第92話 友達のために
花が屋上から立ち去ってからも哲矢はしばらくその場で考えを巡らせていた。
青空が眩しい。
(今日は昨日と違って本当にいい天気だな)
大きく伸びをして午後も気合いを入れていこうと気を引き締める。
まずは教室に戻って一兵に声をかける必要があった。
そんなことを考える哲矢であったが……。
(んっ?)
ふと、何か胸に引っかかりを覚える。
すぐに違和感の正体に哲矢は気づいた。
「あ……ヤベっ……」
今朝、メイに昼に電話すると言っていたことを完全に忘れてしまっていたのだ。
慌ててブレザーのポケットを弄るが……。
「そうだったぁ~!!」
失念は二度続く。
スマートフォンは壊れており、教室の机の中に入れっぱなしにしてあることを哲矢は思い出す。
職員室で電話を借りるという手も一瞬浮かぶも、清川や社家と顔を合わせたくないという思いがあった。
(やっぱり、花に借りるしかないよな)
メイのことは気がかりではあったが、今朝の様子を見るに今日は大人しくしているはずだ、と哲矢は思う。
彼女にはあとで連絡することにして、ひとまず教室へ戻ることにする。
コーヒー牛乳を一気に飲み干すと、哲矢もまたその場所を後にするのであった。
◇
三年A組の教室へと向かいながら哲矢はある誤算に気づいていた。
時刻はすでに五時間目が始まる5分前となっていたのだ。
(こりゃ、稲村ヶ崎に声をかけるのは授業が終わってからだなっ……)
少しだけ屋上に長居し過ぎてしまったようだ。
昼休みの終わりを告げる予鈴チャイムを耳にしながら、哲矢は急いで階段を駆け下りた。
1階まで下りてそのまま廊下を歩いていると、A組の教室から何やら騒ぎ声が聞こえてくることに哲矢は気づく。
(なんだ……?)
どことなく険悪な雰囲気を感じさせるそれに哲矢の緊張は一気に高まる。
すでに後方のドア近くには多くの人だかりができていた。
嫌な予感を抱きつつ、哲矢は彼らの背中越しから中をそっと覗き込む。
するとその瞬間――。
哲矢の目に机に凭れたままうな垂れている翠の姿が映った。
「翠ッ!?」
哲矢は思わず声を上げ、強引に人だかりを掻き分けて彼の元へ駆け寄る。
「ううっ……」
頭を強く打ったのか、翠は後頭部を押えつつ、意識が朦朧としている様子だ。
まるで隕石が落下したかのように彼の周りには誰もおらず、クラスメイトらは騒ぎを避けるように散り散りとなって傍からこちらの動向を眺めていた。
彼のすぐ近くには、怯えた目を覗かせて震えている野庭と小菅ヶ谷の姿もあった。
「おい翠ッ! 大丈夫かっ!?」
哲矢が大声でそう訊ねるも彼の反応は鈍い。
苦悶の表情を浮かべながら頭に手を当てている。
そして、哲矢はすぐにある違和感に気がつく。
「えっ……」
彼はズボンの上から制服のスカートを穿いていたのだ。
それをあざ笑うかのような声が教室に響く。
「へッへッへッ。似合ってるぜぇ~それぇ」
前方に目を向けると、体を揺らせながら面白おかしそうに笑っている二宮の姿が飛び込んでくる。
よくよく確認すれば、教卓周りにはそこを陣取るようにして占拠している彩夏一派の姿があった。
「そんなオカマはさぁ、死ねばいいのにぃ♪」と華音がネイルに目を落としながら口にすると、それに同調するように寒川が乗っかってくる。
「おい、もうめんどくせーから普段からそれ穿いとけや!」
「オカマってみんなに分かってもらわねぇとなぁ~」
二宮はなおもヘラヘラと下品に笑い続けている。
中井だけは、腕を組んだままじっと目を瞑ってその場で黙り込んでいた。
そんな彼らの中心で一人。
哲矢と翠の姿をもの凄い形相で睨みつけている者がいた。
(……入谷っ……)
まるで、心の奥深くまで覗かれているような鋭さがそこにはあった。
それで哲矢の思考は途端に雁字搦めとなってしまう。
まただ……と、哲矢は思った。
いつもここから先が踏み込めないのだ。
先ほど言われた花の言葉が甦る。
『でもね、今は耐えてほしいんだ。明日のためにも今日は目を瞑ってほしい』
哲矢はもう問題は起こさないと誓ったはずであった。
けれど、迷いがあったのも事実だ。
ふと脳裏に今朝のメイの言葉が浮かぶ。
『これだけは覚えておいて。どんな場面でも大事なのは、あんたがどう考えて行動するかだって』
ひょっとすると、メイはこのような状況となることを見越してこの言葉を口にしたのではないだろうか、と哲矢は思う。
(大事なのは、俺がどう考えて行動するか……)
自分はどう考えているのだろう。
(俺は……)
――そうだ。
自分を変えたいと思っているんだ、と哲矢は思った。
【友達】を守れる自分に変わりたかったのである。
(花……ごめんっ)
哲矢は机に凭れかかっている翠を静かに抱き寄せる。
そして、彼の耳元に「今助けるから」と声をかけた。
干渉してしまった。
もう後には戻れない。
(……いや、戻る必要なんてないんだ!)
決心して立ち上がる哲矢の姿を見て何か感じ取ったのだろう。
集団の中にピリッとした緊張感が走るのが哲矢には分かった。
「おおっ!? なになにっ? さっきのオホモダチのご登場じゃないっすか!?」
哲矢の顔を思い出したのか、二宮がニヤけながら挑発するような言葉を投げかけてくる。
それを哲矢が黙って睨み返すと、彼はさらに嬉しそうな声を上げるのだった。
「ヘッヘッヘッ、スゲー臭せぇー眼してんじゃんっ! こいつぅっ!」
二宮は、架空の相手と打ち合いをするようにシャドーボクシングを繰り返しながら感情を昂らせていた。
他の者たちも哲矢の反抗的な目に気づいたのだろう。
二宮を囃し立てるような声を上げてくる。
「ニノ~。そいつ、ぶっ殺っしちゃえっ♪」
「ハハハッ、やっちまえよ二宮っ!」
場のノリを楽しむようにして盛り上がる華音や寒川とは対照的に、彩夏は事の顛末をまるで査定でもするかのように、冷ややかな目を哲矢に向けるのだった。
その表情からは、すでにジャッジを終えていることが窺えた。
完全に彼女らの〝敵〟と見なされてしまったのだ。
「ヘッヘッ~。ボコボコにしてやんぞテメーッ」
二宮がニカッと笑うと、高校生としては相応しくないたくましい口髭が不気味に歪む。
彼は架空の相手を鋭い拳で押し出しながら、哲矢の元へゆっくりと近づいてきた。
室内の緊張レベルは一段階引き上げられる。
にもかかわらず、クラスメイトの誰も止めに入ろうとしない。
いや違う……と、哲矢は思った。
止めに入りたくても入れないのだ。
彼らに盾突くことは学園生活の終焉を意味しているから。
(……なら、ここは俺の役目だ)
哲矢にはこの学園に対して負うものが何も無かった。
無い、と決めたのだ。
(自分に嘘を吐くことを止めたんだ……)
その結果、学園を追い出されることになろうとも、哲矢はそれで構わなかった。
その時はまたその時で考えればいい。
感情を押し殺して【友達】を見捨てることの方が哲矢には堪らなかったのである。
二宮との距離は徐々に詰まっていく。
この頃には哲矢も覚悟ができていて、翠の体をゆっくり手放すと、立ち上がって構えのポーズを取った。
これは哲矢にとって生まれて初めての経験であった。
【友達】のために立ち上がったこと。
何か護身術を学んでいたわけではない。
ケンカだってほとんどしたことがないのだ。
痩せ型の体格を見るに相手もそこまでケンカに長けているというわけではないのだろうが、やはり経験の差はある。
それに今の哲矢は脇腹に爆弾を抱えていた。
無謀なことをしているという実感を抱きながら、哲矢は二宮の攻撃に備えるのだった。




