第84話 感謝のお見送り
「悪いね。ただ帰るだけなのに」
「いえ……」
それから哲矢は洋助を職員口の玄関まで見送っていた。
幸い、教員の出勤時間は過ぎているためか、その場には誰の姿もなかった。
「…………」
哲矢は革靴を履く洋助の背中をじっと見つめる。
清川から衝撃的な事実を聞いたにもかかわらず、彼はここでも一切何も訊いてこなかった。
相変わらず、肝心なことは一つも話せないまま別れの時を迎える。
「僕はこれから仕事に行くから。夕食はいるよね?」
「はい」
「夜もたっぷり作っておくから」
そう口にしてにっこりと微笑む洋助。
彼がなぜ何も訊いてこないのかは分からない。
けれども、哲矢には言わなければならない言葉があった。
清川に詰められた瞬間、哲矢の少年調査官としての立場は終わっていたかもしれなかったのだ。
それを洋助が庇ってくれた。
きちんと礼を伝えなければ、自分は人としての大事な何かを失ってしまう、と哲矢は思う。
「さてと……」
洋助は革靴に履き終え、スーツのポケットに入れた車のキーを探っているようであった。
(今しかないっ!)
そう思うと同時に、哲矢は足を一歩前に踏み出し頭を思いっきり下げていた。
そして、思いの丈を伝える。
「あ、あのっ! 本当に、ありがとうございました! その……勝手に、色々としてしまったにもかかわらず……」
必死で言葉を探す哲矢の姿を洋助は一瞥すると、玄関から差し込む朝の日差しに目を細めながらゆっくりとこう口にする。
「哲矢君たちは、生田将人は冤罪で捕まったんだと思っている。そうでしょ?」
「やっぱり……聞いてましたか」
「ああ。昨日宿舎に戻った後、美羽子君から聞いてね。正直、その考えには驚いたよ」
「…………」
「だから、証拠を見つけたくてクラスメイトに自分たちの正体を明かしたとか、そんなところかな?」
「…………」
「気持ちは分かるよ。だけど、僕らは家庭裁判庁の調査官という立場上、彼が冤罪で捕まったと考えて行動することはできないんだ。あくまでも僕らの仕事は少年が事件を起こした動機やその背景または生活環境などを調査することだから」
「美羽子君からも聞いたかもしれないけど、否認事件――つまり、少年が犯罪事実を否定していた場合、冤罪を証明するのは弁護士の仕事なんだ。だけど、今回、生田将人は犯罪事実を認めている。付添人も付けてなくて、弁護活動も望んでいないんだよ」
「哲矢君たちがやろうとしていることは、正直言って色々なことをすっ飛ばしてしまっている。明らかに少年調査官の職務を超越した行為だし、それで美羽子君も怒ったのかもしれない」
哲矢は、優しい口調ながらも鋭く指摘する洋助の言葉に背筋を正す思いだった。
きっと怒りたいに違いなかったが、それをせずにいてくれているのだ。
やがて、彼は自身の本音を口にする。
「……けどね、哲矢君。僕はこの前君が口にした言葉を忘れていないんだ。自分を変えるためにもう一度事件と真剣に向き合うって。本来なら立場上こんな言葉を言うのは絶対にダメなんだけど、でも……」
「僕は君たちを信じているから。自分たちの気が済むまで好きに色々やってみるといい。責任は僕がすべて取るから」
「風祭さん……」
洋助はそう口にして、職員口から切り取られた青空を見上げる。
外は昨日の大雨が嘘のように晴天に恵まれていた。
「……うぅっ……」
哲矢の瞳に淡い涙の膜が浮かぶ。
迷惑しかかけていないはずなのに、洋助はそれでも怒ることなく自分たちのことを信じていると笑顔で言ってくれた。
彼には感謝の気持ちしかない、と哲矢は改めて感じる。
「本当に、ありがとうございます……!」
「美羽子君には僕の方から言っておくよ。彼女は今、少しナイーブになっててね。言葉はキツかったかもしれないけど、彼女は別に哲矢君たちに悪意を持ってるわけじゃないんだ。複数の案件を抱えていてね。前も話したと思うけど、それでちょっと精神的に余裕がないんだよ」
「分かってます。藤沢さんのこと……すみませんがよろしくお願いします」
「うん。こんな状況だから色々と難しいと思うけど、信念だけは必ず貫くように。もし学園側からなにかされたりしたら、すぐに僕へ連絡してくれ」
「あ、風祭さん! 昨日もお話したと思うんですが、俺のスマホ……」
「ごめん、そうだったね。そっか、哲矢君のスマホ雨で壊れてるんだよね。うーん……なら、なにかあったらクラスメイトの子にでも借りて電話してもらえる? 川崎さんなら貸してくれるかな?」
「はい。その時は頼んでみます」
洋助はスーツの内ポケットからメモ帳を取り出すと、紙切れに自分の連絡先を書いてそれを哲矢に渡す。
「これ僕のスマホの電話番号だから。……よし。それじゃ僕はそろそろ行くよ。哲矢君、頑張ってね」
洋助は手を挙げると、今度こそその場から立ち去ってしまう。
光の中へと消えていく彼の後ろ姿を見て、哲矢の瞳に再び輝きの炎が灯った。
これからやろうとしていることは簡単なことではない。
とても危険で、あらゆる責任を伴うことである。
それでも、哲矢には成し遂げられそうな自信があった。
後ろには洋助がいる。
その事実だけで力は自然とみなぎってくる。
(本当にありがとうございます)
哲矢は彼の背中が小さくなって消えるまで頭を深く下げ続けるのだった。




