第9話 彼女による学園案内
机と椅子を元の位置に戻して掃除を終えると、ようやく下校の時刻となる。
(さて……。これからどうしようか)
正直、やることは何も決めていなかった。
少年に代わって学園生活を体験してきてほしい、と言われているだけだからだ。
事件について探るという気分にもなれない。
というよりも、少年は容疑をすでに認めているわけで、本来ならばそんなことをする必要はないのである。
ただ単に、家庭裁判庁は少年に審判を下すための言い訳がほしいだけのことなのだろう、と哲矢は思った。
けれど、このまま無為に放課後を過ごすのも、それはそれで後ろめたさがあった。
だとすれば、生田将人について。
彼のことを少し訊いて回るべきなのだろうか。
しかし、正体をバラしてはいけないと言われていることに哲矢はすぐに気がつく。
教室の中にいるとそのような事件があったとは微塵も感じることはできないが、それでも確かにこのクラスメイトの中から被害者は生まれたのだ。
あまり傷に触れるような行動を取ることは控えた方がいいのかもしれない、と哲矢は思った。
そんなことを考えていると……。
「あの……。もしよかったら、この後学園について少し案内しましょうか?」
手持ち無沙汰となってしまった哲矢の存在に気づいたのか、花が遠慮気味に声をかけてくる。
「え? いや、時間も取らせるだろうし悪いよ」
「気にしないでください。私がそうしたいので」
「でも……」
「……ご迷惑ですか?」
「そんな、迷惑だなんて……」
哲矢は反射的にメイの姿を探すが、すでに彼女は教室からいなくなってしまっていたようであった。
机に掛けられていたはずの学生鞄も無くなっていた。
授業が終わってからの行動は何か指示されていたわけではなかったが、それでもこういう勝手な行動を取られてしまうとさすがに哲矢も呆れざるを得ない。
(帰るならひと言くらい声かけてくれてもいいのに……)
だが、一度もまともに会話を成立させたことのない相手に向けて何か言ったところでおそらく意味はない。
哲矢は開き直って不安そうな顔を覗かせる花に笑顔を見せた。
「……それじゃ、お願いしようかな」
「あっ……はいっ! すぐに帰る準備をしてきますので、先に廊下で待っていてください!」
「オッケー。了解」
こうして哲矢は思いがけない交流を持つこととなった。
ここまで他者と関わることは、哲矢にとってはとても珍しいことであった。
(どうしたんだろうな、俺……)
苦笑いを浮かべつつ、哲矢は一足先に教室を出るのであった。
◇
しばらく三年A組の教室の前で待機していると、鞄を手にした花が笑顔で姿を見せる。
「それじゃ、行きましょう♪」
嬉しそうに口にする彼女の後に続いて哲矢は宝野学園の校舎や設備を一ヶ所ずつ見て回ることとなった。
その間、花は律儀にも一つ一つの箇所に説明を加えながら回ってくれた。
宝野学園は中等部と高等部でキャンパスが分かれており、そのトータルの敷地面積は東京ドーム1つ半ほどある。
その三分の二を占めるのは高等部のキャンパスだ。
高等部には役割の異なる校舎が四棟存在し、それぞれの校舎はどこからでも行き来ができるように1階部分が渡り廊下で繋がっており、中庭を囲むようにして四棟が建てられていた。
職員室や校長室などがあり、主に教員が利用する職務棟。
生徒会室や放送室、マルチメディア室などの複数の部屋が集まった文化棟。
各クラブの部室が点在する部室棟。
そして、生徒が授業を受けるための教室棟。
ちなみにこれらの校舎はすべて3階建てである。
特に教室棟の場合は3階建てというところに意味があり、上から下にいくに従って高学年のエリアとなる、といった具合に1階ごとに学年の教室が分かれているのだ。
なお、クラスの数は各学年ごとに三クラスしかなく、都内の高校としては生徒の数は少ないという話であった。
そのほかにも野外には、野球のグラウンドやサッカー場、テニスコートやプールなどがあり、ダンスルームやトレーニングルーム、柔道場や剣道場などを兼備した運動施設場に、哲矢たちが始業式で参加した体育館も存在する。
職務棟の裏には、今朝車でやって来た来客や教員のための駐車場も完備されており、とにかくこれらの場所をすべて歩いて見て周るのは一苦労であった。
いい運動になると哲矢は割り切っていたからよかったものの、女子である花にとってはある程度体力を削りながらの案内となってしまっていた。
そのことについては申し訳なく感じつつも、こんな機会はこの先もないだろうという気持ちもあって、つい哲矢は花の好意に甘えてしまっていた。
「――市立宝野学園が設置されたのが2014年春のことで、できてからまだ10年しか経っていないんです。桜ヶ丘市が莫大な資金をこの学園に投じたこともあって、生徒の皆はなに不自由することなく学園生活を送ることができているんです」
花はキャンパスをほとんど周り切ると、最後に宝野学園の詳細についての話を始めた。
「学園の最大の特徴は、なんと言っても中高一貫教育を敷いているところにあります。ほとんどの生徒は、幼い頃から付き合いのある団地やマンションの仲間たちで形成されているんです。だから、仲間意識は他の学校に比べて異常なほど高いと思います」
彼女のその話を聞きながら、哲矢はなるほどなと思った。
(体育館で抱いた違和感の正体はそれか……?)
花は短いツインテールの髪に触れながら話を続ける。
「また宝野学園の生徒たちは、中等部へ入学する際に簡単な適性検査や作文を受けただけで本格的な受験というものを経験したことがありません。だから、三年生の教室に張り詰める異様なピリピリ感も他の学校ではあまり見られないものだと思います」
そういうことか、と哲矢は思った。
確かに、授業中は真剣に教師の話に耳を傾けるクラスメイトがほとんどで、その熱量に哲矢は圧倒されたほどであった。
体験入学の生徒が転入してきたくらいで騒いでいる場合ではないのも頷ける。
「だから、気にしないでほしいんです。周りがどうだろうと……自分たちのすべきことをしてほしいんです」
「え……?」
「私はそう思います」
どこか鋭く見抜いたようにそう口にする花は、初めて感情を露わにしたように哲矢の目には映るのだった。
「……それじゃ、また明日ですっ! さようなら!」
「あっ……」
哲矢が『それは一体どういう意味なのか』と問う前に、花は手を挙げて校門へ向けて走っていってしまう。
なぜ、彼女は初対面の自分のためにここまで良くしてくれるのだろうか、と哲矢はふと思った。
訊きたいことはまだ山ほどあったが、今日は頭がパンク寸前であった。
(……まあいい。また明日訊けばいいさ)
色々と詰め込み過ぎるのも良くない。
陽はいつの間にか傾き、オレンジ色の斜陽がキャンパス全体に彩りを与えているのだった。