第96話 白衣の女教諭
白衣の養護教諭が保健室へと戻ってきたのは、それからしばらく経ってからであった。
「あ、なんだぁ? 客人がおったか」
ぼさぼさにした長い髪をかき分け、眠たそうな瞳を前髪の隙間から覗かせる。
30代前半くらいの女だ。
「あっ、先生っ! ちょっと診察してもらえませんかっ? 追浜君が後頭部を強く打ったみたいで……」
「どれ」
花のその言葉に一瞬で表情をきりっとさせると、養護教諭は翠が寝ているベッドへと近づく。
彼女が目の前を通過すると、強いタバコの匂いが哲矢の鼻のかすめた。
おそらく、今までどこかで暇を潰していたのだろう。
今さらここの教員に何か期待をしているわけではなかったので、哲矢は黙って彼女の仕事ぶりを見守った。
暫しの間、翠を体を診察した後、養護教諭の女はなんでもなさそうにこう口にする。
「このくらいの小さなコブなら大丈夫」
「……で、でもっ!」
「追浜君は……」
野庭と小菅ヶ谷が一気に養護教諭に食いかかる。
そんな二人の肩をぽんぽんと軽く叩くと、彼女はデスクに腰をかけて加熱式タバコを口に咥えながらこう口にした。
「そう過剰に心配するな。今はただ眠っているだけだ。たしか、お前たちは放送部だったよな? 最近、根詰めて部活に取り組んでるだろ?」
「ぇっ……」
「……は、はい?」
「今日の午前中も屋上でなにか撮影をしてたよな。アタシは遠くから見てたんだ。疲れが溜まってたんだろう。外傷はほとんどない。そのうち目を覚ますさ」
養護教諭の女は蒸気を口に含んで吐き出しながら笑顔を見せた。
どうやら周りを見ているまともな教員であったらしい。
なぜ、午前中に彼女が屋上にいたのかは特につっこまないことにしようと、哲矢は思った。
「ありがとうございますっ先生。それで、関内君も一緒に診察して頂けないでしょうか?」
「いや花、俺は大丈夫だってっ……」
「……関内?」
そこで養護教諭の顔が哲矢の方を向く。
彼女は診察台の上に座る哲矢の顔を目を細めながら眺めると、からからと笑った。
「そうかぁ。見慣れない生徒が一人いると思ったら君が関内君か~」
「は、はぁ……」
「噂はかねがね。色々と耳にしているよ」
その言葉に哲矢の中で警戒心が芽生える。
けれど、すぐにそれは無用の心配であることが哲矢には分かった。
養護教諭の女は再び口に含んだ蒸気を美味そうに吐き出すと、加熱式タバコを一度デスクへ置いて伸びをする。
「まあ、臨時職員であるアタシには関係のない話だがね」
そう言って彼女は立ち上がると、哲矢の元へ近寄って傷の具合を確認する。
「ああ、こりゃ痛そうだ」
本当にそう思っているのだろうか。
養護教諭の女は水の入ったボトルをテキパキとした動作で持ってくると、ピンセットで摘まんだガーゼを水で濡らし、それを哲矢の傷口へ迷うことなく押しつける。
「いぃっ!?」
「少しヒリヒリするだろうがちと我慢だ」
傷口を清潔にした後、彼女は大きめの絆創膏を頬にぴたっと貼って哲矢の背中を強く叩いた。
「よぉし、これでこっちは完了だ。さて、アタシはこれからまた野暮用で保健室を空けるから、お前たちは好きにするといい。それじゃな」
養護教諭の女は白衣を翻して颯爽と部屋を後にしてしまう。
嵐のような彼女が去ってしまうと、室内は急に静かとなった。
「ぃてて、あの先生、随分と自由人だぞ……」
「あはは……。学園でも特に有名なんだよね。滅多に保健室に現れない先生って。でも、いざっていう時は頼りになるから」
「追浜君も……」
「……大丈夫そうで安心しました」
ふと四人でベッドで横になる翠に目を向ける。
彼はすやすやと寝息を立てて眠っていた。
養護教諭の話の通り、本当に疲れて寝ているだけなのだろう。
「あっ、もうこんな時間だ」
花の言葉に反応して掛け時計に哲矢は目を向ける。
時刻はあと少しで五時間目が終わるところであった。
このままここで安静にしていようかとも考えたが、哲矢は先ほどの教室での一件がどうしても気がかりであった。
教室にはまだ大貴や三崎口たちが残っている。
またひと騒ぎ起こしているという可能性もゼロではない。
それが花も分かったのだろう。
彼女は哲矢に一度目を向けると、「哲矢君」と小さく声をかけてくる。
「ああ、俺はもう大丈夫だ」
哲矢がそう口にすると、花もどこか決心したように頷くのだった。
「それじゃ、哲矢君と私は教室へ戻ろうと思います」
「……私たちは」
「追浜君が起きるまでここにいます……」
二人は息をぴったりと合わせながら「本当にありがとうございました」と言って、同時に頭を下げた。
彼女たちにとって翠の存在はとても大きなものなのだろう。
きっと家族ほどの絆があるに違いない、と哲矢は思った。
心配そうな眼差しでベッドを見つめる野庭と小菅ヶ谷の背中を眺めつつ、哲矢は花と一緒に保健室を後にするのだった。




