第98話 あなたへ伝えたい
哲矢たちが三年A組の教室へ着いたのは、五時間目の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた後であった。
ぞろぞろと教室から出ていくクラスメイトを眺めながら、哲矢は大貴たちの姿を自然と目で探していた。
見たところ彼らの姿はない。
少しだけホッとして哲矢は花と一緒に教室へと足を踏み入れる。
あれから特に問題は起きなかったのだろう。
机も椅子も何ごともなかったかのように綺麗に元通りとなっていた。
「……んっ?」
そこで哲矢はある違和感を抱く。
いつもよりも教室にいる生徒の数が極端に少ないように思えたのだ。
それを見て、花は何か思い出したように「あっ!」と声を上げた。
「そうだっ。次の授業、移動教室だよーっ!」
「移動教室?」
「ディベート・ディスカッションの英語は多目的ホールって教室で行われるんだ」
「なんだ。そうだったのか」
「しかも学年合同の授業だから。早く行かないといい席が埋まっちゃうんだよね」
だから、クラスメイトらは揃って教室を出ていったのか、と哲矢は思った。
そこで哲矢はある重要なことを忘れてしまっていた事実を思い出す。
(やべっ……。まだ稲村ヶ崎に声かけてないぞ……)
先ほどの騒動で完全に忘れてしまっていたが、応援者の打診をすることは明日の立会演説会の主導権を握るためにも非常に重要なことであった。
その前に、利奈が何と言っていたか気になるところである。
「なあ、花。結局、鶴間は応援者の件は了承してくれたのか?」
「あっ、そっか。まだ言ってなかったよね。その件なんだけど……」
そこまで花が口にしたその時――。
「……あのぉ」
哲矢は背後から声をかけられる。
振り返るとそこにいたのは四人の男女であった。
たしか受験同盟を結んだっていうグループの……と、哲矢はとっさに彼らの情報を思い出しながら返事をする。
「……ん? 俺になにか用か?」
「えぇっと……」
グループを代表して声をかけてきたほんわかとした雰囲気の男子生徒は、あからさまにやってしまったという顔をしていた。
声をかけるかどうか迷っていたのだろう。
それでも一度声をかけてしまった手前、引っ込みがつかずに続く言葉を彼は必死で探しているようであった。
「か、体はもう大丈夫なのかいっ?」
やがて、意を決したように男子生徒がそう口にする。
彼らとしては勇気のいる行動だったに違いない。
それが十分に分かったからこそ、哲矢は努めてフレンドリーに振る舞うことにした。
「ああ、さっき保健室でいい感じに治療してもらったから。まだ少しヒリヒリするけど全然問題ないよ」
「そ、そうぅ……」
ほんわか男子は残りの仲間たちと顔を合わせながらどこか居心地を悪そうにしている。
コミュ力が高いわけではないのかもしれない。
続く言葉が見つからず、四人は同様に気まずい顔を浮かべていた。
(なにか話さないとっ……)
哲矢も同じく続く言葉を探していた。
これまで他者と距離を置く生活に慣れていた哲矢は、こうしたイレギュラーな会話への対応力がまだまだ低い。
何か話を切り出そうとする度に言葉が喉元で引っかかってしまうのだ。
そう焦りを加速させる哲矢であったが……。
「哲矢君、かっこよかったですよねっ!? あの入谷さんたちのグループにずばばばーんって立ち向かって!」
勢いを持って話に加わってきた花の言葉に救われる。
彼女は普段よりもテンション二割増しで四人に声をかけ続けた。
「少女漫画に登場するイケメン男子みたいじゃないですか? ピンチに助けに現れてくれて♪」
「お、おいぃ!? なに言ってんだっ!?」
恥ずかしげもなく大げさに言われ、思わず狼狽える哲矢であったが、彼らにとってその言葉はどこか刺さるものがあったようであった。
「そうなんだよっ本当にすごかった!」
「かっこよかったよな。あれ、普通できねーぜ」
男子二人がどこか興奮気味にそう答えると、残りの女子二人も会話に加わってくる。
「びっくりしたよね~っ」
「うんうん。あのタイミングで飛び出すのって勇気いると思うし」
哲矢との思いとは裏腹に彼らは概ね好印象を抱いているようであった。
その後、花を中心にささやかながら会話が弾む。
翠に別条がない旨を哲矢が口にすると、四人はほっと胸を撫で下ろした。
彼らなりに色々と心配してくれていたに違いない。
また、大貴や彩夏たちについての愚痴も一言二言哲矢は耳にする。
やはり、クラスメイトも快く思っていないのだ。
あれだけ好き放題振る舞われていたらそれも当然だけど……と、哲矢は思う。
時間としては5分にも満たなかったかもしれない。
けれど、哲矢にとって彼らとの会話は、明日に控えた計画が十分に現実的なものであるということを確信させる重要な機会となった。
「……それじゃ、俺たちはそろそろ先に行くよ」
「はいっ♪ 私たちもすぐに向かいます!」
「気にかけてくれてありがとう」
自然と哲矢の口からそんな感謝の言葉が零れる。
四人の男女はお互いに顔を見合わせて微笑むと、手を振りながら教室から出ていくのだった。
◇
「よかったね。仲良くお話ができて」
「そうだな。うん……なんていうか、不思議な感覚だった」
「不思議な感覚って?」
「いや、これまでクラスメイトと普通に話すことなんてほとんどなかったからさ」
「たしかにそうだよね。私も驚いちゃったよ。あっ、哲矢君今みんなと楽しそうに会話してるって。うふふっ」
「自分でも驚いたよ。というのもさ。俺、地元の高校でもいつも一人でいることが多いから」
「……えっ?」
笑顔を見せていた花は目を丸くさせると、まじまじと哲矢の顔を覗き込む。
教室はいつの間にか誰もいなくなり、哲矢と花だけがそこに取り残されていた。
ふぅと息を吐き出すと、哲矢は一度天井を見上げる。
メイに打ち明けた時も感じたことであったが、自分の過去を話すことはどことなく恐怖があった。
それでも花には話をしておく必要があると哲矢は考えた。
今がそのタイミングなのだ。
薄く下唇を噛むと、哲矢はなるべく明るい口調を貫いてこう続けた。
「あまり馴染めてないんだ。他人と距離を置くようにしてたりしてさ。これまでは、俺にはこの生き方が合ってるって言い聞かせてきたけど……本当はそんな自分が嫌で、変わりたくて……」
「昨日、ベランダで言ったよな。〝今までの自分を変えたい〟ってさ。あれはそういう思いがあったからなんだ」
「さっき翠の元へ駆け寄ったのも、友達を助けられる自分に変わりたかったからで……。結局、いいところは見せられなかったけどさ」
「哲矢君……」
「だから、なんていうか……。クラスメイトと普通に会話してることが不思議に思えたんだよ。なんとなく自分じゃない感じがして」
このままここに居ては確実に六時間目に遅れてしまう。
だが、それが分かっていても、哲矢は話を止めることができなかった。
花も哲矢が今とても大事な話をしているということが分かっているのだろう。
彼女もこの場から一歩も動こうとしない。
やがて、彼女はこう小さく口にした。
「それって、哲矢君が変わったってことじゃないかな?」
「俺が……変わった?」
「だってそうじゃない? これまでしてこなかったことをするようになったんだから。いい方向に変わってきてるんだよ!」
これまで哲矢は、将人の冤罪を証明することでしか自分を変えることはできないと考えてきた。
だが、そうではないのだということを花が教えてくれる。
過程にいる自分もまた変わることができるのだということを哲矢は彼女の言葉で思い知るのだった。
それはほんの些細なものかもしれない。
しかし、哲矢にとってはとても意味のある変化であった。
(俺は変わってきてる……)
改めて心の中でそう唱えてみる。
まだ上手く実感を抱くことはできなかったが、彼女にそう言われたことでこれまで見えなかった自分の姿を哲矢は確認することができるようになっていた。
「うん。そうだな。ありがとう、花」
この瞬間、哲矢は二つ目の感謝の言葉を口にするのだった。




