついと後ろに向けた。そろそろ重光が来るだろうから、膠着状態も終わるだろう。そういつひが僅かに目を細めたときだった。横にいた五月女が、背後から飛んできたゲーム筐体によって吹き飛ばされて潰れたのは。普通なら驚いて硬直でもしそうな状況だが、いつひは顔を輝かせた。こんな芸当をやってのける人間はおそらくきっと。
「武藤くん!」
ゲームセンターの入口付近、子ども向けTCAGの筐体をいとも容易く投擲武器へと変化させた重光が、いつものように不機嫌そうな顔をぶら下げて立っていた。




